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「マジであっという間に三年なんだけど……」

 たまきの机に突っ伏する心悠が沈んだ声で言う。

 4月になって、たまきたちは高校三年生になった。二人はクラス替えで、ようやく念願の同クラス。ちなみによっちんとさっちょんまで一緒である。それには喜んだが、三年で受験生という事実に、心悠は打ちひしがれている。

「でも、心悠はスポーツ推薦取れるんじゃないの?」

 たまきが言うと、心悠を目線だけをたまきの方へ向けたが、

「……たまきは進路決めてんの?進学するんでしょ?」

 と、話を逸らした。

 たまきはまだ、心悠たちの出る大会は見に行けていない。前ほど“辛くて見れない”と言う気持ちではないのだが、みんなが走っている姿を見たら、走りたい気持ちが増してしまう気がした。

 以前、翠を追って走った時に、すぐ息が上がって膝が痛んだことを思うと、走るのは無理だ。もちろん、いろいろな専門家の力を借りれば、今よりも走れる可能性はゼロではないかもしれないが、走れていた頃の自分とのギャップに耐えられる気がしなかった。

 心悠たちの活躍は、話ではちゃんと聞いているし、現地には行かないが、気持ちで応援はしている。

 ただ、心悠としてはまだ、陸上での詳しい話は禁句だと思っているのかもしれなかった。

「うん。……そのつもりだけど、まだ……何を目指すかとかははっきり決めてない」

 たまきが頬杖をついてため息をつく。

「あーあ。大学も一緒のとこがいいけど、そうはいかないよねー」

「心悠は私立?」

「たぶん……まだわかんないけど。たまきは国立目指してる?」

「うーん、そう、だね。……国立で探そうとは思ってる」

「そっかぁ」

 心悠はそう言ってため息をついた。

 体を起こして伸びをすると、今度はたまきが机に顔を伏せる。

「……どうかした?」

 その様子を見て心悠が声をかけると、たまきはそのまま首を横に振って、横を向くと

「なんでもない」

 と呟いた。

 心悠は眉を上げて、首をかしげる。

「その”なんでもない”は、たぶんなんでもなくないな」

 腕を組んで、たまきの様子を見下ろしながら言うと、たまきはちらっと心悠を見た後、また顔を隠すように突っ伏した。

「どーしたぁ?……私には言いづらい?」

「そーゆーわけじゃないけど……」

 突っ伏したままのこもった声でたまきは答えた。

 元々ショートカットだったたまきの髪は、冬休みにはほとんど元のように生えそろった。ただ、クセのないサラサラの髪だったのが、少しだけクセが入って髪質が変わり、少し触り心地が固くなっている気がした。心悠はその髪をひと束つまんで指先で弄びながら、

「梧さんがらみ?」

 と、訊くと、たまきの頭がわずかにピクッと反応した。

 たまきの髪から手を離し、優しく手櫛で整える。

「……ケンカ?」

「……ケンカできる立場じゃないじゃん……」

「……立場……?まぁ……そう……?……じゃあ、会えてないとか?」

「…………」

 答えないたまきの反応に、会えていないことが図星だとは思ったが、それ以外も何かありそうな気がしたのでどう問いかけようか迷って黙った。

 たまきも心悠に、自分の胸の内をなんて説明したらいいかわからず黙ったまま、もやもやと考え込んでいた。

 会えていないばかりか、連絡すら取っていない。

 梧が「また連絡する」と言ったのは冬休み中のことだ。そこからすでに三ヶ月ほど経っているが、あれから連絡も来なければ、バイト先にも来なくなった。少なくとも、たまきがバイトしているときには。

 もとから頻繁に連絡を取り合う仲というわけではなかったし、たまきの方から連絡するような話題も思いつかなくて、そのまま連絡が途絶えてここまで時間が経っていた。

 翠のことを黙っていたことが悪かったのかな、とは考えたけれど、仕事が忙しいだけかもしれないし、梧にとってはたまきと会わないことは大したことじゃないだろうし、それに、このまま会えなくなっても、仕方がないとも思ったりした。

