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「ただいま~」
自宅のドアを開けて杠葉が声をかけると、慌てた足音を響かせて時雨が顔を出した。
「えっ、杠葉さん?」
驚いた顔をしている時雨に、杠葉は微笑むと、
「紫露は塾よね?時雨さんはご飯食べた?」
と、いつもの調子で言いながらリビングへと入っていく。
「え、あ、いや……まだですけど……、帰ってきちゃったんですか?」
その後を追って来ながら、時雨が言うと「あら、いけなかった?」と言いながら、荷物を適当な場所において、キッチンに入る。作り置きをしていったスープが、温められずにそのままになっているのを見て火にかけると、食器棚からスープ皿を取り出した。
「いけなくはありませんけど……。僕が電話をしたからですね?すみません……せっかく杠葉さんが休める夜だったのに」
そう言って、視線を下げてしょんぼりした顔をする時雨を横目で見ながら、鍋のスープをゆっくり混ぜながら温める。
「いいのよ。また誘ってくれるって言っていたから。……まぁ、霞さんは時雨さんに埋め合わせをさせるって言ってましたけど」
その言葉を聞いて、時雨は青ざめた顔で顔を上げると、
「……あとで……連絡を入れておきます……」
と、ため息をついた。
食器棚の引き出しからランチョンマットとスプーンや箸を取り出すと、ダイニングテーブルにセッティングして、時雨に「座って待っていて」と微笑んで顔を覗き込む。
少し切なそうな顔で微笑み返して、時雨は頷くと、座った。
時雨は、杠葉に予定を狂わせて申し訳ないと思いながらも、家の中に杠葉が居てくれることにほっとしていた。
しばらくして、温められたスープとご飯、いくつかの作り置きの副菜がテーブルに並び、杠葉が時雨の向かいに座ると、
「さ、たぁんとお食べ」
と、微笑んだので、時雨はその言い方にふっと笑って「いただきます」と手を合わせてから食事を始めた。
杠葉は時雨が食べ始めたのを見てから、自分の飲み物を用意してまた席に戻り、時雨に気を使わせないように、スマホを見ている。
心地よい静けさの中で食事を終えると、片付けようと立ち上がった杠葉を止めて、
「自分でやります」
と、時雨は言って、キッチンに向かった。
そうは言ったものの杠葉は洗い物は時雨に任せて、残ったものにラップをしたり、小さい器に移し替えたりして、整理しつつ、時雨が洗ったものを拭き取って食器棚に戻している。
「……なにも、聞かないんですか?」
手を動かしながら、杠葉の方を見ずにそう言うと、一度時雨の顔は見たものの、杠葉も手を動かしつつ、
「話したいなら聞きますよ」
と、答えた。
「……」
時雨はそう言われて黙った。それでも、食器を洗う手は止まらない。
真面目すぎるのよね。と思いながら、杠葉も片付けを続けた。
「……僕は、幸せ者です」
ふと、時雨はそう言って手を止めたので、杠葉は驚いた。
俯いたままの時雨の顔を覗き込めば、悲痛に歪んでいる。これが、幸せ者って顔かしらねと、杠葉は切なさ感じながら、ため息をついた。
「……」
時雨はその顔のまま、杠葉の方を見た。杠葉はひとまず、流しっぱなしになっていた水を止めると、「お茶でも飲みましょう」といって、食器洗いを途中でやめて、時雨にソファーに座るように促す。
素直にそれに応じたところを見ると、話を聞いてもらいたいのだろう。帰ってきて正解だったと、杠葉は思った。
香りのいい紅茶を選んでお茶を淹れると、いただきものの焼き菓子を添えて、杠葉は時雨の前に置いた。
太ももに肘を置き、手を組んだ状態で俯いていた時雨は、カップの中でわずかに揺れるお茶を眺めながら、
「……あなたに出会って、結婚できて、紫露という子供まで授かって、奇跡のような幸せなんですよ」
そう言った顔はまるで幸せとは思えないような、切ない表情をしている。
