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 たまきは病室の窓から、ぼんやり外の様子を見つめる。あんなに夏真っ盛りだったのに、気がつくと、服装が長袖の人も時折見かけるようになってきた。

 

 手術まで体力を維持しなければならないのに、食事をしても吐き戻す日々が続いて、結局、たまきは入院することになったのだ。

 今は薬の量を調節しながら、やっと食事ができるほどには回復した。

 進級のための課題もある程度、進めることができている。

 

 夏休み中に抗がん剤の治療が始まり、初めは副作用も少なくて病気にも効いていると聞いて、そんなに心配することはないのかも。なんて思っていたら、次第に、抗がん剤の副作用が強く出始めた。

 髪は抜け、吐き気と嘔吐で食事もままならず、痩せていく。たまきの見た目は見る見るうちに変わっていき、鏡を見ることも嫌になった。こんな姿を誰にも見せたくなくて、みんなのお見舞いを断ってしまった。

 会いたい気持ちもあったけれど、会っても笑える自信がない。体はだるいし、会話も満足にできない。そんな毎日が続くと、いっそ、全てを諦めてしまった方が楽だと思う気持ちが、何度もよぎった。


 —————死にたいと、思っているのか?


 そんなときに、梧が言った言葉を思い出した。


 —————なら、頑張ろう。


 その、梧の言葉が支えだった。

 この姿は見られたくないけど、会いたくて、声が聞きたい。でも、会ったら泣きそうで、……梧の前では泣いてばかりいるから、そんな姿ばかり見られるのはさすがに嫌だった。

 梧もそんなたまきに呆れてしまうだろう。

 

 検査では薬の効きはさほど落ちていないということで、手術の日取りも近づいてきていた。

 ……病気を治すには手術をしない、という選択肢はないのだけれど、手術をすることは怖かったし、本音を言えば嫌だった。

 病気の実感が薄いまま治療が始まったたまきは、その治療を始めた後の方が具合が悪くて、病気や治療のリスクばかり聞かされて、これで本当に良かったのかと思ってしまう。

 だが、進行の早い病気だから、治療しなかったらあっという間に死んじゃうと言われれば、それ以上何も言えない。

 それを誰かに話すのも憚られて、たまきは憂鬱な日々を過ごしていた。

 何をどう話していいかわからずに、みんなには、体調が回復したことだけをメッセージで伝えた。

 紫露や梧たちからは”良かった”という内容のメッセージが返ってきて、心悠からは”ほっ”というスタンプが一個押されてきた。

 

 手術を前に、感染症対策で面会も制限されてきて、たまきは少し心細くなっていた。

 他愛のないことで、みんなと笑い合いたい。

 卒業式の日に泣いて笑って、幸せだった。あんな日はもう来ないのかな。

 そんな風に思いながら、たまきは手術の日を迎えた。


 

 手術の日は当然平日だったから、紫露から休みを取らせてもらえなかったと不満そうなメッセージが送られてきていた。心悠からは、あのスタンプ以降、何も連絡がない。

 他の部員からのメッセージによれば、心悠は前より一層、部活の練習に打ち込んでいて、一年生の中では、ぐんぐんと成績を伸ばしているそうだった。

 頑張っている心悠は応援したいけれど、たまきの心の中は、複雑だった。

 この手術を終えれば、たまきはもう走れなくなるだろう。

 心悠はたまきが走ることを諦めていない雰囲気があったが、医師の様子から見て、まず、間違いなく不可能だと思う。

 これから手術をするというのに、たまきの心はまだ整理がついていなくて、不安でいっぱいだった。

  