 ()()()()()だもんな、とどこか自虐的に心の中で繰り返してしまう。

 その事で胸が痛むのは事実だけど、叶わない想いを抱えたまま梧に会うのもきっと辛いと、たまきの胸の中は複雑だった。

「……そういや、紫露とも最近、連絡取れないんだよね」

 それを聞いたたまきが、顔を上げて心悠の顔を見上げた。

 心悠はスマホをいじりながら、

「まぁ、しょっちゅう連絡してたわけじゃないけど、連絡したら遅くなっても返ってきてたんだけどさ。二、三ヶ月くらい前から既読無視状態」

 そう言って、メッセージ画面を開いてたまきの方に見せた。

 たまきと出かけた時の写真の後に”羨ましいだろ”と送ったり、部活の後輩ととった写真が送られているが、確かに既読にはなっているが、返信がなかった。

「……勉強、忙しくなってきたのかな?」

 たまきが呟いて心悠を見ると、心悠は肩をすくめて首をかしげる。

「まぁ、この前、うちのママが杠葉さんと会った時には元気にしてるって言ってたらしいから、体調悪いわけじゃないとは思うけど」

「……体調不良……」

 たまきは体調と聞いて、梧が体調不良になったとかじゃないよね?とふと思った。

 冬に風邪は引いていたが、あれが風邪じゃなくて何か別の病気の前兆だったらどうしようと急に不安になる。

「……さすがに、梧さんが病気だったら、紫露から連絡来るって」

 不安げなたまきの顔を察して、心悠が言う。

 青い顔のまま心悠の顔を見つめるたまきに、確証はないが心悠は「大丈夫だよ」と笑ってたまきの肩を優しく叩いた。


 ――――――――――――――――――――――


「……社長と霜槻常務、最近外出が多いですけど、何かあったんですか?」

 資料を取りに来た時雨に、社員が小声で声をかけてきた。

 いつも朗らかな時雨もどことなく疲れた顔をしていたが、社員に笑顔を向け、

「……ああ、個人的な案件でね。気を付けていたんだけど、何か不都合が生じているかな?」

 と、答えた。

 「あ、いえ!決裁も仕事も滞りなく進んでおりますので……。ただ、お疲れのご様子で、その……社長はお顔が険しいと言いますか……。お疲れなら、何か差し入れを買って来ましょうか?」

 社員が慌てて首を振ってそう言うと、時雨は少し考えるような仕草をしたが、

「いえ、別段必要ないよ。表情の件は伝えておきますね」

 と、にこやかに返した。

「いえいえいえ!社長はお顔が怖いだけで、特に困ってはおりませんので、問題はないです」

 社員は失言だと思ったのか微苦笑を浮かべたままそう答えると、時雨に資料を渡す。

 顔が怖いから声をかけづらくて困ってはいそうだな、とは思いながら、

「それなら良いけど。あまり気にしないでください。資料ありがとう」

 ほとんど張り付けた笑顔で、時雨は資料を持って社長室に戻った。

 社長室に入るなりため息をついた時雨を、睨むような目つきで一瞥した後、すぐにパソコンの画面に視線を戻して、キーボードを打ちながら、

「どうかしたか?」

 と、梧は訊いた。

「いいえ……」

 そう答えた時雨をもう一度ちらっと見た後、キリのいいところで手を止め、不機嫌そうな顔のままため息をついた。

 そのまま、椅子の背もたれにもたれて、

「……()()()はいつまで居るんだ?」

 眉間を指でつまんで、疲れた声で言った。

 時雨は静かにもう一度ため息をついて、

「……一度帰るとは言っていましたけど……、少なくとも7月までは居るんじゃないですか?……ミーティングや会食の予定は7月頭まであるようでしたから」

 と、半分投げやりな口調で言った。

「……その後、いつ戻る?」

「……詳しくは教えてもらえませんでした。オフラインの用事があれば年内中も帰国するとは思いますけど、来年はブランド25周年本番ですから、もっと長くいるかと」

 梧は天井を仰いで再びため息をつく。

「今日はホテルで大人しくしているのか?」

「……杠葉さんを誘って、ホテルで泊まりの女子会だそうです」

 時雨の声に不機嫌な色が混じっている。杠葉を取られて面白くないのだろう。

 下手なことを言うと時雨の不機嫌が増しそうな気がしたので、梧は口を噤む。

 時雨が諦めたようにため息をついたのを聞いて、梧は立ち上がりながら、

「コーヒーでも飲むか」

 と、出口へ向かった。

「私が淹れますよ」

 慌てて言った時雨を片手で制止して、「それくらいできる」と言って部屋を出て行った。

 

