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風の行く先  作者: 遥ゆとり
2章 高校編

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 学校内では少しずつ心悠フィーバーが薄れてきた九月の半ば、たまきにとっては高校最初で最後となる、10月の文化祭に向けて、準備が進み始めていた。

 たまきたちのクラスはレトロな喫茶の予定だ。

 準備のために、衣装班、調理班、大道具班、会計・総務などに分かれて放課後を中心に作業を進めている。

 たまきと心悠は調理班を希望したものの、当日、短時間でもいいから給仕役として参加するように言われた。

 インターハイの後、散々騒がれた心悠は辟易していたが、当日の投票による出し物人気NO.1の座を「たまきに献上しなくていいのか、最速の女王!」と煽られて渋々承諾した。

 そして、なぜかたまきも「心悠が頑張るのに、何もしないわけにいかないよね?」と道連れになった。

 なにせ給仕班の班長はよっちんだ。クラスに所属する陸上部のメンバーは全員駆り出された。

「くそ~、よっちんのやつ。人の弱みに付け込んでェ」

 パンケーキの素を混ぜながら、心悠は言った。

「みんな何でか気合入ってるからね……。仕方ないよ、一緒にがんばろ?」

 たまきが笑うと、心悠はそれを見て、諦めたようにため息をついた。

「まぁ……高校最後の文化祭、楽しみたい気持ちはわかるから……、やりますけど」

 言っている心悠を肘で小突いてたまきは微笑むと、フライパンの準備を始め、肩をすくめて心悠もその準備を手伝う。

「あ、そうだ。心悠、今週末空いてる?」

「うん、空いてるよ」

「あ、じゃあさ……、私と出かけない?」

 準備を進めながらも、たまきは伺うように上目づかいで心悠のことを見た。

 その顔を見て、心悠は胸を押さえ込んで「くっっ、何その可愛い顔……」と悶えて見せ、たまきは「もう!」と軽く心悠の腕を叩いた。

「もちろん、出かけたい。ずっとたまきと出かけたかったもん」

「……やった。じゃあ、週末ね」

「うん」

 たまきと心悠は、少しはにかみながら顔を見合わせて笑った。


 ――――――――――――――


 週末たまきたちは待ち合わせをして、遊びに繰り出した。

「今日は、心悠のお祝いだから、心悠の行きたいところに行こう!」

「え?いいよ、お祝いなんか!一位だってたまきのおかげで取れたようなもんだし」

「だぁめ!私がお祝いしたいの」

 食い下がるたまきに、心悠は困ったような顔をしたが、ふっと笑って「じゃあ……」と、たまきの腕を引いた。

「わっ」

「一日付き合ってもらおうじゃないの!」

 いたずらっぽく笑って、心悠はたまきと腕を組んだ。

 たまきは驚いた顔をしたけど、すぐに破顔して「望むところ!」と返した。


 服にカバン、小物にとショッピングから、店頭でテイクアウトできる映えるスナックや食べ物、飲み物と、巡りながら、たまきと心悠は、久々の二人きりのお出かけを楽しんでいた。


 ――――――――――――――


 同日、梧は朝から落ち着かず、そわそわしていた。

 数日前、霞から、ネックレスが出来上がったという連絡が入ったからだ。

 ただ受け取りに行くだけだというのに、クローゼットの前で着る服に迷い、ジャケットに、カジュアルめなネクタイまで合わせた。

 

 Fri Vindの本店に着くと、霞が梧を出迎えて、梧は目を丸くした。

「あら……、あなた今日のうちに渡しに行くの?」

 梧の服装を上から下まで眺めて、霞も驚いた表情を見せた。

「あ……いえ、そうじゃないんですが……。って、霞さん、何でいるんですか?」

 スウェーデンに帰ったはずの霞がこの場にいることに驚きながら、梧は霞を見つめる。

 霞はふふんと顎を上げて微笑み、梧を引き渡しのカウンターに案内しながら、

「私が指揮して最高の品に仕上げたのよ?最後まで責任を持ってお客様に提供するのは当然でしょ?」

 と、得意げに言った。

「……そうですか」

 梧は、霞が単純に梧の反応を楽しみに来たのではとも思った。まぁ、もちろん、それだけのために帰国するとは考えづらいから、何かの打ち合わせもあるのだろう。

 霞も割とかっちりとしたセットアップに、肘まである手袋をしている。このまま、形式ばった会食にでも行けそうな服装だった。

 

