21
「今日はもうここで終わりにしましょう」
時雨がため息交じりに言うと、梧は時計を見た後に顔を上げ、
「まだそんな時間じゃないだろう」
と言った。
時計は17時半を過ぎたところを指している。
普段、19時過ぎまで仕事をすることの多い梧たちにとっては、まだ終業というには随分と早い。
それも最近、梧は時雨を帰してから、22時を過ぎても会社に居ることが多くなっていた。
定時で帰る社員たちはもう続々と会社を後にはしていたが、訝しそうな顔の梧に対して、時雨は少し怒ったような顔で
「いいえ、今日は帰ってください。やるべき仕事は終わってますから」
と言い放つと、自分も片付け始める。
呆気にとられつつも、
「まだやれることはあるだろう?」
というも、「今日でなくとも大丈夫です」と、梧のデスクから資料を取り上げ、整理してしまっていく。
「……なにか、記念日だったか?」
どうも機嫌が悪そうな様子の時雨に、梧は顔色を伺うような言い方で聞いた。
時雨は、はあ、とあからさまにため息をついてから、
「いいえ。……まあ、毎日早く杠葉さんには会いたいですが。それより、貴方自分の顔を鏡で見てます?ここ数日、ひどい顔をしていますよ」
と、ちらっと惚気を挟んでから言った。梧はそういうことかと思った。
毎日顔は洗っているが、ろくに顔は見ていない。見ていないが、大体どんな顔をしているかは想像がついた。
「早く帰って、今日は寝てください」
言われて、梧は黙った。
眠れと言われて眠れるなら、何もこんな顔はしていない。
時雨は問答無用で梧のデスクに回り込むと、パソコンで開いている画面を次々と保存をかけて閉じていく。
梧は諦めて、ひじ掛けにもたれて頭に手を当てた。
チラッとそれを横目で見ながら、
「頭痛もあるんですか?」
と時雨が問うと
「……いや、前ほどじゃない」
と梧は言った。
「……夢は?」
時雨はどうやら、以前の夢をぶり返しているのかと思っているのだろう。
「……ハルの夢は、たまきの病気がわかった頃には見たが、それからは見ていない」
時雨はそれを聞いて、心配そうに顔を覗き込んできた。
その時雨と目が合って、梧は首を横に振った。
「いや、前の、ハルが死ぬときの夢じゃないんだ。……俺の迷いが出たんだろう。たまきを助けてほしいと頼んだら、できるわけがないと一蹴された」
「……そうでしたか」
少しほっとしたような顔で時雨は言う。
梧のパソコンを閉じると、時雨は少し落ち着いて、梧の話を聞くような姿勢をとった。
「……風は風としてあるだけだと言って、取り合ってくれなかった」
自嘲するように梧は笑うと、ふう、とため息をついた。
「……ハルらしくはありますね」
梧は頷いた。
その後、椅子の背にもたれると、少しの間目を閉じた。
不眠の原因はわかっている。
たまきのことが気になるのだ。
早期発見で転移がなかったとはいえ、骨肉腫は進行の早い病気で、手術前後の抗がん剤と、手術後はリハビリもある。好きだった運動も思うようにできなくなるばかりか、病気の再発だけでなく治療の副作用などの影響を長期にわたって観察し続ける必要もでてくる。
彼女はまだこれから、様々なものを学び、恋愛もして、結婚、出産と様々なイベントがあるというのに、その節目節目で、おそらくこの病気とその治療の影響が大きく影を落としていくことになるかもしれないのだ。
しかも今は、抗がん剤の副作用が強くなり、彼女から会うことを拒まれ、顔すら見れない。
一人で泣いていないか、我慢していないか、苦しんでいないか。そんなことを考えていると自分だけぐっすり眠るなんてことはできなかった。
自分の無力さに、嫌気がさす。
「……梧が考え込んでも、意味はないよ。こればかりは、誰もどうにもできない。たまきさんが回復した時に梧がそんな顔をしているんじゃ、心配をかけることになるだろう?手術も控えているし、できるだけ心配はかけないようにしないと」
「……わかっているさ」
頭ではわかっている。