 梧の持ってきたコーヒーを受け取りながら、時雨は申し訳なさそうに、

「毎回、梧まで巻き込んですみませんね」

 と、呟いた。

 梧はそれを聞いてふっと笑った後、真面目な顔になった。

「俺もあの人の事情はよくわかっているつもりだ。……もちろん、気は遣うが……彼女の力になりたいと思っているよ」

 言って、肩をすくめコーヒーを飲む。

 時雨はほっとした顔で笑った。

「……この土日は紫露と私とで対応しますから、梧はゆっくり休んでください」

「……いいのか?」

「ええ。1月末にあの人が帰国してから仕事以外はほとんど時間を割いてくれていたでしょう?」

「まぁ、俺は基本暇だからな」

「……たまきさんに会いに行きたいんじゃないですか?」

 表情を伺うように時雨がそう言った時、梧の動きがぴたりと止まる。

 風邪を引いた後はしばらく機嫌が良かったようだし、新年も会ったという話は紫露からも聞いている。

 ただ、その後はなんだか浮かない表情をしていた時もあったのだが、忙しくなってしまってそれどころではなくなっていた。

「何を……。別に、たまきに会う用事は……ないだろう?」

 明らかに動揺の色を見せたが、悟らせまいとカップの中を覗き込むような仕草をしながら、梧は答えた。

 その態度から、会いたいのだろうと察して、

「……用がなくても、あまり深く考えずに連絡したらいいじゃありませんか。他愛のないことを連絡しあってもいいんですよ」

 そう、優しい口調で時雨が言うと、梧は驚いた表情で時雨の顔を見つめる。

 思えば、カザネの頃は引きこもって生活していて、そういう対象はハルだけ。それ自体は悪いことじゃないが、幼馴染からその先の関係になるという過程は少しいびつではあった。

 いびつにしてしまったのは、前世のサギリたちにも責任の一端はあるが……身分差は如何ともしがたいものだった。

 今世に至っても十代の初め頃に前世の記憶を取り戻してから、全てを把握しているわけではないが、ハルに対する罪悪感のせいで高校、大学と今の今まで恋人を作るというような雰囲気ではなかったと思う。

 もちろん、たまきとそういう関係になるかどうかなど、たまきの気持ちもあってわからないが、少なからず梧の気持ちを癒してくれているのは確かで、すでに二十代後半の梧をこんな風に言うのは何だが、そういう相手を大事にして、関係を築いていく方法を学んでいってほしいと思っている。

 しかし、その梧の表情が曇っていく。

「……彼女には彼女の付き合いがあるだろう。友人や……大切な人と過ごす時間を、俺たち大人が邪魔をすることはできない」

 梧はそう言ってコーヒーを飲み干す。

 時雨は眉をひそめた。

「たまきさんと、何かあったんですか?」

「……いや、何かあったというわけじゃない……。俺のような奴が周りをうろうろしていたら、たまきは……その、好きな人や、恋人を作れないじゃないか」

 梧は一瞬、時雨の顔色を窺うような表情をしたような気がしたが、すぐに視線を逸らした。

「え!す、好きな人がいるんですか?たまきさんが、そんな素振りを?」

 時雨が声を上げると、「い、いや」その勢いに押されて梧が首を横に振る。

「そう聞いたわけじゃない。だが、彼女には彼女に相応しい年頃の、気のいい恋人ができるかもしれないだろ……」

 その声は、梧にしては珍しく自信なさげに尻すぼみで小さくなっていき、まるで自分がおじさんかのような物言いに、時雨は黙ってその顔を見つめた。

 梧は自分の顔の前で手を振り、「この話は辞めよう」と言った。

 飲み終わったコーヒーカップを時雨の手から奪い、梧は片付けに部屋を出て行こうとする。しかし、その途中で足を止めた。

「そう言えば、お前は聞いていたのか?森庵がスイを見つけていたこと」

「……え?」

 それを聞いて、今度は時雨が動きを止めた。

 その様子を見て、

「……お前も知らなかったんだな」

 と、梧がどこかほっとした様子で言うが、時雨はそれには答えず、どことなく青い顔で少しの間黙った後、

「……どんな方……でした……?」

 と、呆然とした表情で呟く。

「……お前より年上の男性だ。今世も背が高くて細身で、顔は全く違うが体型はスイに似ていたな」

「男性……」

 梧の話を聞いて、そう呟いて考え込む表情をしたあと、時雨はまた黙り込んだ。

「……時雨?」

 妙な様子の時雨に、梧が首をかしげて名前を呼ぶと、時雨はその身を揺らすようにハッと我に返って、笑顔になった。

「……言いづらかったんでしょう。私は”()()()”ですから」

 梧はその顔が作り笑顔なことにすぐに気が付いたが、時雨の言った言葉の意味が分からずに立ち尽くす。その梧の手からコーヒーカップを取り上げて、時雨は部屋を出て行ったのだった。