 すっかり緊張している梧を横目で見ながら、霞はカウンターの前で足を止めた。

 ほどなくして、スタッフが落ち着いた足取りで近づいてくる。

 手しているのは、ベルベットトレイ。

 そこには、オーダーしたネックレスがそっと載せられていた。

 霞はそれを受け取ると、強張った顔の梧の方へ傾け、そのネックレスを見せた後、カウンターに置いた。

 梧はネックレスに釘付けになっている。

 霞はふっと微笑んだ後、カウンターにあった首元だけのミニトルソーを引き寄せた。

 ネックレスをそっと持ち上げ、トルソーにかけた。

 翼の根元あたりに付けられたエメラルドの宝石が、きらりと光って揺れる。

 梧は息を呑み、それを見つめたまま固まっている。

 霞はその瞳を見て、満足そうに微笑んだ後、

「いかがですか?お客様」

 と、穏やかに聞いた。

 梧が我に返り、ぼんやりとした顔で霞を見た。

「……え、あぁ……。素敵です。想像以上に」

 我に返った梧がそう言って、またネックレスに視線を戻した。

 霞は笑いそうになるのをこらえつつ、手でネックレスを指し示し、

「トルソーですと、やや首元が詰まった印象に見えるかもしれませんが、お相手の方は小柄とのことでしたので、実際には鎖骨の少し下あたりで、デコルテにきれいに沿う長さになるかと思います。もしお渡しした後に長さの調整が必要でしたら、いつでもお申し付けください。すぐにお直しさせていただきます」

 努めて、仕事用の口調で梧に説明した。

 梧はまだネックレスから目を離せないままで、「はい……」と答えた。

 この瞬間が、とても心地いい。と、霞は思った。

 霞とほかのスタッフは、お互いに小さく微笑み合い、頷く。

 そして、梧の気が済むまで静かに待った。

 しばらくして梧がゆっくりと口元を撫でる。

 それを見た霞が、「手に取ってみる?」と、声をかけた。

「え?」

 梧は驚いて、弾かれたように霞を見た。

 ネックレスを横目で確認し、緊張して汗ばんだ手をスラックスで拭った。

 だが、すぐに首を横に振った。

「いいえ。……やめておきます」

「そう?」

 ふふっと笑った後、霞はトルソーから慎重にネックレスを外し、ベルベッドトレイに戻すと、スタッフに渡して梱包を頼んだ。

 梧に椅子を指し示し、座るように促すと、自分もそちらへ移動する。


「で?いつ渡すの?」

 椅子に腰を下ろすなり、霞は訊いた。

「……あまり、考えていなかったんですが……。特別なものになってしまったので、卒業か……大学に合格した頃に渡せればいいかと……」

「あら、そんなに先?つまらないわねぇ」

「……つまらないって……」

 困ったような顔で梧が繰り返すと、霞が笑う。

「まぁ、特別なときっていうのも悪くはないけれどね。渡したいと思ったら、いつ渡してもいいわよ。日頃の感謝の気持ちだとか、理由は何でもいいの。卒業式や大学の入学の時に付けてくれとか言ってね」

