5
梧たちの会社は、都市部に近い高層ビルのワンフロアにあった。たまきとしては商業用施設以外の高層ビルに入ったことがなかったので、来客用の入館証でエレベーター前の改札のような入り口にタッチすることも、忙しなく行き来する会社員たちに不思議そうな目で見られながらエレベーターに乗ることも初めてだった。
紫露も会社に来たことはなかったらしく、遠慮がちながら辺りを見渡してソワソワしていた。
運転してくれた社員の案内で応接室に通されると、紫露とたまきはソファーに並んで、浅く座って静かに待った。
持ったままぬるくなってしまったカフェの飲み物は回収され、代わりに氷入りで甘い香りのアイスティーがストローと共に運ばれてきた。運んできた女性社員の方がにこりと微笑んで出ていくと、少し間をおいて紫露がソファーの背もたれに体を預けて深く息を吐いた。
「キンチョーしたぁ……」
紫露が言うと「……私も」とたまきも苦笑いで返す。
紫露は体を起こし、入館証を首から下げ姿勢を正して自慢げにポーズを取っておどけて見せた。たまきがほっとしたように笑ったのを見て紫露もほっと一息ついて、アイスティーを一口飲む。続いてたまきも一口飲んで「ありがと」と言ったのを聞くと、紫露が「なんのことっすか?」と照れたように言ったのでたまきはふふっと笑ったのだった。
少し経って、時雨と梧が部屋に入ってきた。
ほとんど間を置かずに二人分のコーヒーを持って社員が入ってきたが、時雨がそれを受け取り、緊急でない限り声をかけてこないように言って人払いを頼んでいる。
二人が入ってきて自然とたまきと紫露は姿勢を正す。
時雨はコーヒーを梧の前と自分の前に置くと
「待たせてすみません」
笑みを作ってそう言った後、スーツの上着のボタンを外してコーヒーを飲むと一つ息を吐いた。
梧はコーヒーには手をつけないまま、太ももに肘を預けて手を組んだ姿勢で落ち着かない様子だ。そんな梧を横目で見てから時雨はもう一口コーヒーを軽く含んで唇を湿らせる。
「……二人の話では要領を得なかったでしょう?」
両手をそれぞれ梧と紫露に向けてそんなふうに言った後、目を丸くしたたまきと目が合うと少しイタズラっぽい笑みを見せた。その顔が紫露によく似ていて、たまきは緊張していた表情を緩める。
それを確認して時雨は頷き、
「かいつまんで話すつもりですが、長い話になります。……先ほども言った通り、楽しい話ではありません。それでも聞きますか?」
努めて柔らかな表情を作りながら、時雨は念を押した。
不安げな梧の表情と緊張感の漂う紫露の顔をそれぞれ見てから、たまきは息を深く吸って覚悟を決めたように「はい」と答えた。
時雨は微笑む。そして一度目を閉じてからゆっくりと開くと、話し始めた。
「私たちがかつて前世で暮らした国は、現世ではどの歴史書にも残っていないし、記録もありません。この世界にあるすべてを確認したわけではありませんが、おそらく私たちの記憶の中だけにある架空の国のようなものです。東洋の文化に近いとは思いますが……、まぁ、流行りの“異世界転生”とでも思って聞いてください」
時雨はそう言って苦笑いを見せながら、静かで落ち着いた口調で言った。
続きを話し出そうとする時雨の呼吸に合わせ、部屋の中に緊張感が満ちていく。たまきは固唾を飲んで物語の始まりを待った。
「梧の前世の名はカザネ、私はサギリと言いました。カザネ様はその国の第一王子で、一方の私は平民出の下級騎士。本来なら王子に仕えるなど縁のない身分でした」
時雨の声以外は部屋の中はとても静かだった。隣に座る紫露が姿勢を正し、太ももの上に乗った手を握ったのが衣擦れの音でわかった。
紫露も緊張しているようだ。……紫露も前世のことをほとんど知らないのかもしれない。横目で見た紫露の真剣な顔は、彼も前世のことを知りたいという切実さが表れていた。
「カザネ様は呪いによって醜い容姿で生まれたとされ、王族の住まう内殿の奥に建てられた御殿に幽閉されて育ち、王と王妃以外、五つ下の弟君もカザネ様の姿を知らなかったそうです。カザネ様は式典にも出られず常に顔を布で隠して過ごされていました」
時雨の視線はしばらくテーブルに向いていたが、その瞳は遠くを見つめ始め、ここではないどこかを映しているようだった。
「前任の従者は訓練所時代の先輩だった怠惰で傲慢な男で、私は何度か彼の代わりに書物庫から指定された本を借りて御殿に届けさせられることがありました。カザネ様本人と会ったことはありませんでしたが、そうしているうちに御殿の使用人たちと顔見知りになり、ある時、御殿の女官が「カザネ様がいない」と私に助けを求めてきたのです」