 あれから時雨は普段通りに振舞っていて、それ以上聞ける雰囲気ではなかった。

 そのままほとんど雑談なしで、仕事を終えて梧と時雨は帰宅した。

 

 時雨と緝の関係性は、梧にはわからないところがある。

 今世で緝の、時雨と梧に対する態度は大きく変わらないとは思うが、前世でサギリとゼンは互いに相談や話し合いをすることがあったらしかった。

 サギリとゼンが友人関係だったかとか、仲が良かったかと言われると何とも言えない。そう言う場面を見たことがほとんどなかったからだ。

 ただ、お互いにお互いのことに深入りしすぎないような暗黙の線引きはあったような気がするし、それ以上に深い絆や信頼があったような気もする。

 ほとんど王宮の外に出れないカザネにはわからなかったが、ハルが二人の立場はよく似ているからじゃないかと言ったことがあった。

 全く同じではないが、ゼンはハルの親代わりでサギリはカザネの教育係、ゼンはスイのことが好きでサギリのかつての想い人も”風のもの”だったらしいと。

 カザネの目から見て、ゼンはスイにいつも文句を言ってばかりで好いているようには見えなかったが、ハルは旅をしながらいろんなものを見聞きしているせいか、あれは絶対そうだ、と言い切っていた。

 ハルはサギリのかつての想い人の話をいつ聞いたのかは知らないが、ハルが一人で旅に出てもう関われなくなった時、カザネを諦めさせるためにサギリの口から直接そのことを聞いたので、そちらは間違いなかった。

 

 今日の時雨の顔は、ショックを受けているような表情だった。

 梧は勝手に、時雨は自分よりいつも大人で落ち着いていて、人が何かを相談してくれなかったとか話してくれなかったということに心を乱されるようなことはないと思っていた。

 梧は、たまきがアルバイトの話を相談してこなかったり、今回もスイのことを黙っていたりしたことがなぜだろうと気にかかって、自分に頼り甲斐がないとかそんなふうに思ってしまうことはあるが、時雨はそんなことはないのだと思い込んでいた。

 聖人君子のように振舞う時雨を当たり前のように感じていたけれど、当然時雨にだって悩みはあって、弱音を吐きたいときだってあるはずだろう。

 どうして今まで、それに気づかなかったのかと、梧は口惜しく思った。

 そして、おそらく時雨はその弱音を梧に話すことはないだろうことも、口惜しい。

 時雨にとって、梧はいまだに庇護すべき対象で、梧はまだまだ、未熟な存在なのだ。

 

 —————私は”()()()”ですから—————

 

 時雨の言った意味が、梧には分からなかった。

 その言い方は、まるで時雨が”幸せ”ではないように聞こえた。

 そんなことがあるわけはない。前世で結ばれなかった相手を見つけ出し、結婚し、子供まで生まれている。

 時雨は杠葉といるとき、家族団らんの場でも「幸せだ」とよく口にしていたし、幸せだと思っているのは確かなのに。

 ずっと、カザネのために奔走したサギリが、今世では幸せでいてくれていることは梧にとっても嬉しかった。

 霜槻家の幸せさを目の当たりにするたび、ほっとしていた。サギリが報われて良かったと。

 嘘偽りなく、心からそう思えた。

 時折、その家族の団欒に参加させてくれることは申し訳なかったが、屈託なく慕ってくれる紫露や、姉のように家族として振舞ってくれる杠葉も、梧には有り余るくらいの幸せのおすそ分けだ。

 

 ……だが、違うというのだろうか。あの家族は、時雨にとって幸せではないのか?

