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風の行く先  作者: 遥ゆとり
2章 高校編

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39

 たまきは心悠たちに、今回は応援に行くよ、とは最後まで言えなかった。

 大会の前日、「頑張ってくるよ〜」と、さっちょんとよっちんが笑って、心悠は何も言わず、ふざけてたまきの頬をつぶしたり引っ張ったりしたあと、「祈ってて」と少し寂しそうに笑った。

 

 電話の数日後に梧から、都合がついたと連絡を受けてから、たまきの中を不安が行き来していた。

 行きたい、行きたくない。

 見たい、見たくない。

 何度も、梧に「やっぱりやめます」と電話をしようと思った。

 走るみんなを見た時に、自分の胸にどんな感情が込み上げるのか、わからなかった。みんなの頑張りを喜べなかったらと思うと、怖い。


 そんな不安な気持ちを抱えたまま、当日になって迎えにきてくれるという梧を待ちながら、たまきは家の前で落ち着きなくそわそわとしている。

 朝から緊張した様子を心配し、祖父は剪定バサミを片手に鉢植えを見ているふりをして、玄関先からたまきを見守っていた。


 梧が来る間、いまだにやっぱり断ろうかなとぐるぐる考えて、今更そんなことできるわけがないとかぶりを振った。

 そうしている間に梧の車がやってきて、たまきの前に停まる。

 たまきは緊張で、表情がこわばっていた。

 梧は車から降りてきて、たまきに近づきながら、祖父に頭を下げた。

「…………これ。おばあちゃんからです」

 たまきは祖母に持たされたお菓子を梧に差し出す。

「気を遣わないでください」

 梧は祖父に視線を向けて言った。

 祖父は首を横に振って、

「いいえ。そんなものですみませんが、受け取ってください。……いつもありがとうございます」

 と頭を下げた。

「では、遠慮なく……」

 と、言って、梧も頭を下げた後、たまきの手からそれを受け取る。

「……じゃあ、行くか?」

 たまきは一度ためらうように俯いた後、意を決したように顔を上げ、

「……はい」

 と頷く。

 梧もその表情を見て頷き返すと、祖父に再度会釈をし、たまきを車の方へ促した。


 車に乗り込んだ後も、たまきの気持ちは揺れていて、何も話せなかった。

 梧も気を遣ってか、何も声をかけてこない。

 小さい音でラジオがかかっていたけれど、その内容も、耳には入ってこなかった。


 たまきは車窓から、空を見上げる。雲一つない、快晴だ。……晴れてよかった。

 中学の時と高校の数か月、陸上を辞めるなんて思ってもみなかった頃、競技場に向かうバスの中からも、何度も空を見上げた。

 だけど、あの時の緊張感とは全く違う。あの頃は、緊張感と一緒に、わくわくするような高揚感もあったから。

 

 

「……ついたぞ」

 いつのまにか車が停車して、梧が声をかけてくる。

 たまきが梧の方を向くと、梧はゆったりと座ったままたまきを見つめている。その目が、どうする?と問いかけているようだった。

 たまきの緊張は最高潮だったけど、

「……行きましょう」

 と、強がった。声が震えていないか心配だったが、たまきの言葉に梧は「あぁ」と頷いただけで、何も言わなかった。

 

 車を降りて競技場の外観を見上げてから、たまきは息を一つ吐く。

 梧がたまきの様子を見つめてから、ゆっくりと先に歩き出した。

 たまきは梧の足元を見つめながら、その後ろに続く。手が震える。

 お腹の辺りで両手をギュッと握りしめながら、競技場の観覧席へ向かう道は、梧の影に隠れるように歩いた。

 観覧席へと登る階段の手前で、ふと、たまきは足を止めた。

 気がついた梧が足を止め、振り返る。たまきが梧の顔を見上げると、優しく微笑んで手を差し出してきた。

 緊張のあまりたまきは藁をも掴むような気持ちで、思わずその手を取った。

 もしたまきが極度の緊張状態じゃなかったら、手を差し出されても、すぐにその手を掴むなんてできなかっただろう。

 たまきの意識は競技のことと心悠たちの方へと向いていて、自分が梧と手を繋いでいて腕が触れる距離で並んで歩き、その温かさと包み込む手の大きさに安心を感じていることにも気づいていない。


 観覧席まで上がってもフェンスまでは近づけなくて、少し離れたところから競技場のトラックを見下ろした。もうすでに昼を過ぎているから、予選を終えた選手たちや決勝を前にして体をほぐす選手たちが見える。たまきは視線を巡らせて、心悠たちを探した。

