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風の行く先  作者: 遥ゆとり
2章 高校編

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38

 梧はだいたい一番早く出社する。鍵を開けるのはたいてい梧で、出張や早朝の外部会議がない限り、重役出勤とはほとんど無縁である。

 時雨はその二、三十分後に来ることが大半だ。

 今日もいつものように、梧が社内の空調を確かめてスイッチを入れ、社長室に行ってパソコンを立ち上げてメールを確認している最中に、時雨は部屋に入ってきた。

「おはよう」

 そちらに視線を向けずに梧が言うと、珍しいことに返事がなかった。

 梧が訝しんで時雨の方へ視線を向けると、時雨はデスクをぼんやり眺めて佇んでいる。

 デスクに何かが置いてあるわけではない。ただぼーっとしているだけだ。

 そんな時雨を見たのは初めてだった。

「時雨?」

 梧は不安になって立ち上がり、時雨に声をかけた。

 時雨は言われてようやく我に返ったのか、びくっと体を揺らした後、

「あぁ……、おはようございます」

 と、普段よりぎこちない笑みを見せた。

 その顔色が、あまり良くない。

 梧はさらに訝しみ、そのまま時雨の方へ歩み寄る。

「どうした?顔色が悪いぞ。体調が悪いのか?」

 すると、時雨はすぐに顔を逸らした。

「大丈夫です。何もありませんよ」

 パソコンの電源を入れ、時雨もメールを確認するような仕草をした。

 だが、そんな言葉で梧の疑念は晴れない。

 時雨は、杠葉が食事や生活に気を配り、管理をしてくれているから体調を崩すことはまずない。

 風邪で休んだことも、紫露が幼かった頃に幼稚園からもらってきた風邪が伝染ったときくらいだ。

 あの時は杠葉も寝込んで大騒ぎしたが、少なくとも時雨が確実に寝不足だとわかる顔で出社したことは、梧が覚えている限り、一度もない。

「いや、なにもないわけがないだろう?いくら俺でも、それくらいはわかる。なんだ?森庵のことか?」

 梧は回り込んで時雨の肩を掴むと、無理やり自分の方を向かせた。

 普段はそんなことをしない梧の行動に、時雨は驚いた顔で固まる。

 梧が真正面から見た時雨の顔はやはり目の下にクマがあり、顔色が悪かった。

 梧の表情が急速に曇っていく。……これは、緝たちのことではないかもしれない。

「何があった?……霞さんか?それとも……杠葉さんに何かあったか?」

 梧の真剣な表情とその言葉に、時雨はさらに驚いて目を見開いた後、諦めたように眉尻を下げてため息をついた。

「…………なんで…………、こういうときだけ勘が鋭いんだろうね」

「……え?」

 ぽつりと呟いた時雨の言葉がよく聞こえなくて、梧は首をかしげる。

 時雨は肩を掴んでいる梧の手に優しく自分の手を添えると、梧はきつく掴み過ぎたかと「すまん」とすぐに手を離した。

「……大丈夫だよ」

 時雨は苦笑いを浮かべて答え、もう一度ため息をついた。

 梧はその様子を見て、「座っていろ」と言って部屋を出て行く。

 少しして、梧はコーヒーを入れて戻ってきた。

 言われた通り席に座っていた時雨にコーヒーカップを渡すと、梧は自分のデスクに戻って、コーヒーを一口飲んだ。

「……俺では、頼りないかもしれないが……、話くらい聞く」

 自分のパソコンを眺めているふりをしながら、梧は言った。