 手術室の前には、祖父母、それに杠葉がいた。

 みんなが、少しだけ不安そうに微笑んで、それぞれにたまきの顔を見て頷く。

 梧の姿も、もちろん心悠も見えなかった。仕事や学校なら、もちろん仕方がない。

 ……そこへ、小走りの足音が聞こえた。

 少し息を切らせて、梧がたまきの元へと駆け寄ってくる。

 本当に久しぶりに見る梧の姿だった。

 —————梧さんだ。

 たまきは当たり前のことを胸中で呟く。

 梧は久しぶりに見る痩せたたまきの顔を見て少し驚いた表情をした後、ポケットから一枚の紙を取り出す。

「御堂からだ」

 たまきが少し震える手で、二つに折りたたまれたその小さい紙を開くと、”たまきは絶対、大丈夫だから。私が保証する”と、心悠の力強い字で書かれていた。

 それは、部活の大会の時、心悠がたまきの背中を何度も押してくれた言葉だった。

 少し泣きそうになったたまきはその紙を胸に当てて、目を閉じるとゆっくりと呼吸して、涙が流れるのをこらえた。

 目を開けると、梧と目が合った。梧はたまきの顔を見つめて指先でたまきの頬に触れて頷くと、たまきも頷き返し、心悠の手紙をお守りにして、手術室へと入っていった。


 たまきの手術は、8時間以上に及ぶものだった。

 術後はICUで一晩過ごすことが決まっていたため、たまきは麻酔の名残でぼんやりとしたまま、その晩を過ごした。

 手術は成功で、それは待っていた人たちにも伝えられたようだった。

 

 後日、たまきの摘出された腫瘍の病理検査によれば、術前の化学療法がよく効いていたそうで、今のところ予後良好。

 これから、リハビリや術後化学療法が始まり、観察は続いていくものの、ひとまず第一段階では安心と医師からは告げられ、たまきはほっとした。

 それを、みんなにメッセージで送ると、みんなが喜んでくれたのだった。

  

 しかし、ほっとしたのも束の間、リハビリが始まると、たまきは思ったより少しずつしか進められないリハビリが、もどかしく感じられた。初めの一か月はほとんど座ったリハビリばかりで、立ち上がることはほとんどない。

 一か月を過ぎても、手術した方の脚にあまり荷重をかけれないために、ゆっくりとしたリハビリが続いた。

 しかも、術後の抗がん剤治療は術前よりも長いために、副作用も様々な症状が出始めた。そのたびに対処療法や食事を変えたりと、色々と工夫はしてくれるものの、たまきは精神的にも体力的にもしんどい日々が続いていた。

 

 たまきは心悠からもらった手紙を握りしめて、折れそうな心でなんとか踏みとどまろうと、静かに、ため息をついた。

 

 その時、病室のドアが開く音がした。

 祖母か祖父かなと思って、横になったままになっていると、二人にしてはベッドの周りのカーテンを開けてこないな。と思っていると、

「……たまき?」

 という声がして、たまきは動きを止めた。

 聞き違えるわけはない。—————梧の声だった。

「……え?」

 たまきが驚いて声を上げて振り返ると、そっとカーテンを開けようとする手が見えて、

「ま、待って!……ください」

 慌てて止めるたまきの声に、その手が止まり、引っ込められた。

「……突然……、来て悪かった。杠葉さん経由でおばあさまに連絡はしてあったんだが……」

 困っているような、少し沈んだ梧の声。どうしようと戸惑っていると、梧は「また、日を改めようか」と言った。

 祖母はおそらく、たまきに言えば断るかと思ったのかもしれない。術前の時にはお見舞いを断ったこともあったから。ただ、たまきの気持ちが沈んでいるのがわかっているから、梧に会わせたいと思ってくれたのだろう。

「あ、え……と」

 迷いながら呟いて、たまきはベッドを動かして頭を起こす。自分の身なりがあまり綺麗じゃないことに絶望した。

 そうしてたまきが黙っているうちに、梧はカーテンの向こうで部屋の中を見渡し、カーテンを開けないまま椅子を取って、そのままカーテンの外側に椅子を置いて腰掛けた。

 どうやら、たまきが顔を合わせたくないと思っているのを察して、それに配慮しつつ居てくれるつもりのようだった。

 嬉しくて胸が熱くなったが、なにを話せばいいかわからない。なにを話したらいいのかは梧も一緒のようで、少し戸惑っているのが、カーテンにわずかに映る影からもわかった。

 

 ふと、梧は思い出したように、何かガサガサと音を立て始めた。紙袋のようなものから何かを取り出し始める。

 梧は少しだけカーテンを引いて棚の位置を確認すると、手を伸ばしてベッドサイドの棚にそれを置いた。

 それは黄色やオレンジ、ピンクのプリザーブドフラワーが入った小さなかごだった。

「時雨と杠葉さんから」

「……ありがとうございます」

 たまきはお礼を言ったが、梧はまだ紙袋をごそごそしている。

 次に出てきたのは、中学時代の元部員と後輩たちからと、高校の部活のメンバーからの色紙、心悠の字で、表紙に授業ノートと書かれた数冊のノートとブランケット、紫露からは使いやすそうな文房具、宛名もないシンプルな封筒などが、次々と棚に置かれていく。