 緊張で梧と繋いでいる手に力がこもる。

 梧は一瞬たまきの方を見下ろしたが、たまきがトラックを見つめているのを見て、すぐに視線を戻した。

 梧は何も言わず、急かしたりもしなかった。ただ、気配を消して、たまきが動き出すまで静かに待っている。

 

「……たまきちゃん?」

 ふと、たまきは名前を呼ばれてそちらを見た。

 ……心悠の母だった。

「あ……」

 たまきはうまく言葉出せなかった。

 だが、心悠の母は眉尻を下げながらも、嬉しそうな顔でたまきを見つめて、

「来てくれたんだね……」

 と、言ってたまきに歩み寄った。

「ありがとう……」

 潤んだ瞳でたまきを見つめ、たまきの両頬を両手で包んで微笑んだ。

 お礼を言わなきゃいけないのはたまきの方なのに、心悠の母はたまきと額を合わせて「頑張ったね」とねぎらいの言葉さえかけてくれた。

 その言葉に胸が熱くなって泣き抱きそうになるのを、唇をかんでこらえる。

 

 しばらくそうした後に心悠の母は顔を上げ、トラックの方へ振り返り、「あそこだよ」と指差す。

 たまきがそちらに視線を向けると、心悠たちがストレッチしているところが見えた。

 たまきの心臓がドクンと脈打った。だけど、目が離せない。

 忘れていたわけではないけれど、見慣れたルーティーンと、高校で新しく取り入れたらしい動きの部員たちを見つめながら、—————あぁ、みんなだ。陸上部だ。と思った。

 胸の奥から、競技直前の緊張感と高揚感が一気に込み上げてきた。

 動き出したい衝動に駆られても、自分が観覧席から見つめるしかできないことに強烈な違和感と寂しさが、胸に広がっていく。

 たまきはふらりと一歩踏み出した。

 梧は繋いでいた手を緩めその手を離そうとしたが、たまきは手を繋いでいることも忘れたように、意識せず握りしめたままフェンスの方へ進んで行く。

 無理に振りほどこうとはせず、梧は腕を引っ張らない程度に後ろから歩調を合わせてついて行った。

 

 フェンス際から、たまきは心悠たちを見つめた。

 ふと、一人がたまきを見つけて、心悠に駆け寄った。その一人がたまきを指さし、心悠が立ち上がる。

 観覧席の方へ1、2歩心悠は歩み出ると、たまきを見上げる。

 心悠はさっきの心悠の母のような、眉尻を下げた表情でたまきを見つめてきた。

 たまきと心悠は、しばらくそのまま見つめあう。

 少し離れていて見えないけれどその瞳が潤んでいるように感じた。たまきの目の奥もじんと熱くなる。堪えようと手を握りしめた。

 ふと、心悠が目を拭い、その瞳が剣な色に変わると、人差し指を立てて空を指さした。

 たまきは一瞬驚いた顔をした後、その意味を理解して、頷いた。何度も、何度も。

 心悠が腕を降ろして頷くと、ちょうど競技が始まるアナウンスが会場に流れた。

 

 つと、たまきの頬を一筋、涙が流れ落ちる。

 気づかないかのようにそれをそのままにしてトラックを見つめているたまきの頬を、梧は指先で拭った。

 たまきが驚いたように梧の顔を見上げると、梧は柔らかく微笑んでたまきを見つめていて、

「……座ろう」

 と、優しい声で言った。

 たまきの心臓が別の意味で跳ね上がって、途端に顔が熱くなった。

 梧に手を引かれて移動し始めた時、ようやくずっと梧と手を繋いでいたことに気づくと、たまきは急にドキドキが止まらなくなった。何のためらいもなく梧の手を取った自分の行動も思い出して、顔から火が出そうとはこのことだ。

 前の方の席に二人は座った。つないだ手は梧の膝に置かれて、解かれるかと思ったけれど梧は離すつもりはないようだった。そのままトラックを見つめている。

 繋いでいられること自体は嬉しかったけれど、意識し始めてしまったら、手の熱が梧に伝わってしまわないか、汗をかいて気持ち悪くないか心配になった。

 

 けれど、競技が始まるとともにたまきの意識はまた、選手たちに注がれていった。

 梧がたまきの様子を横目で確認したことも気づかないで、真剣な表情をしている。その様子を見てふっと微笑み、梧もまた、選手たちに視線を戻す。

 今、たまきに存在を忘れられていても、別に良かった。

 握られたままの手が信頼のような気がして、それがたまきの安心につながっているなら、それでいい。

 梧の心が満たされていく感じがした。

 