時雨は少し不機嫌そうな顔を作りそう言った後、片眉をあげて何か言いたげな目で梧に視線を向ける。騒ぎを起こしたことを嗜めるような意味だろう。梧はバツが悪そうに視線を逸らした。
それを見てふっと微笑んだ後、時雨は続ける。
「私はすぐに行方を追って城下町へ出ました。町外れの方向へ子供が向かっていたという証言を得てそちらへ向かうと、そこで旅人のスイという人物に出会い、導かれて森の木々に埋もれて建つ一軒の家に辿り着きました」
「スイ……」
ほとんど無意識に、たまきがその名を繰り返す。
時雨と梧が少し驚いた顔でたまきの方へ視線を向けたが、たまきは二人の様子に気づかずに胸の辺りをそっと撫でた。
何も思い出せないがたまきは一瞬胸のあたりに温かいものを感じたのだ。しかしその後に身を縮めたくなるような緊張感が背筋に走って一度ふるふると首を振った。
時雨はそのたまきの様子をしばらく見つめ、タイミングを計りながら慎重に次の言葉を継いだ。
「……そこには子供が二人いました。一人はスイの旅の連れであるハルで、もう一人は頭巾のついた外套を着た少年でした。彼は眉目秀麗で大人びた顔つきをしていたので、私はそれがカザネ様であるとはすぐには気づけませんでした」
顔を上げたたまきと、時雨の目が合う。
時雨は呆れたような表情で肩をすくめて見せ、
「カザネ様が呪いで醜い容姿だと言うのは嘘だったのです」
とため息をついた。しかしすぐに微笑み、
「ともかく、そこで初めてハルとカザネ様は出逢ったようでした」
そう続けた後、梧の方へ視線を投げる。つられて、たまきも梧を見つめた。
「出逢った瞬間に立ち会ったわけではありませんから、その時カザネ様が何を想ったかは知りませんが、カザネ様は……ハルをはじめから気に入っていたと思います」
それを聞いて梧は口元を撫でて息を深く吸った。たまきからの視線は感じつつも、視線を合わせないようにしながら息を吐くと
「……人の髪の色を見て、青毛の馬のようだと言うから……。面白いやつだとは、思った」
と時雨の説明に付け足す。
それを聞いて時雨はふっと笑った。
「その後、私は紆余曲折ありつつもカザネ様の従者として抜擢されました」
氷が溶け始めたグラスを少し揺らしてから、時雨はコーヒーを一口飲んで再び口を開く。
「……呪いが嘘だとわかっても、身分の低い私には何もできません。……だからこそ、カザネ様がその後も御殿からしばしば抜け出すのを強くは止められませんでした」
「カザネ……さんはどうして幽閉されていたんですか?」
たまきが疑問を口にすると、時雨は深くため息をついてから答えた。
「……カザネ様の見た目は王家のものと全く異なっていました。代々王家は栗色の髪に赤みの強い茶色の瞳で、カザネ様の弟君も同じ色です。しかし、カザネ様は光がさすと青く見える夜空のような漆黒の髪と瞳でした」
それを聞いて、たまきは驚いた顔で梧の黒髪を見つめた。一瞬だけ見えた、青く輝いた黒髪の幻覚が幻じゃなかったのかもしれないと思った。
怪訝そうな顔で見つめ返す梧の視線に気づいて、たまきは首を横に振りながら「あ、いえ……」と言って、時雨の方へ向き直ると、続きを促すように頷いた。
時雨も少し驚いたような顔をして、梧とたまきの顔を交互に見たが、何もわからないまま頷き返す。
「……カザネ様の容姿は、かつて王家が滅ぼした一族と同じものだったのです。歴史上、彼らは“蛮族”と呼ばれ、武力と略奪で民を脅かしていた醜悪な一族として、王家が民を守るために滅ぼしたと言われていました」
「……それが嘘だったんだな」
そう言ったのは紫露で、珍しく口調もキツく、怒っているようだった。
時折、不満そうに口を尖らせたり、ふざけて怒ったように頬を膨らませたりしたところは見たことがあるが、少なくともたまきは紫露が本気で怒ったところは見たことがなかった。
紫露が強く拳を握り込んだのを見てたまきは咄嗟にその手に自分の手を重ねる。「霜槻」と静かな声で呼んで、顔を覗き込むと、紫露は驚いた表情でたまきを見つめ返した。
ようやく我に帰ったように表情を緩ませると息を吐いて、紫露は「すんません」と言ってぎこちなく笑った。
たまきはほっとしたように微笑んで、軽く紫露の手を叩いて手を離す。紫露が叩かれた拳を緩めたのを、時雨は何も言わずじっと見つめた後、続けた。
「……実際の彼らは容姿端麗で叡智に富んでいたという話です。彼らが治めていた平和な土地を王家が奪い、自分たちを正当化するために歴史を改竄した。後ろ暗いことがあるからこそ、彼らと同じ容姿をした子供が生まれたことを呪いだと思ったのでしょうね」
