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「……こさき……さんかどうかは、わからないんですけど……。翡翠の翠で、あきらさんだって言ってました」

 緝の顔を見て、たまきの胸が締め付けられた。緝は口元を押えて、僅かに震え、黙りこむ。

「……スイさん、なんですね?」

 たまきが静かにそう訊くと、緝が驚いたように顔を上げた。

「……おまえ……」

 わかるのか?と言わんばかりの顔でたまきを見たので、たまきは首を横に振った。

「わからないけど、……そんな気がしたんです。スイさんじゃないかって。……だから、追いかけちゃったんです」

「走ったのか!?」

 緝は途端に我に返ってたまきの足元を見た。

「あ、いえ……。走らなくても追いつきました」

 たまきの言葉に、緝は面食らった表情をした後、額を押さえて深くため息をついた。

「……あいつ……、まだ引きこもって不摂生してるのか……?」

 そう言った後、緝はすぐに顔を上げると、たまきの背中に触れて、

「ひとまず戻ろう。冴島が居なくなって心配してるから」

 と言って、優しく背中を押した。

 その顔はもう、普段の緝の表情だった。

 


「冴島さん!」

 カフェに戻るなり、悲壮な顔で店長が駆け寄ってきた。

「無事?何事もなかった?大丈夫?」

 たまきの様子を見ながら、落ち着かない態度の店長が言う。

「すみません、ご心配おかけして……」

「も~~~、頼むよぉ、冴島さん。僕の命がいくつあっても足りないよォ」

「店長大げさです」

 緝が冷静に言うと、店長はショックを受けたような顔をして「森庵くんが不審者かもって言ったからなのに……」と呟いている。

「すみません。それについては冴島の勘違いだったみたいです。……な?」

 緝がたまきに目配せすると、たまきは頷いて

「……はい。勘違いでした」

 と答えた。

 店長は二人の顔を交互に見てから、

「……本当かい?今日はまだ警察には言わなかったけど、今度同じことがあったら通報するよ?店員とお客様の安全が第一だから」

 とため息をついた。

「……それは、もちろん」

 緝が真剣な顔で答えると、店長はその緝を見つめた後、もう一度深くため息をついてから「まぁ……気を付けてね」とだけ言って、またバックヤードに戻っていく。

 安心したように、ほうっと息を吐いた緝を見て、たまきも肩の力が抜けて、ほっとしたのだった。


――――――――――――――――――――――――――

 

 翠は自宅のマンションに戻ると、玄関で息を切らして、たまらず倒れ込んだ。

 身を縮めながら、急に走った後の胸の痛みとともに、翠は自分の浅はかな行動からくる羞恥に身もだえしていた。

 

 長年引きこもって生活していると、人と会った後、あんなことをするべきではなかったのではないか、こうすればよかった、いや、何もしなければ良かったと、自分の行動を反芻して、恥じて、居たたまれなくなる。

 典型的な陰キャの、些細なことを気にするあるあるだ。

 これだから人には会いたくない。

 

 そう思っているのに……。翠は床の上で頭を抱え込んで目を閉じた。

 瞼の裏に浮かんだ緝の顔を思い出して、翠は……もう一度、会いたいと思った。

 愚かなオジサンのただの勘違いでも、……もっと近づきたいと思った。

 

 —————今度、カフェに来てください。


 未だに、はっきりと思い出せる彼の声に、翠は嫌気がさした。

 もう、待ってない。あんなのはただの社交辞令だ。真に受けたら恥をかくだけだ。

 まだ二十代前半の若い彼が、こんな四十を過ぎたオジサンに振り向くはずはない。

 しかも、男同士だ。

 わかってる、わかってるよ。そういう意味じゃないことも。

 そう思って近づかないようにしていた。

 ほとんどを通販で済ませて、どうしても必要な外出はできるだけ深夜にして、決して会うことはないように。

 もう会わなければ、離れていれば、この気持ちは育つはずことはないだろうと。

「……バカげてる」

 翠はかすれた声で呟いた。

 ……消えなかった。

 一年たっても、二年たっても、夢にまで見る。

 あまり愛想がよいとは言えない彼が、翠に向かって微笑む姿も、仕方がないなと呆れたように手を差し伸べる姿も。

 —————……その手を、振り払われる悪夢も。

 完全にこじらせている。妄想を膨らませて、もう半ばストーカーだ。

 自分が恐ろしい。

 