 さっちょんとよっちんは、それぞれベストを尽くしたものの、6位入賞ならずインターハイには届かなかった。

 三年間の集大成に二人ともさわやかな笑顔で手を打ち合い、たまきを見上げてピースした。

 たまきは親指を立てて応える。

 胸のあたりから込み上げてくる感情で、たまきの視界が滲む。

 風をきって走り出したいと、たまきの足が疼く。座っている今は、足の痛みも何もない。走り出せそうな気すらする。

 だけど、リハビリのジョギングは続けていても、いつもより少し長く走っただけで痛む膝では、たまきがやっていた短距離走やスプリントなんてもってのほかだ。

 そんな自分が悔しいのと、羨ましいのと、でも、さっちょんとよっちんの笑顔の裏にある悔しさもわかった。

 きっと、たまきには笑顔しか見せられないだろう二人の気持ちに、共感する資格なんかないかもしれないけど。

 心悠がトラックに姿を現して、たまきはぐっと口を引き結び、涙をこらえた。

 服の袖で手早く涙を拭くと、心悠を見つめる。

 スタートの構えに入る前に、一瞬、心悠がたまきの方へ視線を投げた後、その口元にわずかに笑みが浮かんだ。

 ”On your marks"の合図で、ゴール地点を見据える心悠の顔が真剣なものに変わり、クラウチングスタートの姿勢をとる。

 たまきも緊張した。

 ”Set”で、選手全員の集中力が高まり、全員が息を呑む。

 繋いだたまきの手が僅かに震えながら強く握りしめられ、梧は横目でたまきの表情を伺った。

 緊張で強張っているが、真剣なまなざしで心悠から目を離さずにいる。


 静寂を切り裂く号砲が鳴って、全員が弾かれたように走り出した。

 心悠は悪くないスタートだった。

「よし……」

 たまきは無意識に声を出した。

 心悠は他の選手と競り合い、応援の声がどんどん盛り上がって、たまきは立ち上がった。

 梧は驚いてたまきを見上げるが、たまきは心悠の方へ集中している。

「……行け……」

 呟きながら、たまきはフェンスへと違づいていく。手を離さないたまきに、梧も立ち上がって引っ張られるようについて行った。

 フェンスまで行ったところで、ようやくたまきは梧から手を離し、

「行け!……走れ!!心悠!!!」

 と、フェンスに手をかけて叫んだ。

 その声が聞こえたかのように心悠がスピードを上げる。

 そのままスピードを上げながら、心悠がゴールを駆け抜けると、会場にかつてないほどわっと歓声が上がった。

「11秒55……!?」

 たまきは掲示板に表示されたタイムを読み上げて、驚きと喜びが入り混じった表情で、梧の顔を見上げた。

「すごい!心悠すごい!やった!」

 言って満面の笑みを浮かべると、たまきは興奮したまま梧に抱きついた。

 驚きながらも梧はそれを抱きとめ、ふと視線をトラックに落とすと、心悠が駆け寄ってきていた。

「たまき」

 梧に呼ばれて顔を上げたたまきに視線で心悠のことを示すと、気がついたたまきがフェンスに手をかけて「心悠!」と呼んだ。

「たまき!やったよ!」

 心悠も心からの笑顔を見せて、そう言うと、こぶしを突き上げた。

「うん……、うん!見てた!すごいよ、すごい!心悠!」

 興奮したたまきのようすに、満足そうに心悠は笑う。

 梧も屈託なく笑顔を交わすたまきと心悠を見て、ひそかにふっと微笑んだ。

 心悠はコーチと部員たちに呼ばれて戻っていったが、たまきの元には心悠の母が駆け寄ってきて、二人は興奮したまま抱き合い、喜びあっている。

 梧は静かに席に戻ると頬を緩めたまま、久しぶりに見たたまきの笑顔を眺めた。

 

