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杠葉がトレーにティーセットを乗せて戻ってくると、後ろから紫露がお茶菓子を持ってきた。
「梧くんからいただいた紅茶、とってもいい香りだったから、さっそく開けさせてもらっちゃった」
と杠葉が無邪気に微笑むと、梧は「どうぞ。気に入ってもらえたなら良かったです」と、どちらかといえば営業用の笑顔を浮かべ、敬語で返した。
杠葉に対しては敬語なんだな。と漠然とたまきは思った。年齢的には年上なのだから当たり前なのかも。と一人で納得していると、
「たまきさんもありがとう。お菓子はあとでみんなでいただきましょう。ご飯前だから、軽めのクッキーで我慢してね」
相変わらず、見惚れるほどの微笑みで杠葉が声をかけてきた。
「あ、いえ、ありがとうございます」
少し緊張しながらお礼を言うと、紫露が「どうぞ〜」といいながら、たまきたちの前にクッキーの入ったお皿を置いていく。
杠葉はティーカップに紅茶を注ぎ、そこに静かに時雨がやってきて注ぎ終わったティーカップをそれぞれの前に置いた。
「さあ、どうぞ」
と杠葉が言う。
杠葉もそのまま自分のティーカップを持って、品のある動きで香りを嗅ぎ、満足げに微笑んだあと、一口含むと「あぁ、美味しい……」と呟いた。
その杠葉の仕草の美しさと、それを微笑んで見つめる時雨の間に、甘い空気が漂う。
確かに時雨の顔は、この前と全く違う。
目尻が下がり、とろんと杠葉を見つめる瞳は、瞬きするたびにハートマークが飛んでいくようだった。
たまきはこれがきっと激甘モードだ!と胸中で叫びつつ、声を上げないよう口元を手で覆った。
「……俺たちもいただこう」
そう呟いた梧が、たまきに目配せした。我に帰ったたまきが梧と紫露の顔を見ると、二人とも呆れを含んだ表情で頷く。
たまきは二人に頷き返してから小声で「……いただきます」と言うと、紅茶を一口飲んだ。
「え……美味しい……!」
思わずたまきは声をあげる。華やかな紅茶の香りが口いっぱいに広がって、渋みが少なく、飲みやすい。驚いた顔でティーカップを見つめる。
一瞬驚いた顔をしたあと、梧がたまきを見て微笑んだのを、杠葉は見逃さなかった。
ふ、と口元を緩めて、しかしあえて気づかないふりをして「ね、美味しいでしょ?香りもとっても素敵」とたまきに言う。
「さすが、梧くんはセンスがいいわね」
と付け加えると、たまきは梧と杠葉の顔を交互に見ながら目をキラキラさせて何度も頷いたあと、ゆっくりと一口また口に含んで味わっている。
少し照れたように顔を逸らす梧を見て満足すると、たまきをしばらく微笑んで眺めたあと、杠葉は口を開いた。
「……急にお誘いして、びっくりしたでしょう?」
言われてたまきはティーカップを置いて姿勢を正す。
「え、あ、いえ。嬉しかったです。……あんまり、お呼ばれすることがなかったので」
たまきは照れながらそう答えた。こっちへくる前は約束なんかしなくても友達の家を行き来することはよくあった。だが、ここへきてからは、塾に行っている子もいるし、親が共働きだったりと、そうそう機会がなかった。
「っ、本当?だったら嬉しいわぁ!紫露ったらあんまりお友達連れてこなくて、寂しかったの。嬉しい!これからいつでもきてね、たまきちゃん!」
急に杠葉の顔がぱぁっと明るくなり、両手を振りながら早口でそう捲し立てた。落ち着いて優雅な雰囲気だった杠葉の変わりっぷりに、たまきと梧は面食らう。
「……ママ、たまき先輩とアオ君引いてるよ」
それに気づいた紫露がため息混じりにそう言うと、たまきはふと、違和感に気づく。さすがのたまきも、聞き逃せなかった。
「………………ママ?」
そうたまきが呟くと、紫露が「あっ」と声をあげ、両手で口を押さえた。みるみるうちに顔が青ざめていく。
それとは反対にたまきはもう、ニヤニヤが止まらない。
「ママ、なんだ……」
「なっ!ナシナシ!今の、ナシ!……母さん、母さんね!」
慌てて立ち上がると、今度は顔を真っ赤にし、紫露は大きな声で言う。梧は訝しげな顔をし、杠葉は口元に手を当て、あらあら、というように微笑んでいる。時雨は相変わらず、その杠葉しか見ていない。
