42
たまきたちは夏休みに入り、心悠はインターハイ、たまきは夏期講習と忙しくしていた。
インターハイ開催地が遠方で応援に直接行くのは難しく、当日はパブリックビューイングが行われることになっている。
たまきは手縫いでお守りを作って、壮行式の時に心悠に手渡した。裁縫が得意なわけじゃないから、いびつで、ご利益は薄いかもしれない。だけど、心悠のこれまでの頑張りが報われるように、祈りを込めた。
「見てて。たまきのために走るから」
心悠はたまきの顔を見つめて、そう言った。
部活のメンバーから、フゥ~~~と声が上がり、茶化されたことは言うまでもない。
インターハイの日までは、たまきは夏期講習を受けている塾の自習室で、自主学習に励んでいた。
心悠も頑張っているのだから、たまきも頑張りたかった。
かれこれ休憩を挟みながら4~5時間。さすがに座り姿勢にも疲れてきたなと、伸びをした後、スマホにメッセージが届いていることに気が付いた。
”勉強、頑張っているか?”
梧からだった。たまきの心臓がドキッと跳ね、意味もなく周りを確認してから、スマホを手に取った。
予選会に行った後、時折こんな風に梧からメッセージが入るようになった。
内容は今のように他愛のないもので、長くやり取りをするわけではない。
メッセージの頻度が上がったからと言って緊張しないわけじゃないし、毎回ソワソワするが、どうしても嬉しさで顔が緩む。
”今休憩中です”
たまきがそう返すと、
”そうか。あんまり無理せず、頑張れ。体調にも気を付けて”
と、すぐに返信があった。
”梧さんも、仕事頑張ってください”
返信した後、たまきは口元が緩むのを抑えられなくて、一度、口のあたりを手で覆ってから、息を吸ったり吐いたりして気持ちを落ち着ける。
梧は仕事をしているし、たまきも勉強が忙しくなってバイトも減らしているので会えてはいないのだが、なんだか今までよりも距離が縮まっているような気がして、嬉しくなってしまう。
その余韻を噛み締めながらも休憩を終わりにし、心の中で「よし!」と気合を入れてから、また勉強に集中した。
――――――――――――――――――――
いよいよ、インターハイの陸上競技日になった。
パブリックビューイングは近くの施設で学校関係者や保護者だけでなく、一般の人も入れて行われる。
たまきはインターハイには行けなかったよっちんとさっちょんとともに会場に向かった。
「たまき先輩!」
そこで声をかけられ振り向くと、紫露だった。
「紫露!すごい久々じゃん!」
たまきが驚いて声を上げると、
「マジそれ。たまき先輩不足で死にそうだった」
と、体を傾げて眉尻を下げ、両手を広げてたまきにハグを待つ仕草をした。
「なにそれ?心悠不足じゃなくて?」
その紫露のハグは無視し、腕をぺちっと叩いてたまきがツッコむと、紫露から全く触れてもらえないよっちんとさっちょんが、二人の間に割り込むように前に出る。
「おっ!よっちん先輩とさっちょん先輩もお久♪」
紫露は腕を引っ込め、揃えた人差し指と中指を立て、空を切るような仕草をしながら、紫露は軽い調子でその二人にも挨拶をする。
「うわ~、ついで感半端ないな、霜槻。こはとたましか眼中にないのか、お前」
「相変わらず“けーはく”だねぇ、紫露」
と、口々に言ったあと、四人は並んで会場まで歩き出す。