 宛名のない封筒には、緝からカフェの割引券が入っているらしい。

 緝とは一度しか会ってないのにと驚きつつも、みんなの優しさが身に染みた。

 

 そして、最後の一つを取り出して、梧は喉を整えるように咳払いをした後、一度深くため息をついた。

 たまきがなんだろうと首を傾げていると、カーテンの端から20センチくらいの大きさのリスのぬいぐるみが顔を出した。

「……た、たまき……ちゃん。元気出して……っ」

 リスのぬいぐるみを揺らして、梧が精一杯の高い声でそう言うと、たまきは一瞬何が起きたのかすぐには理解できずに、つい「……えっ……?」と声を上げる。

 すると、リスのぬいぐるみはカーテンの向こうに引っ込み、カーテンの向こうの影が、項垂れて小さくなっていく。

 たまきは、じわじわと何か込み上げてきて、「んふっ」と堪えきれずに吹き出した。

 想像もできなかった梧の行動がおかしくてたまらなくなって、我慢しようと思うのに「ふふふ、んはは」と次第に笑いが漏れてしまう。

 たまきは身を縮めて、時折ベッドに顔を埋めながら笑った。入院してから、初めてこんなに笑ったかもしれない。

 その笑いがひとしきり収まるまで、梧はその場で黙っていた。

 たまきがはぁ、と息をつくと、

「……どうして、……こんなこと……」

 と、息も絶え絶えで聞く。

 梧はもう一度、深くため息を吐いた。

「……紫露にやれと言われた」

 沈んだ声で言うと、梧はカーテンの端からリスの顔を覗かせてみせた。

「んはっ」

 たまきが笑うのを聞いて、梧は流石にもう声真似はしなかったけれど、リスを揺らして愛嬌を振り撒かせる。

 紫露に言われたからと言って、素直にそれを実行するのも、今、ぬいぐるみを動かして見せているのも、梧の普段の雰囲気からは想像もできなかったことで、かわいいと言うか、胸の奥がきゅんとするような……。意外な一面を見れて、たまきはそれだけでも顔がニヤついた。

 梧の顔を見たいと思った。

 たまきは、自分の姿を気にしていたことも忘れて、カーテンに手を伸ばした。

 そっとカーテンを引くと、リスを持ったまま梧は一瞬驚いた顔をしたが、少し眉尻を下げた表情で優しく微笑む。

 梧はたまきの方へ腕を伸ばして、そのぬいぐるみを差し出した。

 たまきはそれを受け取ると、胸に抱き寄せて撫でる。尻尾がふわふわで触り心地がとても良い。

「……どうしたんですか?これ」

「……買ってきた……」

 梧はたまきとは視線を合わせずに、椅子を引いて少しだけベッドに近づきながら言った。

 その梧の顔と耳が、真っ赤に染まっていく。

「梧さんが?」

 たまきが驚いて訊ねると、梧は気まずそうに指先でこめかみのあたりを掻きながら、ため息をついて頷いた。

「……なんでこれだったんですか?」

 問われて、梧は、棚の上にあるものを見つめて、「……君に渡すものをどうしたらいいか考えていて……」と切り出す。

「……だいたい揃っているから……。本でもと思ったけど、君の好みもわからないし、気分が悪ければ読めないだろう?……買うときに紫露を連れて行ったんだが、迷いに迷ってそれを手に取ったら、もう、それにしたらいいと……。多分、迷い過ぎて紫露も面倒くさくなっていたんだろう。俺も……血迷った自覚はある。気に入らなかったら……悪い」