「……それこそ、他の人の幸せを、……奪ったみたいに」
杠葉はその言葉にムッとした顔をした。
俯いている時雨には見えていないようだが、文句を言ってやろうと思って口を開いて、……やめた。ひとまず話を聞いてからにしようとそのまま口を閉じる。
「ある人が、前世の相手に再会したことを、俺に言わなかったんです。……今世では相手が同性らしいので、きっと悩んでいるはずなのに……」
そこまで聞いて、杠葉は目を丸くした。
悲壮な顔をしているから、どんなことで悩んでいるのかと思ったら、まるで知らされなくて拗ねているようにも聞こえた。
「……力になりたかったの?」
だけど、拗ねてるのね。なんて言ったら流石の時雨も臍を曲げるかと思って、杠葉は言い方を変えた。
「……俺にできることなら、なんでもします。前世では俺のことを助けてくれましたから。彼と俺は似たような境遇で、同じような痛みを……共有していました」
頷いてそう言った時雨の言葉に、杠葉はうーんと悩んで、一口紅茶を飲むと、
「それが嫌だったんじゃない?」
と、小首を傾げた。
時雨はえっ、と驚いた顔で杠葉の顔を見た。
「あなたなら、なんでもしてくれるだろうって思ったから、嫌だったのよ。大人なら、自分で解決できるわ。たとえ相手が同性だって、当事者が二人で話し合って決めていくものでしょ?時雨さんが出る幕なんてないわよ」
あっさりと言ってのけると、時雨の顔は心なしか青ざめている。
杠葉なら味方してくれて、慰めてくれるとでも思ったのかもしれない。
だけど、杠葉は静かに、ちょっとだけ時雨に怒っていた。
「でも、彼はまだ大学生で……」
学生と聞いて、そういえば前に一度、時雨に連れて行ってもらったカフェで店員をしていた子がいたことを思い浮かべた。その子のことかどうか、確認をするつもりはないけれど。
「大学生って、成人してるじゃない。……逆に外野が余計なことしたら逃げられちゃうかもしれないわよ。そうしたら時雨さんに責任取れるの?」
「……どうにか、します……」
真剣な目で言う時雨を見て、本当に取れる手段は全てとりそうな感じがして、杠葉はため息をついた。
あんなに人の気持ちがわかる人なのに、時々、全部無視してゴリ押しでねじ伏せようとする雰囲気があるのはなんなのだろうと思いながら、杠葉はため息をついた。
「……無理よ。一度拗れちゃったら難しいものなの。他人が介入することでそのままダメになる場合もあるわ。……時雨さんに言わなかったのは、“自分でどうにかしてみる”っていう意思表示だったのよ」
「…………」
そう言うと、時雨はしょんぼりした顔で押し黙った。
「本当に困ったら、頼るつもりだったかもしれないわ。でも、最初から頼るのは違うと思ったんじゃない?」
誰かと自分を比べた時に、どうして自分だけがと思うことはあるかもしれない。今回だって、そのせいで時雨に言いたくなかったということもなくはないだろう。
だけど、そこまで時雨を追い詰めなくてもいいと杠葉は思った。
「……そう……ですね」
それでも自分を責めているような顔で呟く時雨に、
「……どうしても気になるなら、その人と話をしてみたらいいわ。お相手の方とどうなったかも気になるんでしょ?」
そうアドバイスしてから、杠葉は紅茶を飲んだ。
頷いた時雨の様子を確認してから、静かにティーカップを置き、姿勢を正すと、
「じゃあ、私の不満を言ってもいいかしら」
と、満面の笑みで微笑む。
塾の帰りで疲れたまま、紫露が小さな声で「ただいま」と呟いて静かに家に入ると、中から両親の話し声がした。
あれ?今日、母さんは霞ちゃんと出かけるんじゃなかったかなと思って、リビングに向かったところで、
「じゃあ、私の不満を言ってもいいかしら」
と言う母の声が聞こえて、紫露は足を止めて廊下で息を潜めた。とてもじゃないが、今二人のいるリビングに入っていく勇気はない。
「なっ、え……、はい」