 全ての競技を終えると、部員たちがたまきの元に駆け寄ってきた。

「たま!来るなんて言ってなかったじゃん!」

「やば、たまちゃんが来てくれたから自己ベストだったよ!」

「って言うか、こはがやばい、こはやばすぎた。調子は上げてたけど、11秒55なんて一度も出したことないじゃん。たまパワーすごすぎん?」

「みんなすごかったよ!ほんとにすごかった」

 たまきが部員たちに一気に囲まれて興奮しながらやり取りを始めたので、梧は少し離れてそれを見守った。

「たまき!」

 遅れて駆け寄ってきた心悠は、そのままの勢いでたまきに抱きついた。

 たまきは驚いたものの、心悠の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめ返す。

 わお、と部員たちから声が上がった。

 わざとらしく目のあたりを覆う仕草をする部員もいる。

「ありがと、たまき」

「こっちのセリフだよ、心悠。ずっと頑張ってくれてありがとう」

「たまきが居なかったら、無理だった」

「心悠の実力だよ」

「違う、絶対違う」

 心悠はたまきから体を離して、真正面から見つめた。心悠の瞳からはもうすでに涙がとめどなく零れ落ちていて、たまきもこらえきれず涙が溢れる。

「たまきが居たから……」

「心悠……」

「たまきが、頑張ってたからだよ」

「……私、何も頑張ってないよ」

 いつの間にか、周りの部員たちからもすすり泣く声や、鼻をすすりあげる音が聞こえ始める。

「たまはずっと頑張ってたよ」

「たまちゃんが居たから、こはちゃんだけじゃなくて、私たちも頑張ったんだよ」

「部活辞めたって、たまは、ずっとうちらの仲間だったからね」

 口々に、部員たちがぽつりぽつりと言い出す。

「中学の時も、高校入って病気になる前もたまきちゃんが頑張ってたこと知ってるよ。中学違ってても知ってる。たまきちゃんの分も走ろうって、走れる私たちができる精一杯をしようって思ったのは、たまきちゃんが頑張ってたおかげなんだよ」

「病気辛いのに、留年しないように勉強頑張ったりさぁ……」

 病気になって、走れなくなっても、全部を失ったわけじゃないんだと、言われている気がした。

「私だったら、全部嫌になっちゃう」

 涙が全然止まらなくて、たまきは皆の顔をちゃんと見たいのに、滲んでどうしようもない。

「……みんなが、居たからだよ……」

 たまきは掠れた声で答える。

 心悠はたまきを抱き寄せ、他の部員たちもそこに抱きついてくる。

「みんなが頑張ってるのに、私が頑張らないわけにいかないじゃん……」

「それがすごいんだって!」

「……でも、ずっと応援にも来れなくて、逃げちゃってたんだよ……」

「今日来てくれたじゃん!」

「逃げたって言わないよ、それ」

「たまの気持ち、うちらちゃんと、わかってるよ」

 全部受け止めてくれる優しい皆の応援に、ずっと来れなかったことをやっぱり情けないと思いながら、たまきは自分の心の中のわだかまりがほどけていくのがわかった。

 

 しばらくそうして、抱き合ってみんなで泣いた後に、部活の顧問やコーチがみんなを迎えに来て、名残惜しそうにしながら「また学校でね!」と、みんなはバスで学校へと戻っていった。


「帰るか?」

 距離を取っていた梧が、たまきの元へやってきて、顔を覗き込んだ。

 泣き過ぎてぼんやりしているたまきの顔を見て、ふっと頬を緩め、柔らかい微笑のまま、濡れている頬に梧が指先で触れる。その優しい表情と手つきに、たまきが我に返ると、心臓が思い出したようにドキドキと早鐘を打ち始めた。