 梧なりに気を遣い、視線を合わせたがらない時雨と目を合わせないようにしているらしい。その行動に微苦笑を浮かべ、何をどう、どこまで梧に話していいか悩んだ。

 杠葉とぎこちなくなった理由……、時雨が”他人の幸せを奪ったかのよう”に今が幸せであると思った、その相手は、…………梧だ。

 時雨には、ずっと、梧に黙っていることがある。

 言わなければならないとわかっているが……すぐには言えない。杠葉のことで憔悴している今の時雨には、言って梧にまで責められる余力が残っていなかった。

「……週末、姉さんに付き合ってて、疲れたんだよ。ごめん。切り替えて来るつもりだったんだけど」

 時雨が結局誤魔化し、そう言って苦笑いを浮かべると、梧は真剣でまっすぐな眼差しで時雨の方を見つめた。

 その眼差しが、かつてカザネだった時の、全てを見透かしたような視線と重なって、時雨はその眼差しを受け止めることに耐え切れず、顔をそむけた。

「……そうか。わかった。無理はするなよ、いつでも仮眠をとっていいから」

 少し間を置いて応えた梧の声は、少し沈んだようにトーンが落ちた。すぐにキーボードをたたく音が聞こえ始める。

 梧は思っているだろう。”自分が頼りないから、時雨は話してくれない”のだと。梧の”わかった”は、そう言う意味だ。

 そうじゃないんだと、言ってやりたかった。違う、悪いのは自分だと。

 だけど、それを言うなら、全てを話さなければならない。

 時雨は歯がゆさに膝の上でこぶしを握り締め、梧が淹れてくれたコーヒーカップに視線を落とした。

 前世も今世も、彼を支える立場だったのに自分の秘密のために彼を不安にさせているなんて、本末転倒だ。

 

 ふと、梧のキーボードを打つ音が止まった。

 時雨が梧の方を見ると、梧は画面を見つめたまま、時雨の方は見ないようにしている。

「……森庵のことだが……」

 梧は顎を撫で、険しく顰められた顔で、パソコン画面を睨みつけている。

 一見不機嫌そうに見えるが、この顔は、どう切り出していいのか困っているだけだ。

「……森庵は親御さんに交際を反対されて、孤崎さんと引き離されることが不安だったようです」

 それを察して時雨が答えると、一度ちらっと梧は視線を向けてきた。だがすぐにまたパソコンに視線を戻し、「そうか」と、答え、続きを待っていた。

「孤崎さんは森庵が家族と気まずくなるのを懸念していましたが、森庵は聞く耳を持たない状態でした。……だけど少し話をしたら森庵も我に返ったみたいで、二人で話し合いができて、ひとまず大学を卒業するまでは家に戻ると連絡が来ましたよ。親御さんとの話し合いはこれからのようですから、先のことはわかりませんけど、状況によっては協力してもらえるよう、姉さんにも話は通しておきました」

「……そうか。俺にも何か手伝えることがあったら言ってくれ」

「もちろん、お願いします」

 梧はようやく時雨の方を見て頷くと、また仕事に戻った。

 

 週末、あの重苦しい空気の後、いつもの通り傍若無人な霞の買い物にあちこち付き合いながら、緝の話も相談した。

 「あなた、自分のこともどうにもできないのに他人のことに首を突っ込んでるの?」と呆れられたが、「できることは協力するわよ」と、すぐに承諾してくれた。

 確かに、自分のこともままならない男が、他人のことにとやかく言える筋合いはないだろうなと思いながら、時雨はタブレットを開く。

「……今日の予定を確認しますが、よろしいですか?」

 時雨が梧に向かって言うと、梧は時雨の方へと視線を向けて「あぁ、頼む」と頷いた。

 二人はいつもよりはぎこちなく一日を始めたのだった。

 