「え?俺が、いつ、軽薄だったんすか?けーはくの意味知ってる?さっちょん先輩」
「え、チャラい?」
「……割と、当たってんな?」
「バカにするでないよ、紫露くん」
「失礼いたしました。……でも、この場合、薄情の方が正しくね?」
顎を上げ、得意顔でさっちょんが答えると、紫露は慇懃な身振りで頭を下げてから、付け加える。
「自分で言う?相変わらず薄情だねって言われた方が良かったってこと?」
さっちょんにツッコまれ、紫露は「いや、良くないス。え?軽薄の方がまだマシってこと……?」と考え込む表情をした後に、「いや、どっちも嫌だわ」と、ノリツッコみさながらにさっちょんに裏拳をかまして言った。
相変わらずの紫露の様子を見ながら、たまきとよっちんは顔を見合わせて笑う。
混みあってきた会場で、よっちんとさっちょん、紫露とたまきで前後に分かれて座席に着くと、
「ほんと久々だね。勉強忙しかった?」
と、たまきが紫露に声をかける。
「あー、まあ。だんだん難しくなってますしね」
紫露は曖昧な返事をしつつ、微苦笑を浮かべた。
少しだけそれに違和感を感じたものの、すぐに配信が始まって、紫露も勉強で疲れているのかな、とあまり深く考えなかった。
「……すごいっすね。心悠先輩」
配信で陸上選手たちが映し出されるのを眺めながら、紫露がそう言った。
その横顔にちらっと視線を向けた後、たまきもスクリーンに視線を戻し、
「うん。本当にすごいよね」
と、言った。
心悠は、予選、準決勝と危なげなく順当に勝ち進んでいる。
スクリーンにくぎ付けになってる紫露をまた横目で確認しつつ、
「……また、走りたくなった?」
と、たまきが紫露に問うと、紫露は驚いた顔でたまきの顔を見た後、顔を顰めるように苦笑した。
「いやぁ~……、どうかな。……中学の時ほどの、情熱はもうないかも」
そう言って、軽く息を吐いた。
「そっか」
少し寂しげにたまきが微笑を浮かべて言うと、
「……たまき先輩は、俺に続けてほしかった?陸上」
と、訊いてきた。
今度はたまきが驚いた顔で紫露を見つめた後、目を軽く伏せて首を横に振った。
「ちょっと寂しいけど……。紫露がしたいことを、したらいいよ」
そう言って笑顔を浮かべたたまきに、紫露はほっとしたように微笑み、
「そっか」
と言うと、照れたように指先で鼻に触れつつ、スクリーンに視線を戻した。
心悠の決勝の時間が近づいたころ、会場の入り口の方が少しだけざわついた。
四人が何かあったのかとそちらに視線を向けると、紫露が「あ。」と声を上げる。
「えっ……」
続いて、気づいたたまきが声を上げる。そこにはスーツ姿の梧が居た。
よっちんとさっちょんはたまきの表情を確認した後、気づかれないように視線を見合わせる。
「アオ君こっち!」
紫露が手を上げて、そう声を上げると、たまきは少しだけ慌てた。
メッセージのやり取りの中で、ちらっと今日パブリックビューイングがあると言う話をしたような気がするが、まさか梧が来るとは思っていなかった。
「紫露、来ること知ってたの?」
「え?知らないけど。たまき先輩が呼んだんじゃないの?」
迷うことなく声を上げた紫露にたまきが訊くと、紫露は首をかしげてそう言った。
「よ、呼んでないよ」
「あそ?でも、良いじゃん。一緒に見れば」
