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風の行く先  作者: 遥ゆとり
2章 高校編

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36

 翠は時雨と共に外に出ると、どう切り出そうか困って、立ち止まった。

「……森庵の、ことですか?」

 そう言われて翠が顔を上げると、時雨の顔もなぜか困ったような、どこか気まずそうな顔をしていた。

 それに面食らって一瞬動きを止めたが、せっかく話を振ってくれたのだからと、翠は口を開く。

「……はい。しゅ……森庵くんのことで……。その……おれ……、私は、そのぉ……、森庵くんとですねぇ……」

 それだと言うのに、翠は視線を泳がせ、なんともはっきりしない喋り方をしてしまう。しかも、肝心なことを全く伝えられていない。

 時雨のことは、緝からその人となりと関係を聞いてはいたし、たまきも時雨と梧は優しい人だと言っていた。だけど緝の相手が自分のような人間だったと知ったら、どう受け取られるかはわからない。そう考えると喉の奥が詰まって言葉が出てこなかった。

 しかも、あまりにも人と関わらなかった年月が長すぎて、こういうちゃんと生活をしている人たちと、どういう風に会話をしていたのか思い出せない。

 いや、会社勤めをしているときも、仕事の説明をしていただけで、雑談はめっぽう苦手だった。初対面で会話をするというスキルはもはや、ないと言っても過言ではない。

 

 しかし、翠が迷って逡巡している間も、時雨は黙って翠を見つめ、急かしもせずに話の続きを待っていた。

 自分で時雨に声をかけておきながら、こんなことに時間をかけているのは本質ではないと思い直し、翠は観念して、喉を軽く鳴らして整えた後、意を決して口を開く。

「わ、私は、緝くんと、お付き合いをさせていただいておりまして……」

 視線は時雨の足元を見つめながらだったが、何とか声を上ずらせずにそう告げた。

 言ったものの、時雨からの反応は不安だった。緊張しながら視線を上げると、時雨はほっとした表情で微笑んでいて「そう、なんですね」と、安堵と喜びが混じったような声で言った。

 ここまでの態度を想像していなかった翠は、自分の浅はかさを恥じるとともに、緝との深い絆を感じた。

 そりゃあもう、一瞬嫉妬しそうになるほどに。

 だけど、時雨は緝のことを本気で心配してくれていて、相手がこんな自分なのに、付き合えたことを心から喜んでくれているのだ。

 翠は目の奥がじんと熱くなるのをこらえ、「じ、実は……」と、ようやく本題を切り出し始めた。

「……今、緝くんはうちに居まして……」

「えっ?もう一緒に暮らしているんですか?よく親御さんが許してくださいましたね」

 驚きと、半分は感心したような声で、時雨は言った。

「いえ、それが……」

 同意を得て暮らしていると思っている様子の時雨に、すぐに翠は首を横に振った。

「あの、……時間もないので、歩きながらでもいいですか?」

「……ええ、そうしましょう」

 時雨は時計を見て、翠の指示した方へと一緒に歩きだした。

 歩き出しながらも、相変わらず翠はバツの悪そうな顔でため息をついた。

「……家出してきたんです、緝くん」

「はっ!?……あ、いえ。すみません」

 時雨は目を見開いて大きな声を上げ、慌てて口を押さえて謝った。

「いえ、当然です。私も驚きましたから。……どうも、私との関係を反対されたようで……」

「それは……、同性だから?」

「……おそらくは。けど、私の場合、ほとんどフリーターみたいなもんで……、年も離れていますから。緝くんがどの程度、私のことを話したかは分かりませんけど、反対される理由は山ほどあるんですよ……」

「……失礼ですが、孤崎さんは今……」

「……あぁ、ええと、投資で何とか不自由なく暮らせてはいるんですが……。仕事は何もしていません。もともとはITエンジニアの仕事をしていました。けど、一度ドロップアウトしてからは、もう……」