「うんうん、わかるよ。霜槻のお母様、ママって感じだもんね。……ごめん、霜槻、もう一回言ってもらっていい?心悠に報告したい」
おもむろにポケットからスマホを取り出し、たまきが言うと、
「録音準備すなよ!心悠先輩は絶対やめて!」
と、紫露はさらに声のボリュームを上げる。
「あら?紫露、みんなの前ではママのこと、母さんって呼んでたのね?」
杠葉が乗っかると、紫露は脱力してソファーに崩れ落ちた。
「……やめて、母さん。俺が外で母さん呼びしてるの知ってるでしょ。傷口抉んないで……」
「んふふ、可愛いんだから、うちの紫露君はー」
嬉々として杠葉がいうと、
「……マジ、やらかした……」
ソファーに顔を埋めて小さな声で呟いた。
「……俺はママ呼びしか聞いたことなかったが」
とどめに梧がポツリと呟くと、紫露はさっと顔を上げて梧を睨むも、梧は全く意に介さず紅茶を飲んでいる。
紫露はすぐにまた突っ伏して
「……アオ君いるせいで、油断した……」
と、また、もごもごと呟く。
「俺のせいか?」
納得がいかない、と言う顔で梧がつぶやく。
「はいはい、紫露。お客様の前ですよ」
ソファーに沈んでいる紫露の背中をポンポンと叩いて、杠葉が言うと、のっそりと起き上がって深くため息をついた。
「ごめん、誰にも言わないって」
たまきがそう言うと、チラッとそちらに視線を送ってから、もう一度ため息をついて、
「ほんと、マジで。特に心悠先輩はダメ」
と、力を込めて言った。
「うん。ほんと、マジで。言いません」
紫露の抑揚を真似してたまきが答えると、少ししょんぼりしたまま、「たのんます」と力なく言った。
少しからかいすぎたかなと、たまきは内心反省したが、紫露の意外な一面をみれて良かったなと思った。
紫露が家族が大好きなのが、よくわかった。
杠葉はみんなのティーカップに紅茶を足したあと、
「たまきちゃんに会いたかったのには、もう一つ理由があるの」
と、言った。
たまきがきょとんとした顔で杠葉を見つめると、杠葉は時雨の方を一瞥した。時雨の表情がこわばる。
「……私もね、時雨さんとは前世で知り合いだったらしいんだけど……、私は全然覚えていないの」
そう言ってたまきに向かって微笑む。
たまきは驚いた表情で「えっ!?……そうなんですか?」と、時雨や紫露、梧の顔を次々に見た。全員、なぜか気まずそうな表情をしている。
「そう。たまきちゃんと一緒ね」
杠葉は微笑んでいるのに、なんだか場の空気が冷え始める。
すると時雨がゆっくりと腰を浮かせ、
「僕……、お昼の準備してきますね」
とぎこちなく微笑んで立ち去る。
「……俺も手伝おう」
「あ、待って。俺も……」
と、次々立ち上がって、キッチンの方へ向かい、男性陣はその場からいなくなってしまう。何事かとたまきがキョロキョロしていると、杠葉が苦笑した。
「もう。……怒ってるわけじゃないのに」
そう呟いてため息をつく。
事態が飲み込めず、たまきはわずかに身を縮めた。
杠葉は眉尻を下げて微笑むと、もう一つため息をついてから
「……ちょうどいいわ。女同士でしか分かりあえないこともあるしね」
と、軽くウインクしてみせた。
その仕草に、たまきの胸がキュンと鳴った。胸を押さえて倒れ込みたかったがなんとか抑え、杠葉の話に耳を傾ける。
「……時雨さんは大学の先輩なんだけど、初めて会ったときにね、突然腕を掴まれて“やっと見つけた”って言われたの。“僕と君は前世で出会っていたんですよ”なんて言うものだから……」
たまきは、“ここにいたのか”と梧に言われた時を思い出した。ふわりと風がたまきの頬を撫でていく。
時雨と杠葉の見た目なら、その瞬間はすごく印象的で、運命的なシーンだったに違いないと、たまきは少しドキドキした。
しかし、次の話を聞いてたまきは動きを止める。
「咄嗟に“突然腕を掴むなんて失礼です”って顔を引っ叩いて、時雨さんが怯んだ隙に走って逃げたのよ。……新手のナンパにしたって前世なんて信じられなかったし、私には身に覚えがなかったから。真面目そうに見えて頭がおかしい人だと思って……」
困ったような表情で、杠葉は「今考えても変なのにねぇ」と付け足す。
そんな第一印象から始まったのに、と疑問に思って、たまきは
「でも……結婚、したんですね?」