 泣いてひどい顔をしているだろうことを思い出して、たまきはさっと顔を逸らした。

 すると、梧はポケットからハンカチを取り出してたまきに差し出す。

 たまきは遠慮がちに梧を見上げながらそれを受け取ると、微笑んだままの梧はさらっとたまきの頭を撫でて、ゆっくり車の方へと歩き出した。

 そのハンカチで濡れた頬を拭うと、ハンカチからふわりといつも梧から香っている匂いがして、急に、さっき心悠の記録に興奮して抱きついたことが思い出された。

 それ以前に、競技場に入ってからほとんどの時間、梧とずっと手を握っていたことも蘇ってきて、今日の自分の行動を思い返し、たまきの体温が急速に熱くなるのを感じた。

「どうかしたか?」

 梧が振り向き、真っ赤な顔で動きを止めているたまきを見て首をかしげた。

「……へっ、あっ、……何でもないです」

 たまきは弱々しく答えた後、俯きながら早足で梧に駆け寄る。

「大丈夫か?」

 駆け寄ってきたたまきが目を合わせようともしないので、また頬のあたりに手を伸ばすと、指先でつん、と軽く触れながら、顔を覗き込もうとする。

 その仕草で、たまきに顔を上げさせようとしているのがわかったが、

「な、泣いてひどい顔してるので……」

 と、俯いたまま自分の手をかざして顔を隠した。

 すると、ふっと、息を漏らすように笑った声がして、「気にするほどじゃない」と梧は言ったが、もう覗き込もうとはせず、手も離した。

 そして、あたりを見回した後、

「何か飲み物を買ってくる」

 と、自販機を見つけてそちらへ向かって行った。

 たまきは梧が離れたところで顔を上げ、はあ、とため息をつき、梧から借りたハンカチで目のあたりを覆う。

 そのままの姿勢で今日のことをぐるぐる頭の中で思い出していたら、急に頬に冷たいものを押し当てられ、

「ひゃ!?」

 たまきは驚いて顔を上げた。

 顔を上げた先に居た梧は、少しいたずらっぽい表情で見つめた後、たまきに押し当てたペットボトルを差し出してきた。

「……どうぞ」

 ちょっとだけムッとした顔でたまきが「……ありがとうございます……」と受け取ると、梧は満足そうに微笑んで、また車の方へ向かって歩き出した。

 たまきは熱くなった頬にそのペットボトルをそっと当てながら、梧の後ろへ続く。

 

 車に乗り込むと、梧は自販機で買った缶コーヒーを開け一口飲んでから「そう言えば……」と切り出した。

 たまきも買ってもらったペットボトルを開けながら、梧の方へ視線を向けた。

「進路は決めたのか?」

 飲み物を一口飲んでから、たまきは少し恥ずかしそうに視線をそらした。

「……理学療法士になろうかと、思ってまして……」

「へえ、いいじゃないか。……ということは医療系の大学か?」

 たまきは病気の後、理学療法士の元でリハビリをしている。近くで見る仕事は憧れにつながりやすいものだ。

 病気を経験したたまきならば、患者の痛みにも寄り添えるだろう。

 たまきは頷いて、

「はい。私の担当をしてくれている方が東都医療大学を出ているので、そこを目指そうかと思ってます」

 と答えると、一瞬、梧の顔色が変わり「……東都、医療大学?」と、聞き返してきた。

「……なにか、あるんですか?」

 たまきに問われて、梧は「ああ、いや……」と曖昧に濁すと、車のエンジンをかけた。

 「いい大学だ、と思っただけだよ。設備も良いし、良い先生方もいる」

 そう付け足すと、車を走らせ始めた。

 梧の表情は、”いい大学だ”と思った雰囲気ではなかったように見えた。

「そうらしいですね。……梧さんも知ってるんですか?」

 疑問に思ってそう訊いたが、

「有名な大学だからな」

 どことなくはぐらかされたような感じがした。

 たまきが知る限り梧は医療系ではない大学だったはずだが、そう言えばたまきが足の不調を訴えた時も整形外科の病院を紹介してくれたのも梧だったから知り合いがいるのかもしれないと、さほど気にしなかった。

「私の成績的にはギリギリなので、受かるかどうかわからないですけどね」

 たまきは自信がなさそうに苦笑した。

「君なら大丈夫だろう。そう心配せずに、いつも通りに勉強を続けていれば問題ないんじゃないか」

「……ありがとう、ございます」

 たまきは照れて、梧から顔が見えないように窓から流れる風景の方へ顔を向ける。

 梧が真剣な声で言うから、たまきは単純にもなんだか大丈夫な気がしてきた。

 ……今日一日で、梧の存在がたまきの大きな支えなっていることをはっきりと自覚してしまった。

 梧が居なかったら、今日ここまでくる勇気も、陸上部のみんなの気持ちと向き合えることもなかった。

 

 梧は、たまきが不安でとった手を振りほどかずにいてくれた。

 たまきのペースを乱さずに、振り返れば優しい笑顔でたまきを見つめていた。

 思い出したその視線になんと言うか……熱みたいなものを感じて、たまきは少しソワソワする。

 

 ——————……本当にその人、あなたに気がないの?


 こんな時に、あの女性に言われた言葉が脳裏に蘇った。

 

 ……もしかしたら、勘違いじゃないのかな……?

  

 それを確かめることは怖くてできないけれど、梧との距離が少し縮まっているような気がしていた。

 黙ったたまきを気にして、梧はそちらに視線を送ったが、窓の外を見つめているたまきの表情まではわからなかった。

 だけどその耳が赤くなっているのを見て、梧の頬は、また緩んだのだった。

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