「そうでしたか……」

 そう言って考え込むような仕草をした時雨を見ながら、翠はため息をついた。

「……性別とか年齢とかは関係なく、私だから好きなんだと、ご両親には言ってくれたようです……」

 翠は俯きがちにそう言ってから、顔を上げ、空を見上げた。

「俺は嬉しいけど、親御さんの気持ちもわかるんですよ。大事な息子が、俺のような男と付き合うなんて聞いたら、ショックでしょう?性別云々もあれど、騙されてるんじゃないかとか、変な目で見られるんじゃないかとか、苦労するんじゃないかとか、心配は尽きないでしょう」

 確かに、親の気持ちを思えば、そうだろう。

 だけど時雨は緝の……、ゼンの想いを痛いほどに前世から知っている。

 しかも、今世ではその想いが通じたのだ。

 これを手放すことは、緝には何を捨ててもできないだろう。

「俺がもっと、しっかりした男だったら話は違ったでしょうけどねぇ。霜槻さんや海風さんみたいにちゃんと働いていて、見た目もいい男なら……」

 翠は自分を卑下した言い方をした。いくら見た目を変えてみて姿勢を正しても、気を抜くとすぐに俯いて、猫背になってしまう。今でも食事を摂るのも忘れることもあるし、服だって毛玉だらけのものもいまだに捨てられないし、出不精も変わらない。そう簡単に人間は変わらないものだ。