と、遠慮がちに質問した。
杠葉は、微苦笑を浮かべて「そうなのよね」と、自分でも不思議そうに呟いた。
「絶対変な人だと思ったのに、なぜか気になって仕方がなかったの」
それを聞いて、たまきは「なんか……わかる気がします」と、ダイニングテーブルに食器を並べている梧の方へ、視線を向けながら言った。
杠葉も同じように見つめてから、たまきに微笑む。
「……知れば知るほど真面目な人で、ナンパするために嘘をつくような人じゃなかったんだもの」
たまきは、恋愛の機微なんてよく分からないけれど、杠葉の表情を見たら、時雨のことが本当に好きなんだなと思えた。その表情をしている杠葉はとても綺麗で、嬉しそうで、何より幸せそうだった。
「……私は、前世の話は聞いてないの。今も詳しいことは知らないわ。知ってるのは、前世で知り合いだったのは時雨さんだけで、梧くんや他の人の前世とは関わりがなかったってくらいかしら」
「…………気に、ならなかったんですか?」
そう言うと、はぁ、とため息をついて、杠葉の顔が曇る。
「そりゃあ気になるわよぅ。…………でも、前世の私とはいえ、私が覚えてない、知らない女性よ?その人との思い出が、時雨さんの中にはあるの。……世界を超えても再会したかったくらい、素敵なね」
そう言う杠葉は少し悲しげに微笑んだ。
けれどすぐにパッと顔を上げて、いつもの笑顔に戻る。
「あの人たち、いつも私が頑なに聞きたがらないから、たまきちゃんに前世の話を聞かせたこと、怒られるとでも思ったのね」
ふふ、と笑って、杠葉は少し冷めた紅茶を飲んだ。
たまきには、その横顔が少し寂しそうに見えた。
その杠葉の気持ちがどんなものなのかはわからない。
だけど、ほんの少しだけ、想像できる気がした。
もし、……もしも、たまきが梧のことを好きになったとして、梧の記憶の中にあるハルに、たまきが敵わなかったら、…………いや、きっと敵わないだろうけど…………。そうなのだとしたら、梧がたまきのことを好きになることはないのかもしれない。
たまきの胸の奥が、締め付けられた。
「勘違いしないでね、私は幸せよ。そんな顔しないで」
たまきの表情が暗くなったのを、見逃さなかったのだろう。杠葉は指先でたまきの頬に触れた。
たまきはぎこちなく微笑んだ。
「わたし……、梧さんが自分に似ていると思ったんです」
そう切り出したものの、たまきは次の言葉をためらった。……口に出すのには勇気が必要だった。……気を遣わせるかもしれない。
「……そうなのね」
優しい声で、杠葉が相槌を打つ。
いつの間にか俯いていた顔を上げると、杠葉はゆっくり頷いた。
大丈夫、と言われているみたいだった。
「……誰かが死んで、……自分のせいなんじゃないかって、思う気持ちが、……わかる気がしたんです」
たまきがこれだけのことを話すのに、こんなに勇気がいるのに、梧はどうだったんだろうと、ふとよぎった。
「でも、きっと、梧さんは私より苦しかったんですよね」
梧の前世は、カザネは、大好きな人とその人との子供を失った。しかも、目の前で殺されて。……失意のうちに、自らも死んでいった。
その悲しみを、無念を、わかる気がするなんて、どうしてたまきは思えたんだろう。
「どっちの方が苦しいなんて、どうやって比べたらいいのかしらね」
杠葉の言った言葉に、たまきは顔を上げた。
杠葉は微笑みながら、
「さ、お昼にしましょう。準備ができたようだから」
と言った。
準備を終えた三人が、キッチンの方からこちらを見ていた。話に夢中で気が付かなかったが、あたりには美味しそうな匂いが漂っている。
「下準備はしてあったから、あとはオーブンで焼いたり、温め直すだけだったの。みんなが仕上げてくれたわ」
杠葉は、たまきの背中を押してダイニングテーブルまで連れてくる。
テーブルの上には、五〜六品ほどの料理が所狭しと並んでいて、たまきは「すごい……」と感嘆の声を上げた。
「どうぞ」と梧が椅子を引いて、たまきはテーブルの上に目を奪われながら座った。
それぞれが席につき、杠葉と時雨が料理をそれぞれに取り分ける。
「いっぱい食べてね」
と言ったあと、「それじゃあいただきましょう」と杠葉が言うと、みんなが口々に「いただきます」と言って食事を始めた。