 そう言って気まずそうにたまきの方を見た。

 たまきは首を横に振り「気に入らないとかないです。可愛いし、触り心地良いし」とぬいぐるみをなでながら答えた。

 たまきのためを思って、迷いに迷っている梧を想像して、少したまきも顔が熱くなった。

「なら、まぁ……良かった……」

 まだ耳を赤くしたままで、梧は少しほっとした表情を見せた。

 たまきはリスのぬいぐるみをまじまじと見つめていると、さっきの声が脳裏に蘇り、たまきはリスで顔を隠しながら、ふふふとまた笑い声をあげた。

「おい、たまき……」

 梧が不服そうに声を上げた。

「ごめんなさ……。でも面白い……」

 笑いで体を揺らしながら、たまきが言うと、梧は頭を掻きながらため息をつく。

「……慣れないことをするんじゃなかった」

 小さな声で呟いた梧の声を聞いて、まだ笑いながらもたまきは「……でも、元気出ました」と、ぽつっと呟いた。

 梧はそれに微笑んだものの、もう一つため息をついてから姿勢を正した。

 顔の前に持ってきたリスのぬいぐるみを構っているたまきを見つめる。

「……辛いか?」

 問われてたまきは一度動きを止め、少し眉を下げた。

 少し間を置いて、たまきは静かに頷いた。

 梧は会話を促すことなく、静かにたまきが話し出すのを待つ。

 たまきはためらいがちに口を開く。

「……思ったようにリハビリが進まないんです。抗がん剤でしんどい時は軽めにされちゃうし、……焦ります。……このまま歩けないんじゃないかとか、考えるし。進級用の課題も補習も思ったように進められなくて、戻れないのかなとか不安になるし」

 梧はそれを聞いて、少し考え込むような顔をしてからまっすぐたまきを見つめて口を開いた。

「……勉強に関しては、わからないところや先生に質問しきれなかったところをまとめてくれれば、俺が教えられるかもしれない。あとは……リハビリは根気よく続けるしかないな」

 たまきはそれを聞いても少し黙ったまま、梧を見つめてから、俯いた。

 梧はもう少し、椅子を前に出してベッドに近づくと、たまきの頬に優しく触れて、軽くつまんだ。

「……焦る気持ちはわかる。でもゆっくりに見えても、ちゃんと進んでいるさ。陸上部でも、順調に毎回記録が伸ばせたわけでもなかっただろう?」

「……それは、そうです……」

「……まぁ、できることをやろう。一つ一つな。今日できること、やるべきことをやるんだ。それが、一日ベッドに横になって休むことであってもだ。……前にも言ったが、いつでも連絡をくれてかまわない。勉強もいつでも教えに来る」

 梧の真剣な表情を見つめ返して、たまきの胸の奥が熱くなって、きゅんと締め付けられた。

 なんでここまでしてくれるんだろう。恥ずかしがりながら不器用にリスの声を当てて、元気づけようとしてくれて。

 ……たまきが、ハルだから?

 以前そう訊いたときには、たまきとハルは別人だと言っていた。

 それがどういう意味なのかは分からないが、前世でのハルへの後悔は、簡単に消えないだろう。

 きっとこれは、その贖罪の一部なんだろうと思う。

 たまきはどんな顔をしていいかわからなくて、またぬいぐるみを持ち上げて顔を隠しながら

「……ありがとうございます」

 と、言って、ぬいぐるみに頭を下げさせた。

 梧は微笑み「ああ」と言った。

「……お願いしたら、さっきのリスの声もしてくれます?」

 たまきがリスの後ろから少しだけ顔をのぞかせて言うと、梧はとびっきり渋い顔をした。

 そのまましばらく難しい顔で考え込んでから、深いため息をついて、「……検討しておく」という答えに留めた。

「……俺が本当にやったなんて、紫露に言うなよ」

 呆れた顔でたまきに言うと、たまきは「わかりました」と笑いながら頷いた。

 梧に言われるまでもなく、何となくだけど、それはたまきだけの秘密にしておきたかった。

 


 その後たまきは、梧に言われた通り、何もできない日はしっかり休むことも仕事だと胸中でひたすら唱えて、できる日には言われたことをしっかりやる。課題についてはわからないことをまとめて、先生や梧に聞くを繰り返し続けた。

 時折、紫露や杠葉もお見舞いに来て行った。

 ……心悠は、メッセージのやり取りはしているけれど、直接お見舞いに来ることはなかった。

 

 

 そうしながらたまきは、半年の抗がん剤治療もクリアし、まだ杖は外れないが、自立歩行ができるようになって退院した。

 入院中に課題も何とか提出でき、たまきは二年に進級。

 退院してからはリモートでの授業や補習を受け、一学期の期末試験は、別室ではあったが登校して受けることができた。

 そして、夏休みを終えて二学期から、本格的に登校することになったのだった。

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