 緝は、無理に変わる必要なんかないと、言ってくれた。

 だけど、せっかく気持ちが通じたのに、これで本当によかったのかと……、彼にとっての幸せは、自分といることではないんじゃないかと思わずにはいられなかった。

 ただ、誰に反対されても、翠も緝のことを手放したいだなんてこれっぽっちも思っていない。手放せるはずもない。

「……相手を幸せにできるかどうかは、見た目とは関係ないと思いますけどね」

 時雨がそう言った。翠がそちらに視線を向ければ、さっきまでの翠のように、空を仰いでいる。

 彼にも何か、抱えているものがあるのだろうか。

 そう思いながらも、翠は自宅のマンションのエントランス前で立ち止まり、

「緝くんは……家族と縁が切れてもいいとも言うんです。俺がいてくれればいい。離れないで欲しいって……」

 そう、伏せ目がちに言った後、視線を上げて、時雨と視線を合わせた。

「無論、俺だって離れたいなんて思っていません。……だけど、家族とわだかまりを残したまま、引き離すようなことはしたくないんです」

 翠はそう言って頭を下げた。

 あわてる時雨に、

「緝くんを説得してください。せめて、大学を卒業して、国家資格を取るまでは家に戻るように。俺が言っても聞かないんです。本当は離れたいんじゃないかって疑うから」

 翠は頭を下げたままでそう懇願した。

 時雨はそれを聞いて、自分にそんな資格があるだろうか?と思った。緝からはスイの件で何も相談を受けていないし、時雨の言葉を聞いてくれると言う確証もない。

 けど、このままにしてはおけない。

「……私に、何ができるかは分かりませんが、話すだけ、話してみましょう」

 時雨がそう言うと、翠は勢いよく顔を上げて、ほっとした表情を見せた。

「助かります!」

 そう言うと、翠はエントランスの方を手のひらで指し示し、中へと促した。

「俺はもう、家族なんてはじめから放任なんでいいんですけど、緝くんは()()と違って、彼を想ってくれる家庭だから、俺のせいで壊したくはなかったので……」

 奥へと進みつつ、翠の口から”前世”と言う言葉を聞いて時雨は、話したんだな、と思った。

「……どこまでお聞きになっているんですか?」

 聞かれて、翠は気まずそうな顔でエレベーターのボタンを押しながら、

「……たぶん、一通り、全部です。()()()さんの個人的な話は聞きませんでしたが……、()()()()()()()()の話は、聞きました」

 と答えた。時雨は僅かに目を見開いて、驚いた表情をする。すぐにエレベーターが到着し、二人は乗り込むと、時雨が「そうなんですね……」と呟く。

「……前世から好きだと言われて、何かの言葉のあやかと思ったんですけど……。緝くんが何か抱え込んでいるような気がして、聞いてしまったんです。……勝手にすみません」

 上がっていく階数をぼんやりと眺めていた時雨に、翠は軽く頭を下げた。

「いいえ!」

 慌てて時雨は翠の方を向いて、すぐに首を横に振る。

「……でも、よく……信じられましたね」

 その後で、そう言った。

 ふと、杠葉のことを思い出して、彼女もよく、怪しげなことを言った時雨のことを信じてついてきてくれたなと、胸が痛んだ。

「…… 新手の詐欺かもしれないとは、思いましたよ」

 協力を得られて気が楽になったのか、翠は肩をすくめてみせた。わざと疑うような視線を時雨に見せたのが前世のスイと重なり、あぁ、やっぱりこの人はスイだ、と、再度確信する。

「……まぁ、それは冗談として。なんとなく、親しみを感じると言うか……。うまく言えませんが、思い出せないけど“知っている”感じはするんです」

 そう言ったところで、エレベーターが到着し、翠は手のひらで行く方向を指し示しながら、時雨の前を歩いていく。

「お嬢さん……冴島さんもそうだと言ってました。なんだか彼女とも妙につながりを感じてしまって、よくカフェに行くようになって。……今日、俺が浮かない顔をしてるって気づいてくれて、梧さんたちに相談したらどうかって言ってくれたんです。二人は信頼できるし、優しいからって」

 思い出しながら微笑んでいた翠が、急に困ったような笑顔を見せた。時雨が首を傾げると、

「……でも、冴島さんはそう言ったけど、海風さんの方は、俺を嫌ってるんじゃないかな。前にすごい剣幕で怒られたこともあるし、今日もかなり睨まれたので……。声をかけたら叱られそうだったから、霜槻さんに来てもらったんですが……」

 翠は、「逆に、感じ悪かったかな……」と乾いた笑いをあげながら頭を掻いた。

 梧が翠を嫌うと言う話はあまりしっくりこなかったから、

「それは孤崎さんのせいじゃないと思うので、気にしなくていいですよ」

 と言っておいた。

 今日はスイに気を取られて梧のことを見ていなかったが、おそらくたまきが翠と親しげに話していたのが気に入らなかっただけだろう。……本人が自覚しているかどうかはわからないが。