 家族といるときの、安心した、幸せそうな顔を思い浮かべて、どうしてもそうは思えない。

 

 ふと、梧の胸にもう一つの可能性が浮かんだ。

 

 ……あるいは、”幸せでいてはいけない”と思うような何かが、時雨にあるのか?

 だが、梧には、何一つ思いつかない。

 時雨は、サギリの頃から今世も、申し訳ないほど梧に仕えている。

「……まったく、俺は何でこんなに……誰の役に立てないんだ」

 梧は呟いて、自分の髪をくしゃくしゃと乱した。

 特に、人の感情の機微や人間関係については時雨に頼らなくてはならない自分に嫌気がさした。

 

 ふとその時、プライベート用のスマホの通知音が鳴って、梧はため息をついてスマホを手に取った。



 ――――――――――――――――――――――



「あら、時雨さんだわ」

 ホテルのスイートルームで、二つ並んだベッドのうちの一つでくつろいでいた杠葉がスマホの着信を見てのんびりとした声で言うと、もう一つのベッドの上でワインを嗜んでいたシルクの部屋着を着た女性が、不機嫌そうな顔をした。

「なぁに?女子会だって言ってあるのに連絡してくるなんて、無粋なやつね」

 その口ぶりにふふふと微笑んで、杠葉はベッドから降りると、人差し指を唇に当てて「少しだけ、すみません」と言ってから窓辺に寄って電話に出た。

「……時雨さん?何かあったの?」

 と、柔らかい声で聞くと、

『いえ、何もありませんが、あなたの声が聞きたかったんです』

 ほとんどいつもと変わらない、時雨の甘い声色が聞こえてきた。

「あら……もしかして、一晩だけなのにもう寂しいのかしら」

『あなたと離れるのは、本当は一秒だって嫌ですよ』

 茶化すように杠葉が笑いを含んだ声で言うと、時雨もそれをわかっているような、優しい声で答えてくる。

「……ふふ。それ、スピーカーで聞かせてあげた方がいい?」

『それはやめてください。あなただけに伝えたいんですから』

 時雨の声が少しだけ焦ったように早口になった。

「あら、私ってとても幸せ者ね」

『そうですか?僕の方がもっと()()()ですよ。……あなたが僕と結婚してくれて、紫露が生まれて……。この世界中で僕ほど幸せな男はいないです』

「……そう?今日は随分大袈裟ね」

『……そんなことありませんよ。いつも思っていることです。……もう……切りますね。そろそろ怒られそうなので。……じゃあ、杠葉さん、今夜は楽しんで。……おやすみなさい』

「ええ。おやすみなさい」

 そう言って電話を切り、しばらくスマホの画面を眺めた後、杠葉はクローゼットの方へ向かい、部屋着を脱ぎ始めた。

「ちょっと、もしかして帰るつもり?」

 女性が慌てて体を起こすと、杠葉はにっこりと優しい笑顔で微笑み、

「ええ。ごめんなさい」

 と言ったあと、手早く着替えていく。

「時雨が寂しいから帰ってこいって言ったの?」

「時雨さんがそんなこと言うわけがないって、わかっていらっしゃるでしょう?」

 見透かしたような杠葉の言葉に、女性はムッと口を引き結んで眉間に皺を寄せた。

「……じゃあ帰らなくてもいいじゃないの」

 口を尖らせて拗ねたような顔で言う女性に、微笑んで、

「……(かすみ)さんだって、パートナーの声ひとつで気持ちがわかる時があるでしょう?」

 着替え終えて、脱いだ服をカバンに詰めていきながら杠葉は言った。

 女性—————霞は不機嫌そうな顔のままだったが、長い髪をかきあげてため息をついた。

 そして、部屋の電話の受話器をあげると、部屋番号と名前を告げ、

「……タクシーを一台頼めますか?……ええ。支払いはこの部屋につけてくださるとありがたいわ。はい。よろしくお願いします」

 と言って、電話を切る。

「自分で払いますよ」

 慌てて杠葉が言うが、霞は人差し指を立てて左右に揺らしたあと、

「杠葉ちゃんは甘えておいて。埋め合わせは時雨にさせるから」

 と、怒ったような顔で言った。

 杠葉は驚いた顔をした後に、優しく微笑んで、

「……ええ、じゃあそうさせてもらいます。時雨さんに伝えておきますね」

「ええ。今夜のことは高くつくって伝えてね」

 そう言うと、霞は杠葉に向かってウインクをして見せた。

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