「……そういうものでしょうか」

「ええ。辛い受験勉強の合間に眺めながら、それが励みになって頑張れるかもしれないでしょ?」

 そこへ、スタッフが小さなジュエリーボックスに収めたネックレスを持ってやってきた。

 梧に中身を確認してもらってから、リボンで飾り付けられる。

 ショッパーに収められ、霞がそれをスタッフから預かると、優雅な動きで手のひらを出入り口に向けた。

「せっかく今日はそんなに綺麗な格好しているのにねぇ」

 出入り口まで歩きながら、霞が、まるで今日渡したらいいのにと言わんばかりのセリフで、いたずらっぽく笑った。

 梧は首をすくめ、

「さすがに……日を改めさせてください」

 と、緊張して強張らせた顔で答えた。

 霞はふふふと笑って「ええ、もちろん、あなたのタイミングでいいわよ」と、言ったので、梧はほっとする。

 出入り口で霞が梧にショッパーを差し出すと、やはり緊張した手の汗を拭った後、慎重に受け取った。

 胸元にそれを寄せて、大事そうに抱えると、梧は霞の顔を見た。

「霞さんはこれから仕事ですか?……必要なら送りますが」

「あぁ、軽く打ち合わせと会食があるんだけど、その送り迎えは時雨に頼んでいるの。……でも、そうね。ホテルまでは送ってもらおうかしら」

「……じゃあ、車を回してきます」

 柔らかく微笑んだ梧は、軽く会釈をして店を出て行く。

 それを満足げに眺めて、霞は準備のために店の奥へと戻った。


 ――――――――――――――


「っは~、食ったし買った~」

 心悠は立ち寄った公園のベンチにもたれて、お腹を撫でながら満足そうに言った。

「よかった。楽しんでもらえたみたいで」

「楽しかったよ。なんか中学の時思い出した。」

「あの時はもう合格決まってたけど、今はまだまだだよ?心悠は推薦で行けるだろうけど、私はまだ先が長いや」

 たまきは少しだけ沈んだ顔でため息をついた。

「……たまきなら大丈夫だよ」

「そーかなぁー?」

「いつも言ってるでしょ?たまきは絶対、大丈夫だから。私が保証する」

 たまきはそれを聞いた瞬間、目の奥がじんとした。

 別に泣くようなタイミングでもないのに、たまきはその言葉に弱かった。

 部活で緊張していた時、手術の直前、梧が託された心悠からのメモにも書かれていた言葉は、いつもたまきを安心させて、勇気をくれる。

「ねぇ~、泣くタイミングじゃないんだけどォ~」

 心悠がたまきの背中を撫でながら言う。心悠から顔を逸らしたたまきが「だってぇ」と弱々しい声を上げた。

 あははと心悠は笑い声を上げながらも、背中をさする手を止めない。

 しばらくそうした後、たまきはようやく涙を拭って顔を上げ、

「私が、理学療法士になろうと思ったのはね。私みたいな病気の人を助けたいと思ったからもあるけど……」

 と、まだわずかに潤んだ目で心悠を見つめた。

「ん?」

「心悠が一生、走り続けてくれるって言ったからだよ」

「え?」

「それに、何か私が返せるものがないかなって思ったからなの」

 心悠が真剣なまなざして、たまきの顔を見つめ返す。

「……心悠が一生走るなら……、私は……」

 そこでたまきは、一瞬ためらったように視線を迷わせた後、

「……私の生きている限り、心悠を支えるから」

 と、続けた。

 心悠はそれを聞いた瞬間、保っていた表情が崩れ、泣き出しそうに歪んだ。

 必死にこらえようとたまきから視線を逸らし、鼻を軽くつまんで奥歯を噛み締めるが、耐え切れずに肩が揺れる。

「……そこは、”一生”って言ってよ……」

 必死に笑顔を作りながら、震える声で心悠は言った。その笑顔はきっといびつにしか見えないだろう。

 たまきは「ごめん、ちょっとヒヨっちゃった」と言って、眉尻を下げたまま、笑顔を返す。

「ほんと、マジ頼むから」

 心悠はそう言って、たまきの肩を軽く叩いた。

 