 時雨の気遣いを申し訳なく思ったのか、翠は軽く頭を下げて「気を遣わせてすみません」と言い、時雨がそれを否定しようと思った時、彼はドアの前で足を止めた。

 ポケットから鍵を取り出すと、翠は時雨と目を合わせた。時雨は察して、二人はお互いに頷き合う。


 翠は鍵を開けて、ドアを開ける。

「ただいま」

 と言って中に入ると、時雨のことも招き入れる。

「おかえり」

 と、奥から声がして、リビングのドアを開けて緝が顔を出した。

 顔を出した瞬間、時雨の姿を見つけ、緝の顔色が変わった。睨むように翠を見る。

「……カフェで偶然会って……ね」

 バレバレのぎこちない笑顔で翠が言うと、緝はため息をついた。

「霜槻さんがなんて言っても、俺は帰らないからな」

 そう言うとドアをぴしゃりと閉めてリビングの方へ引っ込んでいった。

 翠は時雨の方を振り返り「どうぞ」と言ってから、先に中に入って緝の後を追った。

 時雨もその後を追う。

「なんだよ!そんなに俺と離れたいのかよ!」

 リビングの方から、余裕のない緝の声がする。

「違うよ、そんなこと言ってない」

「言ってるようなもんだろ、霜槻さんまで呼んで……」

 穏やかになだめようとする翠の言葉にも、緝は訊く耳を持たない。

 翠が半端に開けたままのドアを押して、時雨はリビングに入った。

 切羽詰まった顔で、緝が時雨を見る。

 緝は唇を噛み締めて、視線を逸らした。反対に、困り顔の翠が、助けを求めるような視線を時雨に向けてきた。

 時雨は小さく息を吐いて、

「……久しぶりだね、森庵」

 と、努めて穏やかな声で言った。

 緝は答えない。視線をそらして、立ち尽くしたままだ。

 時雨は少し肩をすくめて、翠の顔を見ると、無言でリビングのソファを指し示して座ってもいいかと身振りで問うた。

 翠が頷いたのを見て、時雨はソファに腰かけると、紙袋からカフェラテを手に取り、一口飲んだ。

 それから顔を上げて緝を見つめた。

 そうしてから、少し大げさにため息をつく。緝が、訝し気に時雨を見たのを確認してから、

「君のせいで、俺は今、杠葉さんと気まずいんだ」

 と言って、カフェラテをまた一口飲む。

「は?なんで俺のせいで……」

 口を開いた緝を見ながら、もう一度ため息をついてみせ、時雨は首をすくめると、

「……君が、俺にスイとのことを相談してくれなかったって話したら、彼女の不満が爆発しちゃってね」

 おおよそ間違っていないが、少しだけ盛って話をすると、緝の顔は不満げになる。

「俺のせいじゃないだろ……」

 わずかに気まずそうなのは、翠のことを話さなかった後ろめたさがあるせいだろう。

 話の行く末を黙って見つめている翠は、家主であるのに気配を消しながら、遠慮がちにキッチンに置いてあるスツールに腰かけた。

 時雨はふっと自嘲気味に笑った。

「ああ、……俺のせいだよ。わかってる」

 と、今度はわざとではなく、自分の情けなさを嘆いてため息をつく。

「俺も……初めは怖かったよ」

 手元のコーヒーに視線を落として、呟くように時雨は言った。

「杠葉さんと付き合えた時は、嬉しくてたまらなかった。……だけど、いつか彼女は俺に愛想を尽かして、別れるって言いだすんじゃないか、……前世のように、ふっと消えるようにいなくなって、二度と会えなくなるんじゃないかって不安だった。結婚した当初だって、仕事から帰ったら居なくなってるんじゃないかって、毎回不安に駆られながら家に帰ってたよ」

 視線だけを緝の方へ投げる。緝は青ざめた顔で、唇を引き結んでいる。今の緝には、この時雨の気持ちが痛いほどわかるはずだ。

 緝を見つめた後、時雨はソファーの背もたれに背中を預けて、天井を仰いだ。

「……自分がつくづく愚かだと思うよ。彼女を追いかけまわして手に入れようと必死になって、彼女の人生を変えておきながら、彼女がどんな覚悟で、どんな想いで、俺に対してどれだけ深い愛情を注いでくれていたか、今まで気づかなかったなんて。……まして、彼女の愛を、信じてすらいなかっただなんて」

 目の奥が、耐え切れず熱くなった。

 泣くわけにはいかない。何をしにここに来たんだ。と、時雨は胸中で自分を叱咤し、目をぎゅっと瞑って奥歯を食いしばり、何度か呼吸を繰り返した。

 その姿を、緝と翠がそれぞれ見つめている。

 時雨の言わんとしていることが痛いほどわかる一方で、それに対して声をかけることもできず、緝は立ち尽くした。

 ようやく時雨は目を開き、体を起こした。ポケットから出したハンカチで、耐え切れずに滲んだ涙を軽く拭うと、緝をまっすぐに見た。

 一瞬たじろいだ緝に、

「森庵が決めたことなら、それに何かを言う権利なんか俺にはないのはわかってる。……けど、君が頑なになればなるほど、孤崎さんは君に何も言えなくなっていくんじゃないかな。……一生、孤崎さんにそうさせるつもりかい?……孤崎さんも君から離れたくないと思えば、ある程度、我慢するだろうし……」

 と、時雨はふと、翠にチラッと視線を投げながら言った。視線を受けた翠は、図星を突かれたように苦笑いをする。

「……孤崎さんは、君から離れるつもりはないと言ってた。だけど君は信じ切れないんだろう?……疑いたいわけじゃない。僕らは、片思いが長すぎたから、不安になってしまうんだよね」