父は戸惑いの声をあげたものの、覚悟を決めたように返事をしている。
「今みたいに“自分は幸せ者だ“って言う割に、悲しそうな顔をするの、嫌だわ」
珍しく、母の声が冷えている。父もそれがわかって黙っているのがわかった。
「家族といる時、幸せそうな顔をしているあなたを見るのはすごく嬉しいのよ。……でもね、他人の幸せを奪ったみたいだなんて……。そんな言い方しないで欲しいの」
母の声はさっきよりも穏やかに、だけど寂しそうに聞こえた。
父の言ったその言葉の意味も、それを聞いた母の気持ちも、紫露には痛いほどわかって、服の胸の辺りをギュッと掴む。
「杠葉さん……」
父は母の名前を呼んだきり、何も言えないようだった。
「…………もしも、あなたが思い描くような幸せが、梧くんや、……他の周りの人に訪れなかったら、時雨さんはどうする?」
すっと冷えるような悲しさが、紫露の胸に広がっていく。みんな、幸せになってもらいたいが、そうばかりじゃないかもしれない。
たまきが病気になるなんて思ってなかった。今のところ目立った後遺症もなく過ごせているが、誰にどんなことが起きるかなんてわからない。
前世の紫露は、別に不幸だったわけじゃない。
だけど、前世と比べると、平凡で合っても今世が幸せなのはわかる。
苦難の前世だった父の人生を思えば、確かに有り余るくらいの幸せだと父は思っているだろう。
だからこそ同じように、梧たちにも幸せになってもらいたいと考えているはずだ。
たとえ梧が前世のように命を狙われず、自由を奪われていない平和な人生で、それで十分幸せだと言ったとしても、父は満足しないだろう。
父は……梧が享受するはずだった幸せを、奪ってしまったと思っているから。
父は、何も答えなかった。いや、おそらく答えられないのだ。
「……前世を否定したりしないわ。そのおかげであなたや紫露と出会えたんだもの」
母の静かな声だけが、リビングに響いている。
それ以外は、息をするのも憚られるほど静かだった。
「……でも少しだけでもいいから想像してみて。私があなたと結婚した時、何を覚悟したのか。紫露が生まれた時のあなたの顔を見て、私がどう思ったのか」
父が静けさの中で、息を呑んだのがわかった。
「…………っ、杠葉さん…………」
母の声と言葉はとても冷静で、父は弱々しい声で母の名を呼ぶだけしかできない。
母はどれほど我慢してきたのだろう。
「……ごめんなさい。ちょっと意地悪しちゃったわね。……忘れてって言ったら、忘れてくれる?」
母がそう言って、ふふ、っと笑った声がした。
「そんな…………」
父はそれ以上何も言えず、うまく言葉が紡げないようだった。
紫露たちに気を遣わせないために、母はいつもそうして何もわかってないふりをして、笑ってきたんじゃないのか。
自分の考えの浅さに、紫露は情けなくなった。
俺が今していることは正しいのか、揺らぎそうになる。「……お風呂、沸かすわね。紫露はどうする?ご飯先にする?」
唐突に声をかけられて、紫露はビクッと身を震わせた。
母は気づいていたのだ。もしかしたら、わかっていて聞かせたのかも知れない。
「えっ?」
父は気づいていなかったようだ。
紫露は静かにリビングに入って「……ただいま」と言った。笑ったつもりだったが、顔は引き攣っているかも知れない。
父は紫露の顔を見て気まずそうな顔をしていて、母の顔は、ほとんどいつも通りに近い微笑みを湛えている。
ただ、いつもよりも少し、悲しげに見えた。
「……ごめんね。俺……」
紫露が震える声で言いかけると、
「……いいのよ。あなたは、今思ってる道を進んでみなさい。大丈夫。間違ったと思っても、そう思った時にまた考え直せばいいだけだから」
まるで、何もかもわかっているかのように、母は微笑んで言った。
そして、まだ項垂れたままの父と紫露の顔を交互に見て、