事もなげに言うと、紫露はさっちょんとよっちんに「ちょっと寄ってもらっていいっすか」と、お願いしてその隙間に自分が入り込み、梧の分の席を空ける。
「……紫露も、来てたのか」
梧が紫露の顔を見てそう言うと、紫露は視線を逸らして「あー、うん。心悠先輩の晴れ舞台だし」と、少しそっけなく答えて、そのままスクリーンの方を見つめた。
梧は何か言いたげに紫露の方を見たが、決勝が始まりそうな雰囲気に、紫露が空けた、たまきの隣の席に座った。
席に座ると、梧はたまきの顔を見て、
「……元気だったか?」
と、優しい声で聞いてきた。
「……はい」
予選会以来の再会に、たまきは少し緊張して答える。
「なら、良かった」
と、梧は微笑んでたまきを見つめた。
梧からその顔で見つめられるのは心臓に悪くて、たまきは視線を泳がせつつも、
「仕事は……お休みしたんですか?」
と、訊いた。
「いや。早めに切り上げてきた。決勝に間に合ってよかった」
そう答えて、姿勢を正してスクリーンに視線を移す。
「そう、ですね……」
たまきもスクリーンに視線を移すと、そう言って、気を落ち着けようと息を吐く。
ふ、と息を漏らしたような梧が声がして、たまきが顔を上げると、
「緊張しているのか?」
と、微笑んだ梧と目が合って、またたまきの心臓が騒がしく脈を打つ。
梧は軽くたまきの頬をつまんでから、背中をポンと叩いた。
「御堂なら、大丈夫だろう」
たまきが緊張したのは梧が隣に居るからなのだが、それを心悠が走ることへの緊張だと勘違いした梧が、励ますように言った。
たまきはつままれた頬に自分で触れて、「はわ……」とほんの小さな声を漏らした。
「……なんか、雰囲気甘くない?なんかあった?」
紫露は、後方の梧とたまきの様子を盗み見て、ニヤニヤが止まらない、よっちんとさっちょんに気づいて、二人に小声でそう訊いた。
「でしょ?霜槻もそう思うよねぇ?」
「でも、付き合ってないってゆーんだよ、たま」
「え、マジ?そんな話になってんの?」
三人は身を寄せ合い、後ろに気づかれないように小声で話し込む。
「この前の予選会でさ、たまは久々に応援に来てくれたんだけどぉ、その間、二人ずっと手を繋いでたんだよ?」
「たまは緊張してたから、イケメン王子が手を繋いでくれてたって言ってたんだけど……」
「あーゆー顔しててぇ、手を離さないってのはさぁ~、まんざらじゃないよねぇ」
紫露は肩越しに梧の表情を見てから姿勢を戻すと、二人の方へ顔を寄せる。
「……マジでまんざらじゃなさそうなんすけど。え、やば」
紫露も顔がニヤけるのを抑えられず、口元を手で覆った。
「でっしょ~?」
さっちょんが言いながら紫露の肩を叩いて、「痛っ!」と紫露が声を上げたところで、心悠の出番になった。
途端にたまきは真剣な顔つきになった。胸の前で手を合わせ、祈るようにスクリーンを見つめる。
梧は横目でそれを見つめた後、ふと頬を緩めた。
……しかし、前の席にいる紫露の真剣な横顔が視界に入ると、梧はその顔をまじまじと見た。
—————やはり、前世でのつながりを感じるような感覚はない。
ただ、他人のような気がしない、という感覚はある。それが、紫露は時雨の子供で、幼いころから知っているからという以外、理由が思いつかない。
誰かに似ている、という気もしない。……いや、しいて言うなら、たまきと似ているか?