たまきが自分のために苦しんでいたと知ったら、自分が苦しいより、苦しむはずだ。
「ひとまず、今日は帰って、何か食べて、ゆっくりして、眠ってください。杠葉さんに言って何か詰めてもらうかい?」
「……いや、いい。何か買って帰るさ。……杠葉さんは、たまきの家に通っているのか?」
「週に何日か顔は出しているらしいよ。食べ物を届けて、行った時はお祖父さんとお祖母さんと一緒に食べているみたい。たまきさんが食べれないとお二人も食べないことが多いみたいで。……たまきさん本人とは、言葉を交わすことはあるけど、会えていないと言ってた」
「そうか……」
時雨が気まずそうに言う。おそらく、梧が心配しすぎるといけないと思って、あまり言わないようにしていたのだろう。
「とにかく、無理矢理にでも食べて、寝る。これを意識してください。我々は健康第一。体調を崩したら、それこそたまきさんは自分のことを後回しにして、諦めてしまうかもしれないんですから」
時雨がわざと強めの言い方をすると、梧は「わかった」と言って頷いた。
確かに、ただでさえこの先に不安を抱えているたまきに、周りが希望を示してあげられないとなれば、たまきは何もかも諦めてしまうかもしれない。
何が彼女の希望になるかはわからないが、足を引っ張ることだけはないようにしなければ。
そう思って、梧は帰るために、ようやく立ち上がった。
――――――――――――――――――――
とはいえ、まっすぐ帰る気にはならず、どこかで食事をとって帰ろうとも思ったが、何を食べたいということもない。
たまきと再会する前の、何の張り合いもない毎日に戻りつつあった。
あの頃も、夜遅くまで仕事をして、疲れ果ててほとんど何も食べずに眠り、夜は悪夢を見て起きるの繰り返しだった。
この短い間に、梧は、たまきにあれを食べさせたらどんな顔をするだろうとか、これを見せたらどう思うだろうとか、そんなことを考えるようになっていた。
それも、彼女が食べられず、何を見ても心から笑うことができないなら、消えてしまったも同然だった。
ふと、思いついて、梧は緝のカフェに向かうことにした。
時雨にさんざん何か食べろと言われたから、少なくとも何かは腹に入れたい。
だが、コンビニに寄ったらエナジーバーとかドリンクとかで済ませてしまいそうな気がしたし、他は何を見ても選べない気がした。
もし緝がいれば、適当に選んでもらうか、いなくても、誰か他の店員におすすめを聞いてそれにしようと思った。
カフェに顔を出すと、緝がいた。
梧はほっとしたものの、緝は梧を見るなり一瞬ぎょっとした顔をしてから、すぐに営業スマイルに戻して「……いらっしゃいませ」と言った。
よほど自分が酷い顔がしているのだなと思いながら、梧は緝に向かって席を指し示し、「店内でもいいか」と訊いた。
普段はテイクアウトしか頼まないため、緝はまた一瞬驚いた顔をしたが、「もちろん。どうぞ」と言って空いている席を手のひらで指し示した。
席に着くと、緝がすぐに注文を取りに来た。
「……何になさいますか?」
と聞くと、梧は適当にメニューを広げ、「……どれでもいいんだが」と言って緝の顔を見た。
緝は呆れたような顔になった後、少し悩んでから、
「五穀米と豆腐ハンバーグのプレートか、食べるゴロゴロ野菜スープセットはいかがですか?プレートはサラダとスープ付き。食べるスープセットもサラダがついて、ライスかパンが選べます」
それを聞いてから梧はメニューを確認したものの、しばらくそれすら選べずに固まっていると
「……野菜スープセットのライスつきにしたら?栄養は取れるし、消化にもそんなに悪くない」
と、ため息混じりに緝が言った。
梧は顔を上げてメニューを閉じると、「じゃあそれで」と答えた。
「かしこまりました」と緝は返事をした後、「飲み物は食後に、コーヒー?」と訊くと「あぁ」と梧は答えた。
緝は頷いて、奥へと下がった。
しばらくして、緝が注文の品を持って「お待たせしました」と梧の前に置いた。
