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わずかなだるさとともに、たまきは目を覚ました。
何か夢を見たような気がしたけれど、思い出せない。もともとたまきが夢の内容を覚えていることはほとんどないから気にしてはいないけど、せっかく今日と明日は振替休日で学校は休みなのに早くに目が覚めてしまったのはもったいない気がした。
布団の中でしばらく二度寝をしようとうだうだと寝返りをしてみたけれど、もう眠れそうにはなかった。
たまきは諦めて起き上がり、ランニングウエアに着替えると、まだ眠っているだろう祖父母を起こさないように、できるだけ音を立てずに家を出た。
まだ薄暗い外に出て一つ深呼吸すると、秋の初めの少しヒヤリとした空気が鼻から全身に届いていく。
平日だけど、まだ動き出さない街の静かな雰囲気に少しだけわくわくする。風が頬をさらりと撫でていった。
たまきは入念にストレッチをしてから、風を切って走り出す。
まだ誰もいない住宅街、早起きのおばさんが新聞を取り込むところを走り抜けながら「おはようございます」と声を掛けたら、驚いた顔でとっさに口元を手で覆うように顔を隠して「おはよう」と返してくれた。すっぴんを気にしたのかもしれなかった。
野良猫の何匹かとすれ違い、小さく手を振ったり、「にゃーん」と声をかけてみたりしながら、そのまま住宅街を抜けて、商店街の方へ。
商店街のお店のほとんどはまだシャッターが閉まったままだったけれど、もう準備を始めているお店もあった。
商店街も抜けて、丘の上の公園を目指した。
じわじわと角度が上がる坂を走れば、だんだん足が重たくなってきて息が乱れ、フォームを保つのが難しくなってくる。でも立ち止まりたくなかった。
公園に続く最後の急坂を、スピードが落ちてもなんとか登りきると、たまきは丘の上の柵を掴んで屈みこんだ。
落ち着いて、乱れた息を整える。
どのくらいそうしていたか、ようやくたまきは顔をあげた。
たまきの住んでいる地区の街並みが、ここからは一望できる。太陽が昇ってきて、街並みを照らし出していく。
しばらくずっと、その様子を見つめていたたまきは「……よし」と、何か心に決めたように呟くと、坂を下り、また商店街と住宅街を走り抜けて帰った。
たまきは家に帰ると、冷蔵庫から飲み物を取って2階に上がった。喉を潤して一息つくかつかないうちにスマホを取り出してメッセージを打ち込み始める。
決心が揺らぐ前に行動しておきたかった。
“朝早くにごめん。話したいことがあるんだけど、休みの間に会えないかな?無理なら学校始まってからでも大丈夫!”
何度も悩んで打ち直しながら、ようやく文章が書き上がった頃にちょうど、祖母から「ご飯できたよ」と声がかかった。
「今行くー」と返事をして、たまきはもう一度文章を読み直してから、紫露にそのメッセージを送って部屋を出た。
食事中もこの文章でよかったのか、既読がつく前に消して打ち直そうか、やっぱり送らないほうが良かったんじゃないかとか考えてそわそわしたけれど、いや、もう気にするのはやめようとスマホをポケットに突っ込んで食事を済ませると、お皿洗いに洗濯物干しなど、家事の手伝いで気を紛らわせた。
十時を過ぎた頃、たまきのスマホに紫露からメッセージの返信が届いた。
“休みなのに早起きっすね”“俺はいつでも空いてますよ。どこ行きます?”
普段通りの口調のメッセージに少しホッとして、たまきは待ち合わせ場所と時間を返信し、“OKっす。じゃ、また後で”というメッセージを確認すると祖父母に出かけることを伝えて支度を始めた。
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紫露はたまきからのメッセージを読み返して確認し、スマホをポケットに戻してため息をついた。
彼女と会うことが憂鬱なわけではない。ただ、彼女が話したいと思っているのは、おそらく昨日の文化祭での一件のことで、それにどう答えようか悩んでいるのだ。
実はメッセージが来たとき紫露も起きていたのだが、どう返信していいかがわからずメッセージをすぐには開けなかった。
昨日の夜は、あまり眠れなかった。
父の時雨から、たまきが“ハル”さんだとわかっていたのかと静かに問われた。怒っているのではないとわかってはいても、それを父に問われるのは気まずさもあって紫露はうまく答えられなかった。
何も答えない紫露に父も強くは言えずに、お互い余計気まずくなって今日の朝は父と一言も口を利かず、もちろんたまきと会うとは言わずにそのまま家を出てきた。
紫露は両親と仲が悪いわけではない。なぜか授業参観や部活の応援に父が来たことはないのだが、両親とはよく話をするし、相談も報告も割とまめな方だと思う。父は母にベタ惚れで両親の仲が良すぎてちょっとウザいなと思うことはあり、照れもあって年相応に反抗するときもあるが、それでも父と口を利かなかったのは今回が初めてだった。
紫露は項垂れて、また深くため息をついた。
「霜槻!」
そこに、たまきのいつもの明るい声が聞こえて、紫露は顔をあげた。