と、横にいるたまきに視線を落とすが、それも、年齢が近いという以外、共通点は感じられない。
そんなことを考えているうちに、スクリーン上で選手たちがスタートの姿勢を取り、梧は考えを中断した。
会場全体が息を呑む。さっきまでニヤついていたよっちんとさっちょんも、真剣な顔でスクリーンを食い入るように見つめている。
号砲が鳴って、選手が走り出した!心悠のスタートは最高のものだった。すでに他を引き離している。
会場のボルテージは一気に上がって、全員が力を込めて応援した。
たまきも「行け!心悠!!頑張って!!」と叫び、よっちん、さっちょん、紫露も声を上げている。
心悠が一位をキープしたまま駆け抜けてゴールに入ると、会場の盛り上がりが最高潮となり、その場にいる全員が興奮して喜び合った。知らない人同士も抱き合い、ハイタッチを交わす。
たまきも興奮して、立ち上がり、飛び跳ねて喜び、振り返ったよっちんやさっちょんとハイタッチをした後、抱き合っている。
梧は一人座ったまま、はしゃぐたまきを見つめて、自然と笑みがこぼれる。
その後、画面に11秒47というタイムが表示され、また会場内はさらに一層大きな歓声が上がった。
高校生最速には届かなかったが、自己ベストを大幅に超えている。
たまきが両腕を突き上げて興奮していると、同じく興奮した様子で振り返った紫露と視線を合わせ、飛びつくように抱き合って飛び跳ね、喜んだ。
紫露が、盛り上がる会場の中で一人座り、たまきたちを見つめて微笑んでいた梧に気づき、手を差し出した。
虚を突かれた表情で梧は、一瞬その手を見つめて固まったが、紫露を見上げてその手を取ると、たまきも気づいてもう一方の腕を掴んで二人は梧の腕を引く。 そして、立ち上がった梧に、二人が抱きついた。
梧は戸惑ったが、二人が梧の顔を見上げると、その胸が、じわりと温かく満たされていく。
不思議な感覚に戸惑いながら、なんとも言えない面映ゆさも感じた梧は、その照れを隠すように二人の頭をぐしゃぐしゃと混ぜるように撫でた。
「わっ!」
「うわっ」
二人は口々に声を上げると、梧の腕から抜け出した。
髪を直しながら、「もー……」と呆れたような声を上げる紫露と、同じく髪を直しつつも、嬉しそうな微笑みを浮かべ、梧と紫露の様子を見つめるたまきとで、三人、顔を見合わせて笑いあう。
三人はまだ騒がしい会場内を抜け出し、施設のロビーに出た。
「まじ、すごいな」
「ほんっとにすごい。インハイ優勝だよ?すごいなぁ」
興奮が冷めやらない二人が、口々に言った。
「マジ、やってくれたな!心悠先輩!」
「あははっ、その言い方、心悠みたい」
「はぁ?」
「紫露が中三の時の大会あったでしょ?私たちが応援行ったときの。その時、紫露が一位になったら、心悠も”やってくれたな!”って言ってた」
「う~わ。……まぁ、それは?中学の部活で三年間、心悠先輩とたまき先輩に育てられましたから?」
「いつから心悠と私が親になったの?まぁ確かに?紫露が子供に見えるときあるけど?」
「……。誰が子供っぽいんじゃーい」
妙な間を置いてから紫露が棒読みでそう言うと、たまきは肩をすくめた。
「前に、心悠も小学生の弟に似てるときあるって言ってた」
「なぬぅ?こんなイケメンインテリ高校生捕まえといて小学生レベルだと?」
「え、今、韻踏んだの?」
「インだけに?……いや、面白くねーわ」
ある種漫才のようにポンポンとテンポよく会話を続ける二人を、梧は一歩下がったところから微笑んで見つめた。
二人が揃っているところを見るのは、たまきと出会った直後に、霜槻家で会った以来かもしれない。
あの時はたまきもまだぎこちなかったが、今は少しずつだが打ち解け、居心地の良さが増した感じがして、梧の頬が緩む。
まだ、会話を続けているたまきたちを見つめながら、ふと、ネックレスのことを思い出して、視線をたまきの首筋に落とした。