 時雨が冷静な声で言った言葉に、緝は反論することができなかった。ぎゅっと拳を握りしめたまま、押し黙っている。

「……不安はわかるよ。だけど卒業するまで、もう一年を切ってるじゃないか。その間だけでも家に戻って、最終的には決裂したとしても、話し合いはするべきだと思うよ。親御さんが何に対して不安を抱いているのか、それが本当に解消不可能なのかものなのかどうか確認すべきだ」

 時雨がそう続けると、緝はまだ不安な様子で時雨と、翠の顔を見た。

 緝と目が合うと、翠は力強く頷いてみせた。

 その二人の様子を見つめてから、

「……協力は惜しまないよ。親御さんが不安に思うことを、一つ一つ解いていけばいい。伝手ならいくらでもあるから、大抵のことはどうにでもなる」

 そう言った時雨の目が据わっていて、緝が息を呑んだ。翠も、ただならぬ気配を醸し出している時雨に緊張する。

 もしかしたら、梧よりも時雨の方がよっぽど怖いのではないか。本当にどんなことでも、どうにでもしそうな雰囲気が、今の時雨にはあった。

「……それと、大学はちゃんと卒業して、資格は取ったほうがいい。君がこの先どう生きていくかはわからないけど、武器は多い方がいいからね」

 今の時雨が武器と言うと、どことなく不穏に聞こえたが、

「……それは、まぁ……どっちみちそのつもりだったけど」

 緝はそう答え、それを聞いてようやく時雨は表情を緩めて微笑む。

 するとその時、時雨のスマホが鳴った。

 時雨が画面を確認すると、紫露からのメッセージだった。”あとどのくらいかかる?”と表示されていて、時雨が時間を確認すると、すでに二時間が過ぎようとしていて、しまった、と思った。

「あ、すみません。時間……!」

 翠も時計を見て声を上げると、時雨はすぐに立ち上がり、翠に向かって「気にしないでください」と言った後、緝に向き直って、

「孤崎さんと話し合って、これからどうするか決めるんだよ。一方的に決めつけたりしないで」

 と諭すように言った。

「……わかった。……その……、すみません」

 バツが悪そうな顔で緝はそう答えると、時雨が顔を顰めた。

「……ありがとう」

 その表情の意味を汲んで、緝は少し照れたようにそう言った後、翠に向かって「ごめん」と謝った。

 翠は首を横に振って、ほっとしたように微笑んだ。

 それ見て時雨も微笑むと、ポケットを探って名刺入れを取り出し、そこから自分の名刺を一枚取り出して翠に渡した。

「何かあれば連絡をください」

「え、あ、はい」

 翠はそれを受け取ると、時雨はニコッと笑って頭を下げ、足早に玄関に向かった。

「霜槻さん……!」

 その時雨を、緝が引き止める。時雨が足を止めて緝の顔を見ると、

「……取り返し、つかなそうなのか?」

 と、不安そうな表情を見せた。

 杠葉のことだろう。

 時雨は切なそうに顔を歪めて、

「……どうだろうね。……いつもと変わらないんだよ。杠葉さん」

 と一言言った後、一度視線を逸らして、また、緝を見ると、覚悟の決まったような表情になった。

「……でも、このままにはしない。俺も努力してみるさ」

 そう言って微笑むと、再び玄関へと急いだ。

「忙しいのに、すみませんでした」

 その背中に向かって翠が言うと、

「構いませんよ。では、また」

 と、言って、慌てて出て行った。


 ちょうど翠の部屋を出たところで、時雨のスマホが再び鳴った。今度は着信で、相手は霞だった。

 すぐに時雨は電話に出ると、

騎士(ナイト)さん?この週末で埋め合わせをしてくれるって話じゃなかったかしら?』

 と、嫌味を含んだ声が聞こえた。

「……ちゃんと覚えていますよ、()()()。今全力で向かっていますから、もう少し待っていてください」

 時雨がそう言うと、

『可愛い弟の言うことだから聞いてあげたいけどねぇ。……許すかどうかはあなたが着いてから考えるわ』

 と、霞は面白がるような声で言って、電話は切れた。

「まったく、相変わらずあの人は……」

 そう呟きながら、時雨は先を急いだ。

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