手を振って、こちらに走ってくるいつも通りの笑顔のたまきを見るとほっと気持ちが緩んで、紫露も手を振り返した。
「ごめん!呼び出しておいて待たせたね」
「いや、今来たところです」
家を早く出たので、もう1時間ほど待ってはいたが軽くウソをついた。
「ほんとかなぁ?」
たまきは疑うような視線で、紫露の顔を覗き込んできた。
「……腹空かないっすか?まずはなんか食べましょう」
紫露は話をそらして店を探してあたりを見渡した。別にどこでも構わなかったので目についたカフェを指さし「あそこにしましょう」とさっさと歩きだす。
「待ってよ、霜槻」
たまきが後を追ってきたのを、少し歩調を緩めて横に並ぶと紫露はお腹をさすりながら、
「今日はたまき先輩のおごりってことでいいんすよね?」
と、にやりと笑って見せた。
「えっ!……部活の打ち上げ程食べちゃダメだよ!」
「善処します」
紫露はいつも通りに見えるように振舞った。ウソがばれるのはどうでもいいが、自分の気分が落ち込んでいることを悟られるのは何となく気まずかった。まして、たまきも関わっている事情で、家族と気まずいなどとは知られたくない。
カフェに向かいながら「何食べようかなぁ」と呟くたまきを見て、紫露は微笑んだ。
カフェで注文を終え、窓辺のテーブルで待っていると妙な沈黙が流れた。
さっきまではお互い軽口も叩いていたが、本題をどう切り出そうかとたまきが緊張したのがわかった。紫露もこちらから声をかけようか話し出すのを待とうか迷って、窓の外を行きかう人をぼんやりと眺めている。
「……あの、さ。霜槻。昨日のことなんだけど……」
意を決して、たまきが口を開いた。
紫露はたまきの方へ視線を向ける。しかし、たまきは目を伏せてテーブルをぼんやり見つめていて、目は合わなかった。
「はい」
促すように紫露が返事をすると、たまきは一瞬視線をあげて紫露と目を合わせる。けれどすぐにまた迷ったように視線を巡らせて、黙ってしまう。
どう聞いたらいいかわからないだろうな。と紫露は思った。
きっと疑問はたくさんある。
知らない人に、知らない名前で呼ばれたのだ。それがたまきの中に渦巻いているだろうことは紫露にも想像できる気がした。
視線を下げたままのたまきを見つめて、軽く指先で頭をかくと、紫露は口を開いた。
「……アオ君……海部梧って言うんですけど。うちの父と昔からの知り合いなんです。アオ君が会社を立ち上げる時に父がそれを手伝って、今もその会社にアオ君の部下として働いてるんですけど」
たまきが視線を上げて紫露を見た。その視線が紫露の顔色を窺うような上目遣いに変わり、紫露は眉を顰めた。
「……うん。昨日霜槻のお父さんの名前で調べたら、会社のホームページが出てきて……」と、遠慮がちに言ったのを聞いて、あぁ、そう言うことかと腑に落ちた。
聞く前に調べたことに後ろめたさがあったのだろう。興味本位で調べる人もいるだろうと思っていたし、たまきに知られる分には別に構わなかった。
まぁ、ホームページに載ってる時点で誰に見られても文句は言えないだろう。
「そう。それですね」
なんでもない口調でそう言うと、たまきはホッとした顔をする。
しかしその後、どう話を続けようか紫露は少し考え込んで沈黙するしかなかった。何か言わなければと思ったが、これから話そうとしていることは普通の人には信じ難いことだ。それを不信感を抱かせることなく伝えるにはどうしたらいいか慎重にならなきゃいけなかった。
できることなら、この先も今まで通りたまきと関わっていたい。
軽口も叩きたいし笑い合うことも変わらないでほしい。
「……ハルって人のこと、霜槻は知ってるの?」
沈黙に耐えられなかったのか、痺れを切らしたのか、たまきが核心をついたことを言った。紫露が視線をあげると、少し眉尻を下げて微笑むたまきがいる。
その顔に紫露の胸が痛んだ。
騙していたつもりはないけれど、黙っていたのも同罪かもしれないと、急に後ろめたさが胸に広がる。
「俺は……」
紫露は頭をかいた。言葉を選ぼうとしたのではなく、純粋に難しい質問だった。
「俺自身は……ハルさんを知りません。ただ、親父からは聞いてました。ハルさんがどんな人だったか、どういう生き方をしてたのか」
そう。紫露自身はハルを知らない。
だけどたまきが、ハルであることはわかったのだから、知っていると言っても過言ではなかったかもしれない。
「その……ハルさんが私と似てたのかな?」
「それは……」
困惑しているたまきからの質問に、紫露はどう答えればいいかわからなかった。
黙ってしばらく考え込んだ後に紫露はため息をついた。
たまきの顔が不安そうに曇る。他にどう言えばいいか思いつかない。
「怒らないでくださいね。…………キモいとかもなしで」
精一杯の前置きをした後で、紫露は意を決してそのままを伝えることにした。
「……たまき先輩は、前世って信じますか?」
不安そうだったたまきの顔が驚きと戸惑いに満ちていく。ポカンと口を開け、何か言おうとしていて何も言えないのか、僅かに唇が開閉を繰り返している。
そりゃ、そうなるよな。
紫露はたまきの次の言葉を待った。
これからどうしようかと頭を巡らせながら、紫露は祈っていた。
どうか、嫌わないで。
変わらないで。と。