裸石の確認と、つい最近ワックス原型を確認したばかりで、あの華奢な首に揺れるネックレスを想像すると、完成が楽しみになった。ただ……、彼女が喜んでくれるかどうかはわからないことが、不安ではあるけれど。
「アオ君?」
そんなことを考えて、ぼんやりしていた梧の様子を訝しんで、紫露が顔を覗き込んだ。
「……どうかしましたか?」
紫露の言葉に、たまきも梧の様子に気づいて声をかける。
梧はハッと我に返って視線を逸らすと、顎のあたりを撫でながら、気まずそうな顔をして、
「いや、なんでもない……」
と、答えた。
二人は首を傾げたものの、「そ?」「そうですか?」と言うと、不思議そうな表情で視線を合わせて首を傾げる。
「たま~!」
そこに、よっちんが会場から顔を出し、声をかけてきた。
「こはと電話繋がった!」
そう言って、スマホを掲げる。
「え!うそ!」
たまきは言うと、よっちんに駆け寄り、会場に戻っていった。
それを見送りながら、紫露がロビーに残っていると、今度は梧が首をかしげて、
「お前も、行かなくていいのか?」
と聞いた。
「あー……いいや。俺……もう帰るね。勉強もしなきゃだし。たまき先輩にもそう言っといて」
そう言うと、どこか気まずそうな顔で微笑み、ひらひらと片手を振ってから、出口の方へ向かって踵を返した。
「……紫露」
梧が呼び止めると、紫露は足を止めたが、振り返らない。
「なにか……困っていないか?」
七月の中旬を過ぎた頃、霞はスウェーデンに帰って行った。
つまり、今、杠葉は霜槻家にいないことになる。
ただ、時雨はいまだにそれを話さない。梧は知らないことになっているが、できれば、二人、どちらかの口から聞きたかった。
そうすれば、彼らから信頼されていると、思うことができるから。
だが、少し、間を置いて、紫露は振り返って笑顔を見せる。
「……何も困ってないよ。まぁ、勉強は大変だけど、それは自分で頑張んないと」
梧の表情が明らかに曇る。紫露にもそれはわかったが、俯いて梧にわからないように軽く唇をかみ、見ないふりをした。
「……そうか。ならいいんだ」
梧が悲しそうな笑みを浮かべてそう言ったのを聞いて、紫露は視線をそらす。
「うん。……大丈夫だよ」
そう続けた後、梧の方を見ずに早足でその場を後にした。
……ごめん、アオ君。
そう胸中で呟きながら、早足が小走りになり、逃げるように施設を出て行った。
取り残された梧は、ロビーのスツールに力なく腰かけて、深く、ため息をついた。
しばらく経って、会場にいた観覧者たちが次々と出てきた。
たまきと陸上部員の二人も外へ出てきて、たまきは一人でいる梧に駆け寄る。
「あれ?梧さん一人ですか?紫露は?」
そう訊くと、梧は視線を伏せながら、
「勉強があるからと、……帰った」
と答える。
「え?そうなんですか?なんで紫露、声かけないで帰っちゃったんだろ」
そう言ってスマホを確認するも、紫露からの連絡は入っていない。
梧はスツールに座ったまま、俯いてぼんやりしている。たまきは心配そうに顔を覗き込んで「梧さん?」と声をかけた。
「ん?ああ」
呼ばれてやっと顔を上げ、梧は立ち上がるが、珍しくぼんやりして佇んだままの梧を心配したたまきは、よっちんとさっちょんにヘルプの視線を送る。
だが、二人は何かを察したらしく、両腕で大きく丸を作った後、どうぞどうぞと手で示した。
その顔がニヤついているのを見て、たまきは口を尖らせて睨みつけたが、二人はどうぞどうぞをやめず、さっちょんが素早く送ってきたメッセージには“二人で帰って!うちらはうちらで帰るから!”とあった。
たまきは首を横に振って二人を手招きしたものの、逆に激しく首を横に振られ、全く引こうとしない二人に促されるまま、仕方なくたまき一人で梧の方に向き直った。
たまきは梧の顔を見上げたが、どこか遠くを見つめているような表情で、たまきとは目が合わない。
「……梧さん?」
もう一度梧の名前を呼ぶと、梧はようやくたまきと目を合わせた。
「……帰るか」
反射的にそう言って、重い足取りで歩き出した。