 ――――――――――――――――――――――



「どした?またなんかあった?」

 放課後になり、部活へ行くための準備をしていた心悠が、自分の席でぼーっとしていたたまきに向かって言った。

「……え?ううん……何もないよ」

 一瞬相談しようかと迷ったけれど、心悠たちはこれから部活だし、引退まで残り少ない彼女たちの邪魔はしたくないと思ってやめた。インターハイもかかっている。

「ん~~~?ほんとかぁ?」

 口を尖らせて疑いの目を向けてくる心悠に、たまきは「うん。ちょっと休み明けでぼーっとしちゃっただけ」と笑った。

「そう?……バイトで疲れてない?無理しないでよ?」

「してないよ。受験もあるから、少しずつ減らすつもりだし」

 心配そうな顔の心悠に、たまきは答える。心悠はまだ心配そうな顔のまま、「ならいいけど」と、まだ納得していないような顔で言った。

「こは~、行くよ~」

 先に準備を済ませたさっちょんとよっちんが心悠を呼びに来て、心悠は「今行く!」と答えた。

 行く前にたまきの方を振り返り、

「なんかあったら、すぐに言いなよ?今じゃなくても、メッセでもいいから」

 睨むような視線で、心悠が言う。

「わかってるよ、ちゃんと相談するってば。心悠もインターハイ目指してるんでしょ?集中、集中!」

「……そんなのは、どうでもいいよ」

 明るく振舞って心悠を鼓舞するたまきを見て、心悠はため息交じりに言った。

 三年間頑張ってきた陸上部員にとってインターハイがどうでもいいはずはない。でも、心悠がそれに匹敵するくらい大切に思ってくれているのがたまきであることも、たまき自身もわかっていた。

 そのたまきが、まだ、応援に行けていないこともきっと気にしているだろう。もちろん、急かしてきたり、口に出したりはしないけど、心悠だけじゃなくて、さっちょんもよっちんも。

 部活の話に気を遣われてることは、何となく感じているから。

「こ~は~!?」

 さっちょんが廊下から叫んで、「今行くってば!」心悠も叫び返す。

「大丈夫だから。ほら、行って!」

 たまきがニッと笑うと、心悠は納得してない顔のまま、「わかったよ……」と言って部活に向かっていった。

 

 心悠を見送って、たまきも帰る準備を始めながら、今大事な時期の心悠たちに、梧に誘われてそわそわしている話なんてできないと思った。

 自分が一人、浮ついているみたいで、なんだか悪い気がする。

 部活を差し引いても、受験生なのに。

 

 みんなの練習を見ないで口先だけで頑張れって言って、高校三年間、頑張り続けたみんなの勇姿を見ないままで良いのかな。

 そう思う自分もいる。でも怖い。

 翠を追いかけただけで、息が上がって膝が痛くなって、みんなとの差が大きくなった自分に耐えられるだろうか。

 陸上と向き合って、ちゃんとケリをつけなきゃと思うのに、未だに怖いなんて。

 応援にいつか行く、頑張ると言っておきながら、逃げてばかりの自分も、嫌だった。


 たまきは手を止めて、ため息をついた。

 その時、たまきはふと、梧のことを思いだして、「あ……」と、声を上げた。

 


 ――――――――――――――――――――――


「時雨、もう帰っていいぞ」

 夕方になり、粗方仕事が片付いたところで、梧が言った。

 疲れた顔をしていたが、結局いつもの通り仕事をした時雨を早く帰らせようと思って言ったが、

「……いや、あー……、もう少し片付けていくよ」

 まるで帰りたくないような口ぶりに、梧はまた時雨を訝しんで見つめる。

 いつもの時雨なら”そう?大丈夫?”と梧の進捗を確認するくらいで、そそくさと帰っていくのに、立ち上がりもしない。

 ……これはおそらく杠葉と何かがあったな、とは思ったが、時雨が話したがらない以上、梧にはどうしようもなかった。それに、聞かされたところで独身の梧には助言もできないし、喧嘩で杠葉に勝てる気はしない。

「……無理は、するなよ」

 そう言うことくらいしか、梧にはできなかった。


 