 さすがに息が落ち着いて、翠は静かに起き上がる。

 力なく歩きだして、水でも飲もうとキッチンに向かった。

 シンクに置きっぱなしだったカップを軽く水でゆすいだ後、そのまま水を汲んで一気に飲み干す。

 

 ……誰に対してもこんな風に思ったことがなかったのに、彼に出会ってから、狂ったように”会いたい”がやまない。

 二年前、偶然出くわした時だって、その姿を見かけて、体中の血が沸騰するかと思った。

 声をかけるまいと思っても、かけずにはいられなかった。

 本当は……触れたかった。


 ——————……それでも、待ってます。


 そんな言葉、かけないでくれ。期待させないでくれ。

 俺は彼よりも大人だ。若い彼よりも、分別があって、彼が誤った道に進むなら、正してやらなければならない立場だ。

 ……いや。どの口が言うんだ。栄養失調で倒れるような情けない男に、そんな資格はない。

 

 重い足取りで寝室に向かう。

 ……寝室に入って、鏡に映った自分を見てぞっとした。

 着古したスウェット、ぼさぼさで白髪交じりの髪、荒れた肌、うっすらと生えた無精髭。

 なんという醜く、情けない男なんだ。

 本当に、彼には相応しくない。

 翠は現実から目をそらしたかった。手のひらで目を覆って、乱れたベッドの上に倒れこんだ。

 羞恥で死にそうだった。

 苦しい。

 今まで、誰かのことで頭の中がいっぱいになったことなんてなかった。

 誰も彼もただの通りすがりだった。

 この姿が、どんな姿であっても、誰に何を思われても、もうどうでもよくなっていたのに。

 だけど、こんな枯れたオジサン姿の自分が、彼の隣に立てるわけがないと思うと、何もかも最初からやり直したかった。


 これでも、二十代はエンジニアとして大手企業で働いていた。

 センスはなくともそれなりの身なりで、求められれば取引先に説明なんかもさせられて。

 もともと人付き合いも得意ではなく何の趣味も張り合いもなかった翠は、周囲の嫌味も侮蔑の視線も気にせず、ただただ、無心で仕事に打ち込んだ。

 大手で給料は悪くなかったものの、職務環境はなかなかのブラックであったその企業で働くことにも、何の感情も抱いていなかった。

 自分の価値なんて、そんなもんだと思っていたから。

 だけど、平気だと思っていたのに、自尊心や自己評価が低くなっていくとともに神経はすり減っていき、三十代になるころに体調を崩してドロップアウト。

 それまでに貯めた金を投資に回し、引きこもっても暮らしていけるだけのお金は確保して、今に至るというわけだった。

 

 もっと、自分がきちんとした人生を歩んでいたなら。

 何も後ろ暗いところがなくて、人付き合いもそれなりにできて、健康管理も、身なりもちゃんとしているイケオジなら、それでも性別や年齢の壁はあるだろうけれど、まだ気は楽だっただろう。

 彼と出会うことが、自分の運命だとわかっていたら、自分に自信が持てるような選択をできていただろうか。

「情けない……。情けない、情けない情けない情けない……」

 ベッドに顔をうずめてぶつぶつと呟く。

 何を言っても、自分を責めても晴れやしない。呪いのように、黒い渦が胸を覆っていく気分だった。

 

 —————大丈夫ですか?痛いところとか、ないです?