 平気な顔で毎日を送っているたまきだけれど、癌患者のほとんどがそうであるように、5年生存の呪いを抱えて生きている。

 よく耳にする5年生存率はただの目安に過ぎないし、5年を過ぎたからといって安心できるわけではない。

 ただひたすら、再発と死への恐怖と、ずっと戦い続けなければならない。

 心悠の言った”おばあちゃんになるまで”は、その呪いを打ち破りたいと願いを込めたものだった。

 心悠でもたまきのためにできる、言霊という魔法。

 だけど、たまきは嘘でも”一生”を口にすることをためらった。

 そのことが、心悠の心に現実として深く、突き刺さった。

 耐え切れず、心悠の瞳から涙がこぼれる。

「……たまきは、()()、大丈夫だから。私が、保証して見せるから……」

 心悠はたまきの服を引っ張って引き寄せる。

 たまきも心悠の背中に腕を回して、背中を撫でながら、

「うん、うん。ありがとう。心悠に愛されて、私は幸せ者だなぁ」

 と、たまきが言う。

「あ~、悔しい。こんなに愛してるのにィ」

 洟を啜りながら、心悠は自分の愛が伝わらないと言わんばかりに悔しがり、たまきの肩に顔をうずめる。

「えぇ?私だって心悠のこと愛してるけど?」

 言うと、心悠は顔を上げ、たまきの両頬をつまんで引っ張った。

「ひはい!(痛い!)」

 たまきが声を上げると、

「じゃあ、私を泣かせないでよ。一生って思ってて」

 睨みつけるような視線でたまきを見つめ、強めの口調で言った。

「ひゃい……」

 心悠が手を離すと、たまきは自分の両頬を撫でた後、心悠に向き直った。

 軽く息を吐いて、心悠の両手を持つと、

「……一生、心悠を支えます」

 と、真面目な顔で言った。

「……よし!」

 それを聞いて、心悠も真剣な顔で答えると、一瞬間を置いて、二人は笑い出した。

「よしって……」

「……ごめ、つい……」

「そこは……、私もって、言うところ……」

 二人は笑いながら、途切れ途切れに会話をする。

 はぁー、と心悠は息を吐いて整えた後、先ほどのたまきのように、真正面から見据え、その手を取る。

「……一生、たまきのために走ります」

 その真面目な顔を、たまきは受け止めたあと、やっぱりこらえきれずに顔を逸らして吹き出した。

「笑うなってぇ~」

「ごめっ……、さっきのよし!って思い出しちゃって……」

「まぁいいけど?笑うと健康にいいって言うし」

 そう言うと、二人はまたベンチの背にもたれ、空を見上げた。

 しばらくそうして、流れる雲を見つめた後、

「……帰ろっか」

 と、心悠が言った。

「そうだね」

 たまきが腰を上げ、心悠も立ち上がった。

 本日の戦利品の袋をまとめて持った時、たまきが「あ」と声を上げた。

「どうかした?」

「あ、ううん。……参考書買おうと思ってたんだけど、忘れてたと思って。心悠、先帰っていいよ。私、本屋さん寄ってから帰る」

「付き合おうか?」

「いいよ。心悠、インハイの後からゆっくり休めてないでしょ?今日も私が連れまわしちゃったし、帰って休んで。また来週から文化祭の準備も続くし。私も買ったらすぐ帰るから」

「連れまわしたのは私だけど?……でも、お言葉に甘えよっかな」

 言って、心悠はうんと伸びをし、たまきも「そうして」と頷く。

 たまきと心悠は別れ、たまきは本屋に向かった。


 ――――――――――――――――


 梧は霞を後部座席に乗せ、ホテルに向かっていた。

「……杠葉さんの様子は、どうですか?」

 梧の質問に、流れていく窓の外の景色を眺めていた霞は、梧に視線を向けた。

 軽くため息をついて、

「普通に生活してるわ。うちの子たちの面倒を見てくれたり、ヴィヴィと出かけたり……この前は二人で写生にも行ったんじゃないかしら」

 と、答え、また窓の外へ視線を戻す。

「……帰りたくはないようですか?」

「どうかしらね。今は考えないようにしているんじゃない?」

 外を眺めたまま、霞は軽い口調で答えた。

「……そう、ですか」

 そう言ってから、梧は黙り、霞もそれ以上何も言わなかった。

 車の中は静かなまま、車はホテルの前に到着し、梧はいつものように霞の座っている後部座席の方へ回ると、ドアを開け、手を差し出す。

 霞は梧の差し出した手を取り、ゆったりとした動きで車を降りる。

「……あんまり気にすることないわ。時雨の様子は見ておくし、杠葉ちゃんにも折りを見て伝えるつもりよ。あなたはあなたのことに集中しなさい」

 そう言って霞は微笑む。

 梧は、先ほど受け取ったネックレスを置いた助手席に視線をやると、照れたような表情で、「……はい」と素直に頷いた。

「……それをつけた時の彼女の反応、楽しみね」

 と、茶化すように霞が付け加えると、梧は珍しく顔を赤くして、口元を押さえる。

 霞は満足げな表情で、ホテルのドアアテンダントの方へと視線を向けた。

 ドアアテンダントが優雅な動きでお辞儀をしながらドアを開けたのを確認してから、霞は梧の手を離して、颯爽とホテルの奥へと消えていく。

 それを見送って、梧は車に戻り、帰路についた。


 ――――――――――――――――


 たまきは、本屋で参考書を買った後、帰路についていた。

 ふと、見覚えのあるホテルの近くを通り、たまきは足を止めた。

 以前、女性を助け、紅茶をごちそうになったホテルだった。

 何となく、あの女性は元気でいるだろうか。なんて思い返してから駅へ向かおうとしていると、見覚えのある車がホテルの方へと向かって行った。

 梧と同じ車の車種だった。

 ナンバーを覚えているわけではなかったし、珍しい車種でもなかったから、そうじゃなないかもしれない。

 だけど、気になって再び足を止め、何となく吸い寄せられるようにそちらに、足を向けた。

 車はホテルの前で止まる。

 