 重い足取りで時雨がようやく帰路についた後、梧は社長室で、どうしたものかな、とため息をついた。

 何があったか聞きだすべきか否かを思案して、プライベート用のスマホを取り出した時、ちょうど着信が入って、梧は驚く。

 相手はたまきだった。

 すぐに「……たまき?」と電話に出た。

『あ、梧さん?今……電話大丈夫ですか?』

 少し驚いたようなたまきの声を聞いて、梧はなんだかほっとした。

「ああ、大丈夫だ。どうかしたか?」

『……あの……、この前の、話なんですけど』

 遠慮がちで沈んだ声に、梧は「……お礼の話か?」と訊きながら、断られるのかと不安がよぎる。

 スマホ持っていない手の指先を落ち着きなく動かしながら、たまきの答えを待つ。

『……はい。えっと……、……夏以降ってことは、7月とか、8月より後じゃなきゃだめ、ですよね?』

「ん?……ああ、そうだな……。7月の中旬以降の方が時間は取れやすいとは思うが……、その前がいいか?」

『あ、いえ!……それならそれで、また、考えます』

「いや、言うだけ言ってみてくれ。いつ……、どこに行きたい?」

 梧がそう訊くと、たまきはしばらく黙った。

 たまきの呼吸だけが聞こえ、それが何度か、何か言おうと息を吸ってはためらうように吐き出されるのを繰り返し、『あの……』と、ようやく出たその声は、震えているような気がした。

『……ごめんなさい……』

 たまきが、なかなか話し出せないことを気にして謝る。

「ゆっくりで、かまわない」

 梧は落ち着いた声でそう言った。

 何となくたまきが言い出せない理由に察しがついて、社内用で使っているスマホを静かに取り出すと、それで”高校 陸上大会 日程”と検索をかけた。

 表示されたサイトで確認すると、全国大会の地区予選が6月の中旬ごろの日程で表示された。

 そのまま、梧はその日程のスケジュールを確認し、いくつかある予定が別日に移動できそうかを確認する。

 近くにあったメモを引き寄せ、できるだけ音を立てないように、時雨に相談する予定を書き込んでおく。

『……陸上の、予選会があるんです。6月に……』

「……うん」

 できるだけ、たまきの言葉を邪魔しないように相槌を打つ。

『心悠……他のメンバーも、出る予定なんですけど……』

「……ああ」

 決心が揺らぐのか、たまきはまた黙った。

 梧は、不安を刺激しないか心配しながらも、言い淀んでいるたまきに「……応援、行ってみるか?」と訊いてみる。

『…………はい。でも、あの、忙しかったら、大丈夫ですから』

 たまきはためらいながら返事をした後、すぐに打ち消すようなことを言った。

「そうだな。予定はこれから調整するから、返事は少し待ってくれるか?こちらから言っておいて悪いんだが」

『全然!いいです、大丈夫。……梧さんはもともとダメだって言ってたんですから。ほんとに、無理しないでください』

「ダメなわけじゃないんだ。少し立て込んでるだけで、休みがないわけじゃないから」

 何とか一歩、踏み出そうとしているたまきを挫けさせたくはなかった。

 ただ、絶対に空けると言えば、たまきは余計に気兼ねしてしまうかもしれない。

『……でも……、当日になって、行けないことも……あるかも知れないので……。ほんと、無理して空けたりしなくていいですよ』

 たまきが必死に取り繕いながら無理やり笑う声が聞こえて、梧の胸が軋む。

「………もし、当日になっていけないと思ったら、別のことを考えればいい。何か美味しいものでも食べるか、景色でも見に行こう。まだ御堂たちには行くって伝えていないんだろう?」

『…………はい』

「もちろん、出かけるの自体やめても構わない。それなら俺はただ休暇を満喫するだけだから、そんなに気負わなくていい。君の負担になるようならやめてもいいんだ」

『負担なわけじゃないですよ!……ただ、応援に行きたいけど……。一人で行くのは……まだ、不安で』

 弱々しくなっていくたまきの声に、今、会って傍に居られたら、と思った。傍に居たところで、たまきにとっては何の力にもならないかもしれないが、一人で不安と戦っているのか思うと、電話だけではもどかしかった。

「……そうか。俺で役に立つなら、いつでも声をかけてくれ。もちろん、予定が合わない場合もあるかもしれないが、できるだけ力になるから」

『…………ありがとうございます』

 少しほっとしたたまきの声に、梧もひそかに安どの息を漏らす。

「じゃあ、……少し時間をくれ。都合についてはまた連絡する」

『はい。……わかりました。お願いします』

 そう言って電話が切れると、梧は少し思案して虚空を見つめた。それからスマホを手に取り、電話をかける。

「……梧です。聞きたいことがあるんですが……」

 梧の声は、いつもより緊張していた。

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