それを聞いて梧が自嘲気味に鼻で笑う。
「……略奪と虐殺の上、血を混ぜた輩もいたんだろう。見た目が似ていなかったとはいえ、奴らの血の方が濃いなんて今でも虫唾が走る」
投げやりな口調で梧は言うと、深くため息をついた。
痛みを堪えるように顰めた梧の顔をしばらく見つめた後、時雨は突然その頬をつねった。
「いっ!?……何をするんだ!」
驚いて時雨の手を叩き落とすように振り払って、梧は声をあげた。目を丸くしたまま時雨を見つめたが、それを微笑みで躱し、
「……なんでもありません」
とだけ時雨は答え、座り直してその様子に面食らっていたたまきたちに微笑み、薄まったぬるいコーヒーを飲み干した。
「……は?なん……?」
梧は困惑の表情を浮かべ、つねられた頬に手を当てている。時雨はそんなことをあまりしないのだろう。紫露も驚いた顔のまま固まっていた。
たまきはその状況にはじめは驚いていたが、思わずふふっと笑ってしまった。
普段の時雨は知らないが、紫露も同じようなことをしたことがあった。沈んでいる人にわざとちょっかいをかけて気を逸らさせるようなことを。きっと時雨も同じだ。梧に前世の辛かったことをもう気にさせたくないのだと思った。
時雨は梧や紫露の戸惑いは無視して、たまきに微笑みかけると再び口を開いた。
「最初にカザネ様とハルが出会った家は、スイの昔馴染みのゼンという男が管理していて、スイとハルが旅の途中に立ち寄るための宿にしていました」
「ゼン……?」
スイの時と同じように、たまきの胸に灯りが灯るような気配があった。時雨の瞳を見つめると、
「今更隠すようなことでもないので言っておきますが、カフェに若い男性店員がいたでしょう?あれがゼンです。今の名前は森庵緝。薬学部に通っている大学生で、彼にも前世の記憶があります」
ニコリと笑って時雨はそう付け加えた。
紫露があっ、と声を上げた。
梧と親しげに話していた男性店員のことを思い出し、合点がいったのだ。梧に無断で商品を追加したり代金を払ったりしていたのは前世からの関係があったからなのだろう。紫露たちを見て驚いたのも、もしかしたら二人の前世が見えていたのかもしれない。
「スイやハルのような旅人を、私たちの国では風のものと言いました。旅から旅を繰り返し、明確に目的地も持たず一度旅に出てしまえば、もしかしたらもう二度と戻らないかもしれない旅人です。実際、スイもハルを拾うまではゼンの宿を十数年、訪ねなかったこともあったようです」
たまきに風が吹き込むような感覚があった。風と共に揺蕩う自由さと、吹けば揺らぐような心許なさを感じた。
時雨は話を続ける。
「ハルを連れるようになってから、スイは前より頻度を増やし、数年に一度は冬越えにその宿を使うようになったようです。ハルは物おじしない少女で、スイやゼンから教わってなんでもよく覚えていました。薬草や毒草の違い、煎じ方、植物の植生、動物の生態から逃げる方法、木登り、旅に必要となるサバイバルの知識から、店での値切り方なんてものも。カザネ様は秋の頃に森で、そんな話を聞くのが楽しかったようです。秋から冬に滞在するとわかると、その期間カザネ様と私は御殿を抜け出しその宿をよく訪ねました」
時雨はため息と共に、表情を暗くした。
「ただ、私やスイ、ゼンは二人が親しくなることに、内心では危惧していました」
「……なんで?」
紫露が問う。質問されると思っていなかったのか少し驚いたような顔をした後、時雨は目を細めて苦笑いをした。
「……カザネ様は国を出れない王族で、ハルはもう戻らないかもしれない旅人です。住む世界が違いすぎる。親しくなればなるほど、埋められないその差に気づいて苦しくなるだろうと思いました」
穏やかな声で諭すようにそういうと、納得したのか紫露は黙ったまま俯いた。
「それに、カザネ様が外に出ること自体も危険です。王家に隙を与えることにもなりかねない。カザネ様の救いになっているとはわかっていても、いつかはけじめをつけさせなければいけないと思っていました。
……重ねてゼンはカザネ様と同じ、かつて王族に滅ぼされた民の末裔でした。ゼンは私たちに歴史の真実を話してくれましたが、彼自身、王家に知られれば何をされるか分かりません。だからこそ、森の奥でひっそりと暮らしていたのですから」
話の行き先に急に不穏な影が見えた気がした。これから起こることがなんとなく想像できる気がして、たまきも紫露も緊張した。