「ありがとう」
と言って梧がため息をつくと、緝はあたりをキョロキョロと見回した後、梧の隣に座った。
今まで一定の距離をとっていた緝の珍しい行動に、梧は驚いた顔をしたが、カフェは空いていて、他に客は二人ほど。もう料理は出されていて、何もなければ会計だけのようだった。レジには手持ち無沙汰の店員が一人立っているから問題はないと判断したようではある。
「食べながらでいいから」
と、さらに緝は食事を促した後、
「……勝手に悪いけど、コーヒーはノンカフェインにしておく。……寝れてないんだろ?」
と続ける。梧の返事は待たず、ゴソゴソとポケットから、おやすみブレンドと書かれている市販のティーパックを取り出し、
「ハーブティーが飲めるなら、寝る前に飲め。まぁ……気休めだけど」
とテーブルの隅に置いた。緝の私物なのだろう。
「……ありがとう」
緝がそこまで心配するほど、よっぽど疲れた顔に見えるのかと思って、梧はテーブルの上に置かれたティーパックを見て素直にお礼を言った。
そのまま席を立つかと思ったが、緝はまだ座ったまま、ホール内に目を配りつつ、何かを言おうと考えているようであった。
梧はそれを横目で見つつも、淡々と食事を進める。
とはいえ、味はあまり感じていない。口に放り込んで噛んで飲む、を繰り返しているだけのような食事だった。
「こり……、ん゙ん゙、いや……冴島……、病気だって?」
何かを誤魔化すように咳払いをしてから、緝が小さな声で聞いてきた。
「……誰から聞いた?」
何を言ったかは聞き取れなかったので首は傾げたが、気にせず梧が聞くと、相変わらずホールに視線を向けたまま、緝は、「……さっき、時雨さんの息子が来て行った」と言った。
「……あぁ、紫露か」
梧はそう呟いたのを聞いて、緝は梧のテーブルにちらっと視線を送ってから、またホールに視線を戻す。その視線を感じて、梧は食事を再開した。
「……神様がいるなら、相当やなやつだな」
ため息混じりに緝が言うと、梧は、一瞬間を置いてから「違いないな……」と沈んだ声で呟いた。
そうして、しばらく落ちた沈黙の後に、緝が口を開いた。
「俺は、……冴島と親しくないから、何もできない」
緝が真剣な表情で梧を見つめる。
「お前は、まだ俺よりできることがあるだろ。……そのツラなんとかして、冴島を支えてやってくれないか」
緝の、切なそうに細められたその眼差しの奥に、ゼンを感じて、梧は面食らう。
緝ははっと、我に帰ったように瞬きをしてから、指先で頭を掻いて「……俺が、言うことじゃないな」とため息をついて視線を逸らした。
その時、梧は、あぁ、そうか。と思った。
ゼンはハルの親代わりで、ハルのことを大切に思っていた。
だから、たまきのことを知って、梧に頼みたかったのだとその時確信した。
「……できる限りのことは、する」
梧は少し姿勢を正して答える。
緝はバツが悪そうに苦笑いをしながらも「……頼む」と言った。
「……全部、食べろよ」
緝はそう言って、ようやく腰を上げた。
「……抱きしめる腕も、涙を拭う指もある……か」
ふと、夢でハルに言われたことが思い出されて、梧は呟いた。
「ん?」
緝が怪訝そうな顔で梧を見た。梧は「あぁ、いや」と言った後、
「たまきの病気がわかった頃、夢にハルが出てきて……、そう言われたんだ。自分は死んでるが、お前は生きてるんだろ、って」
そう説明すると、緝はまだ訝しんだ顔をしたまま「夢、ねぇ」と呟いた。
梧はそりゃあ、信じられないよなと、苦笑いをして、
「いまだに迷った時、ハルに頼ろうとするのは情けないがな」
と言った。
緝は、眉を上げて肩をすくめてみせた。
「……死ぬ夢よりいいじゃないか。親切にも答えてくれたんだろ、ハルは」
少し呆れたような、でも納得したような顔で言って、「あぁ……、まぁ」と、梧が曖昧に答えたのを聞くと、緝は頷いた。
緝なりに、思いつめている様子の梧を慰めてくれたのかもしれない。
緝に会いにきて、……話せてよかったと思った。