「さ、紫露は着替えてきて。すぐお風呂を沸かして、ご飯の準備をするから、どっちが先でもいいから順番にお風呂入っちゃってね」
と、いつも通りの母の顔で、いつも通りのセリフを言った。
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スマホの通知がたまきからのメッセージだったことに驚いて、梧はスマホを取り落としそうになった。
なんとか落とさずに済んで、メッセージアプリを開くと“元気ですか?”と言うメッセージと共に、ちらっと覗き込むモーションのリスのスタンプが押されている。
ふっ、と口元を緩めてそれを眺めた後“元気です。たまきも元気か?”と送ると、すぐに“よかった!”と喜んでいるリスのスタンプが押されて“私も元気です”と送られてきた。
“それならよかった”と梧も返すと、やや間をおいて“また、カフェに来てくださいね”とメッセージが来て、“また行くよ”と打ちこんだ。
他愛無いやりとりが、心地よかった。
また連絡すると言ったことは覚えていたし、連絡するつもりもあった。
ただ、あの後、何を送ればいいのか分からなくなって、そのうちにあの人—————霞が来てから忙しくなり、返信できないままになった。
時間が経てば経つほど、たまきはそれほど気にしていないんじゃないかと思えて、送るのをやめてしまった。
今も本当は、このまま会話を終えるのが惜しくて、話題を考えている。だが、こういうときほど、ろくな話題が見つからない。
”学校はどうだ?”
”バイトは大変じゃないか?”
”最近どうしている?”
どの話題でも構わないのに何度も書いては消して、結局、何も送れないまま、時間だけが過ぎる。
梧は額に手を当て、ため息をついた。
俺は一体、何をやっているんだ。年頃の子供でもあるまいし。と胸中で呆れる。
思えば今まで目的もなく話をすることなど、考えたこともなかった。用がなければ連絡する必要もない。梧はそういう性格だった。
でも、たまきとはなんでもない話をしたいと思えた。
たまきは素直だ。
思ったことは顔に出るし、誰かの言葉や行動に赤くなったり慌てたり、喜んで笑顔になったり、時折ムッとして口を尖らせたり。
その表情や行動が新鮮で、見ているだけでも面白い。
……たまきには打算がないのだ。
梧に対してどこかへ連れて行ってほしいとか、何かを買ってほしいとかいう欲がない。その欲求のためだけに、優しくしたり助けたりすることもない。
たまきは、何も見返りがなくても、手を差し伸べようとするだろう。
そのくせ、人に頼るのが苦手で、ギリギリまで我慢して、結局、目が溶けるほどに泣くんだ。
—————俺のような奴が周りをうろうろしていたら、たまきは……その、好きな人や、恋人を作れないじゃないか。
自分で言った言葉が、胸に刺さる。
いつのことだったか、泣いていたたまきが、梧の方へ体を傾けたことがあった。
何も言わなかったが、無意識にたまきが梧を頼って「助けて」と言った気がした。「辛いよ」と。
たまきが本当に求めていたのはすでにいなくなった家族で、梧はたまたまその場に居ただけだとわかっていても、自分で良かったと思った。
不謹慎な考えだと、わかっている。
だが、彼女を抱きとめて、泣き止むまで傍に居て、それがあの瞬間の彼女を少しでも癒せていたなら良いなと思った。
梧は自分の掌を見つめた。
……この先、その役割は、きっと梧ではなく別の誰かがするのだろう。
彼女に相応しい年頃で、優しい相手だといいと思いつつ、そんなことを考えると、もやもやと晴れない気持ちが梧の胸の奥に現れる。
リビングのソファにもたれて、天井を見上げた。
その感情が、一体なんなのか掴みきれてはいなかったが、それが承認欲求の類のような気がして、梧は自分が子供のようで情けなくなった。
たまきから離れなければと思う一方で、たまきに会って声が聞きたいと思ってしまうのだった。