たまきはその背中を少し見つめた後に、駆け寄って梧の少し後ろをついて行く。
施設の外に出てしばらく歩いたところで、梧は我に返ったのかたまきの方を振り返った。
「……そう言えば、二人は?」
ようやくよっちんとさっちょんが居ないことに気づいたらしく、梧はそう言った。
「あ……二人は、……用があるからって、先に帰っちゃって。あの……私だけ、一緒に帰っても良いですか?」
半分嘘だし、一緒に帰ると言いだすのも気恥ずかしくて、たまきは視線を逸らして答えた。
梧は自分の頬を指先で掻きながら、「それは……もちろん」と言った。
ぼんやりした頭で、梧は当然たまきと二人で帰ると思い込んで「帰るか」と勝手に言ってしまった。
その事だけでも気まずかったが、もしかしたら、あの二人には妙な気を回させてしまって悪いことをしたのでは、と思った。
ただ……たまきと一緒に居られることはありがたかった。一人でいると、気が滅入りそうだったから。
「そっちに車を止めてある」
梧が指し示すと、たまきはかけ寄って梧の横に並び、梧はそれを待って歩調を合わせて歩き出す。
元々口数の多い方じゃない梧だけど、今日は、車まで歩く間、何も話そうとしなかった。
「……何か、ありましたか?」
さっきの雰囲気から、紫露と何かがあったとは考えにくかったが、気になってたまきは声をかけた。
梧は「いや……」と言った後、しばらく黙った。
ちょうど、車が駐車してあるところに到着し、梧は足を止める。
「……紫露に、何か困ってないか聞いたんだが、大丈夫と言われた」
梧のその言葉だけでは要領を得ず、たまきはキョトンとした顔で首を横に傾げて、
「……困ってなかった……わけじゃなくて、ですか?」
と、訊いた。
また黙り込んだ梧を見上げて、まるで紫露が困っているのを知っているみたいな言い方だなと思った。
そういえば、なんとなく紫露の様子が少しおかしかったような気もする。
紫露に何かあったんだろうか。
ため息をついて俯いた梧を見て、たまきはどうしたらいいか困った。
どことなく寂しそうな梧の雰囲気に、たまきは静かに一歩踏み出して、俯いている梧の顔を心配そうに覗き込む。
ふと目が合って、……梧は、おもむろにたまきの方に手を伸ばす。
腕を引いてたまきを引き寄せ、梧はその肩に軽く頭を乗せた。
「……っ!」
たまきは驚いて、思わず息を詰め、体を硬直させる。
一体、何がどうしたのかわからず混乱していると、梧がため息をついて、
「俺じゃ、頼りにならないのか……」
と、小さな声で呟いた。
たまきに向けられた言葉ではなさそうだったが、その言葉を聞いて、「え?」と、たまきは呼吸を取り戻した。
理由はわからないが、梧がひどく自信をなくしているように感じて、胸が切なくなった。
梧のような完璧な男性でもそんな日があるのかと思って、たまきはためらいがちに腕を伸ばし、梧の背中をゆっくりと撫ではじめた。
その手の動きを感じて、梧は目を閉じる。たまきの手が梧の背を撫でるたび、胸に浮かんだわだかまりが、ゆっくりと解けていくような気がした。
「……きっと、紫露にも何か事情があるだけですよ。梧さんが頼りにならないわけ、ないじゃないですか。私は、申し訳ないくらい、梧さんに助けてもらってますし……」
たまきの声は、いつも梧を救ってくれる魔法のようだった。空っぽだった心を満たして、前世の呪いのような夢も、頭痛も、寂しささえ消してくれる。……助けられているのは、梧の方だ。
穏やかで柔らかなたまきの言葉に、梧はたまきの背中に腕を回し、そのぬくもりを確かめるように、さらに深く引き寄せて抱きしめた。
「えっ」
たまきは小さく声を上げ、驚いて撫でる手を止めた。
気が付くと、梧の顔がたまきの顔のすぐ横にある。
吐息を感じる距離に、たまきは再び息を詰めた。梧がわずかでも身じろぎをしたら、頬と頬とが触れてしまいそうだ。
たまきの心臓は、今にも爆発しそうなほど激しく脈を打っている。
その音が、梧に届いていませんようにと、たまきは祈るように願った。