 ふと、さっき追いかけてきたお嬢さんの声が頭に響いた。

 翠は体を反転させて天井を見上げた。ほんの少しだけ、胸の黒い渦が散っていく。

 あんな年頃の子とは知り合いじゃないはずなのに、まして、年齢からしたら子供でもおかしくないのに、—————懐かしい感じがした。


 —————……スイ……さん?


 さん付けに違和感は感じたけれど、スイと呼ばれるのは悪い気はしなかった。

「……会いたいなぁ……」

 どっちに?誰に?

 いや、どっちにも。彼らの傍に、自分の居場所があったなら。

 浅はかにも思いついた愚かな自分の考えに呆れながら……翠はまた目を閉じた。

 

 彼らが笑って、こちらに手を差し伸べている。

 ……温かい。そこに行きたい。

 たとえ、幻覚でも。


 そうしているうちに、翠は、眠りに落ちて行った—————。


――――――――――――――――――――――

 

 どこかで、赤ん坊が泣いている声がした。

 広い草原の中を見渡して、腰ほどもある長い草をかき分け、声のする方へと向かった。

 背中側から吹いた風が一度自分の周りをぐるりと回って、頬を打って風を揺らして先へといざなう。

 ふと、一か所で、風が巡るように優しく渦を巻いた。

 風がかき分けた草の根元を覗き込むと、そこに、顔を真っ赤にして泣く赤ん坊が居た。

 ふと手を伸ばしかけて、この命に責任を持てるのかと恐ろしくなって手を引っ込めた。

 しかし、そうした途端にさらに大きな声で泣く赤ん坊に、慌ててまた手を伸ばすと、ゆっくりと抱き上げた。

 腕の中に抱きこむと、その赤ん坊は泣き止んだ。

 

 月のものもろくにない、女としての機能すらろくにない自分の腕の中で、すやすやと安心したように眠る顔を見て、その温かみと重さに、なんだか、胸の奥が満たされていく感じがした。

 たとえ無責任だとしたって、手放すなんてできやしない。

 そのぬくもりに頬を寄せて、ひと時の幸せをかみしめる。


 —————()()


 その声に振り向くと、そこは古びた宿の中だった。


 —————どういうつもりだ?


 ぼさぼさの黒髪に無造作に生やした無精髭。それでも目鼻立ちは整っていて、着ているものは洗いざらしではあるもののマメに洗濯されたものだ。

 懐かしさに宿の中を見渡すと、やっぱり整頓されている。

 見た目はずぼらそうなのに、マメで真面目で、勉強家。人が良すぎて、困っているスイを、きっと放っておかないだろう。

 そう思うと、スイは口元を緩めた。


「……いいじゃないか、お前、そういうの得意だろ?」

「得意!?子供を育てたことなんかねぇぞ!」

「怪我した獣の子供とか、世話するの得意だったじゃないか」

「はぁ!?人間と獣は違うだろ!」

「一緒だよぅ、同じ生き物じゃないか」

「おま……!」

 ()()がまた声を上げようとした瞬間、腕の中の赤ん坊が大声だ泣きだした。

「おーおー、怖かっただろう?」

 そう言ってスイがあやそうとしても、抱き上げた時のようにすぐに泣き止んではくれない。

「……あー、もう、貸せ!」

 ゼンが口調の荒さとは違って、優しい手つきでスイの腕の中から赤ん坊を取り上げると、体を揺らして赤ん坊をあやし始める。

 じきに赤ん坊が泣き止むと、

「……もう一度捨てて来るなんて、おれにはできないよ」

 そう言って、わざと眉尻を下げてみせると、ゼンは複雑そうな表情で顔を顰めた。

 そうして、大きくため息をついて、結局、ゼンは子供を育てることを承諾した。

 