「あ……」

 たまきは思わず声を上げた。

 運転席から降りてきたのは、梧だった。

 いつもたまきと出かける時とも、会社に行くときのスーツとも違う、でもちゃんとした服装で、ジャケットとネクタイも締めていた。まるで、特別なデートに行くときの服装みたいに。

 何となく、たまきの胸に、じわっとした不安が広がっていく。

 このままここで、見ていては行けない気がしているのに、目が離せなかった。

 梧は、たまきが車で送ってもらう時のように、反対側に回り、後部座席のドアを開けた。

 そのまま、中にいる人に手を差し出す梧を見て、心臓が不安で脈打つのを感じる。


 —————……嫌だ。

 

 帰らなきゃ。見ちゃダメ。そう思うのに。

 

 ……梧の手を取って出てきたのは、いつかの、たまきが助けた素敵な女性だった。

 

 品のある優雅な動きと、微笑をたたえた余裕のある表情、素敵なセットアップのドレス。

 身長差も、スタイルも、二人はとてもお似合いに見えた。

 たまきは、半歩、後ずさった。

 声が聞こえる距離でもない、だけど、思わず息を詰めて、口を押える。

 二人は何か言葉を交わし、梧が照れたような表情をした。


 —————ああ、嘘。

 

 さらに彼女が微笑んで何かを言うと、梧は顔を赤くして、口元を押さえる。


 たまきはじりじりと後退し、ついに踵を返して走り出した。

 

 ……そこから、どうやって帰ったか覚えていない。

 帰るなり、二階の自分の部屋へと駆け上がり、戦利品のショッピングバッグを放り投げてベッドに突っ伏した。

 

 ……たまきは、恐れていたことが、現実になったと思った。

 勘違いしてはいけなかったのに。

 たまきと梧が釣り合わないことくらい、わかっていたのに。

 わかっていたんだから、泣くようなことじゃない。

 だけど、涙が止まらない。


「たまき?どうかしたの!?」

 1階から祖母の声がする。

 何か言わなきゃと思うのに、声が出せない。

 階段を上がってくる、足音が近づいてくる。

 部屋の前で、足音が止まる。

「たまき?」

 部屋のドアに手がかかったのがわかって、たまきは焦った。

「……だいっ、大丈夫!」

 精一杯の声で言うと、祖母はドアを開けなかった。

 たまきの声は震えていたし、濡れているようだっただろう。

 きっと、泣いていることはわかっただろうに、祖母は「そう……?本当に大丈夫?」と、もう一度、そう言って確認すると、たまきは、

「うん……、ちょっと、疲れた、だけ……。少し、休むから……」

 と、途切れ途切れに答えた。

 少しの間、祖母は何も言わず、その場にいた。

 できるだけ、止まらない涙と、しゃくりあげた声が漏れないように、たまきは口を押さえた。


 —————お願い、開けないで。


「……わかった。夕飯が用意出来たら、呼ぶからね」

 祖母はそう言って、静かに、その場を立ち去って行った。

 たまきは、足音が完全に立ち去るまで、そのままじっとした後、また、ベッドに顔を押し付けて、声を殺した。

 今になって、膝が痛みだす。


 —————どうしたらいいんだろう。


 なにを?

 だってたまきは、梧にとって、親戚の子供でしかなかった。

 梧はそう言っていたんだから。

 そして、たまきの気持ちを、梧は知らないんだから、何も変わらない。

 初めから何もない。何もなかったのに。


 たまきを見守る優しい表情も、ずっと手を握ってくれた優しさも、茶化す時のいたずらな表情も、たまきの頬に触れる時の甘く見えた表情も、たまきが作った拙いりんご煮に喜び、お礼に誘ったのも、たまきを頼るように肩に頭をのせて、抱きしめられたのも……。

 全部、違った。

 たまきの勘違いだった。

 

 とめどない涙がようやくおさまり始めて、ふと、たまきは顔を上げた。

 ベッドの上に居る、リスのぬいぐるみと目が合う。

 たまきを勇気づけるために、恥ずかしがりながら、高い声で演じてくれたリスの声……。

 そのぬいぐるみを胸に抱き寄せると、涙がまた流れた。

 

 その時、スマホの通知音が鳴った。

 

 梧のことがよぎって、たまきは一度躊躇ったが、そっとスマホの待ち受けを見ると、琉輝からだった。

 ”いつ、一緒に勉強する?”と表示されていて、たまきは、ああそうだ、と急に冷静になる。

「……勉強、しなきゃ……」

 そう、か細い声で、呟いた。

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