仕事に戻ろうと踵を返した緝が、ふと、足を止める。
梧も気づいて、緝を見上げると、彼は振り返り、
「……あいつ……、紫露のことも、たまに気にかけてやってくれ。…………冴島のことをだいぶ心配してたみたいだから」
と、言った。
その顔が、あまりにも切実に見えて、梧は驚いた。
緝と紫露は、いつの間にかそんなに仲良くなっていたのかと思ったが、緝はどこか気まずそうな顔をして、梧の返事を聞く前に、また踵を返して仕事に戻って行く。
不思議に思いつつも、……あれだけたまきに懐いていると言っていいほど、仲がいい紫露だ。確かに、紫露も心配しているだろうなと思い、心に留めておくことにした。
梧は残りの料理を食べ終え、緝からもらったハーブティーのティーパックをポケットにしまった。
食べ終えたことに気づいた緝がコーヒーを持ってくる。
少しゆっくりしながらコーヒーを飲んで、一息ついてから、梧は席を立った。
他の店員が席の片付けに行き、レジ担当は緝に変わっていて、さっきまでのやり取りが嘘のような、事務的で淡々とした動きを見ながら、梧がふと「そういえば」と切り出し、緝が顔を上げた。
「……その夢の中でハルが、“何度同じ風が吹いても、……同じ決断をするだろう”って言ったんだが、なんのことかわかるか?」
そう言うと、緝の動きが止まった。その瞳が驚いたように見開かれて「ハルが……そう言ったのか?」と訊いてきた。
「あ、あぁ……」
梧が驚きつつ答えると、緝は会計の途中であることすら忘れて、考えるような仕草をした。
夢の中の話だったから、そんなことが前世にあっただろうか、と確認するような軽い気持ちで梧は聞いたのだが、緝のその態度に、何か意味のあることだったのかと思い「…………心当たりがあるのか?」と訊くと、緝はハッと我に帰って、会計の作業を再開しながら、
「……いや、ない。あるわけがない。……お前の、夢の中での話なんだろ」
と、少し焦ったような早口で答えた。
それは、緝が自分自身に言い聞かせるようにも聞こえて、梧は不思議に思った。
「……それは、そう……だな」
と、答えると、緝はまた淡々とした動きで支払い作業を終えると、いつもの調子で「ありがとうございました」と頭を下げた。
梧もつられたように緝に軽く頭を下げて、カフェを後にする。
なんだか腑に落ちないところもあったが、梧は少し気が楽になって、帰路に着いた。
たまきが迷惑に思うかもしれないと思って避けていたが、一度訪ねてみてもいいかもしれない。たとえ、顔が見れなくても、言葉を交わすだけでも力になれることが、あるかもしれない。
梧は、今日はなんとか眠れそうな気がした。
―――――――――――――――――――――
緝は梧の帰った後、他の店員が片付けた食器を洗い場に持って行き、食器洗いを始めた。
水を流して、食器洗いをしながらも、さっきの夢の話が、頭を離れなかった。
—————何度同じ風が吹いても、同じ決断をするだろう。
その言葉が脳内で、ハルの声で再生される。
夢の話だ。現実じゃない。そうとわかっていても、それは、本当にハルの言葉のように思えた。
瀕死の状態で運ばれてきたハルが、脳裏に蘇った。
忘れたくても、忘れられない。
—————たの、むよ……、ゼン。
ハルの最期の言葉が、いまだに、耳に残っている。
あの時、どうにかしてハルを助ける方法がなかったのか、自分の選んだことは間違いじゃなかったのか。
いつ、どこで、どう選択したら、違う結末を迎えられたのか……、自問自答は止まらなかった。
…………お前はそれでも、また同じ方を選ぶって言うのか?
緝は一瞬手を止めて、少し震える唇からため息を漏らした。
一筋、雫が頬を伝って、落ちる。
—————ハルの頑固なとこは、誰に似たんだろうな。
……誰へともなく、緝は胸中で呟き、服の袖で頬を拭うと緝は洗い物を再開した。
人生はままならないが、せめて今世は、幸せな結末にたどり着けるように。
緝は、切実に、祈った。