 前回、この宿に立ち寄ったときは、自分たちを育ててくれたじーさんが亡くなった時だった。

 平気な顔をしていたけど、ショックを受けていたゼンをそのままにしておけなくて、長く滞在したが……、ずっとその場にいたら、自分の感情が抑えられなくなりそうだった。

 ゼンを、自分のものにしたい。自分一人だけのものにしたい。

 だけど、どうしたらそうできるかはわからなかった。子供の頃に、手当たり次第に腹を満たすために野草を食べていたせいで、毒に当たって女としては機能しない。

 ゼンの子供も産めない。

 たとえ、産めたとしても、”風のもの”としての性分は、自分ではどうしようもなかった。

 同じ景色、同じ環境に留まり続けると、足元から腐っていきそうな感覚になる。

 たとえ、ゼンを自分のものにしておきたくても、自分は彼をおいて旅に出てしまうだろう。

 ゼンを連れて行ったところで、行先をふらりと変えて、ゼンを置いてけぼりにするかもしれない。

 ゼンを囲っておきたいと思うと同時に、自由に旅をしたいと願ってしまう。

 

 ままならない自分の感情に辟易して、結局、スイはもう戻らないと決めて、旅に出た。

 

 ……はずだったのに、この子を拾った瞬間、ゼンに頼ることしか考えられなかった。

 この子を育てることで、この子をゼンの元に置くことで、僅かでも、ゼンを自分につなぎとめておきたかった。

 幸せな時間だった。泣きじゃくるこの子に二人であたふたして、ほっとして、癒されて。

 帰る場所に、ゼンとこの子がいる。

 ゼンが愛するこの子は、()の子でもある。この子は、私とゼンを親だと慕う。

 それだけで、何もかも満たされる気がした。

 

 —————だけど、この子は風の子だった。

 風がこの子の周りを舞う。この子も旅立ちたくて、うずうずとしている。

 一所に留まらせても、いつか、ふらりと一人でもいなくなるだろう。

 風は、思い通りにはならない。

 そうなる前に、この子には自分の持ちうる”風のもの”としての知識と人脈を教えてやらなければならない。


 ゼンは怒った。この子を……ハルを、なぜ”風のもの”にするのかと。危険すぎると。

 ()()だって望んでるわけじゃない。

 だけど仕方ないんだ。……ハルも、風としか生きられない。

 ゼンから、ハルを奪うつもりなんて、なかった。

 

 結局、ゼンをおれだけのものにすることなんて、はじめからできやしなかったんだ。


 ゼンの暮らす国で、野盗に襲われた。随分と殺気立った奴らだった。

 すぐにおれの逃げ足で走れば、逃げれたかもしれない。

 だが、逃げた先で、ハルを見つけられても困る。

 そんなことを考えている間に全方位を囲まれて、ふと、ここで死ねば、ゼンの手で葬ってもらえるだろうなんて、思ってしまった。

 あいつの胸に、消えない記憶として、ずっと残ればいい。

 たとえ後悔でも、胸に一生残る傷でも。おれが、お前の中に残ればいい。

 最低だな。

 お前を、こんな風に縛るなんて。

 これしか、方法がないなんて。

 ハルのことを一人にするなんて、お前は怒るかもしれないな。

 恨んでくれていい。一生、恨めばいい。それでもお前の心におれが残るなら、おれは、それでいい—————


――――――――――――――――――――――――

 

 翠が目を覚ますと、真夜中だった。

 真っ暗な部屋の中で、うっすらと外の明かりで浮かび上がる天井を見つめながら、なんだか夢見が悪くて顔を顰めてため息をついた。

 夢の内容は覚えていないが、懐かしいような、胸が苦しく痛むような感覚だけが残っている。

 ひどく、喉が渇いた。

 のっそりと起き上がって、ベッドから抜け出ると、再びキッチンに戻った。

 放置したままのカップに水を注いで二杯ほど飲み干す。


 —————どうしたらいいかわからない。

 だけど、一つだけはっきりとわかっていることがある。

 

 ……会いたい。

 でも、今のままじゃ会えない。

 翠は深く深く、息を吐いた。

 このままじゃ、だめなんだ—————。


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