20
夏休みはあっという間に過ぎ、二学期になった。
「こは~、部活行こ」
中学から一緒の友人よっちんとさっちょんが、放課後になると声をかけてくる。
ほとんどの時間をたまきと過ごしていた心悠を気にしてくれているようで、休み時間も訪ねてくることが多くなった。
「うん」
何となく気の抜けた返事をしている心悠に、二人は他愛のない話を振ってきて、心悠がそれに適当に返事をしても、別に怒ることもなく、絶え間なく話を振ってくれていた。
彼女たちもたまきのことは心配している。時折様子を聞いてくることもあったが、心悠の様子を見て、深くは聞かず明るく振舞おうとしてくれているのがわかった。
このところ、心悠はたまきとは会っていなかった。
夏休み中は合間を見て、何度かたまきの家に会いに行っていた。
たまきは病気療養での休学を申請し、課題提出やオンラインでの補習授業などで進級を目指すという話だった。
部活については退部すると言っていたが、心悠も顧問や学校に直談判して、手術が終わって状況が確定するまではそのままでいてほしいと、たまきにお願いした。
たまきは医師から走ることは不可能だと言われているようで渋い顔をしていたが、マネージャーでもなんでも、続ける方法はあると言うと、たまきは頷いてくれた。心悠は、やっぱり走るたまきを諦めたくなかった。
初めの頃は宿題も一緒にやったりして、抗がん剤の治療も副作用も少なく、薬も効いているようで順調だと言っていたけれど、夏休みの後半くらいから、たまきから会うことを拒絶され始めた。
それを言われた時はとてつもなくショックを受けたが、どうやら、抗がん剤の副作用が強く表れ始めたらしく、髪も抜けて、食事もままならないということだった。
体調が悪い時に、人に会うのが辛いことは何となくわかる。
まして、たまきは人に気を遣う子だ。辛さで人に当たることがあれば、気に病むだろう。
検査入院中に、たまきが思わず大きな声を出した時、心悠の顔を見て青ざめたことを思い出す。
心悠はもどかしくてたまらなかったが、紫露の話で、紫露も梧もたまきと会えていないようだと知ると、自分だけが会えていないというわけではないことにほっとした。
たまきが引っ越してきてから心悠が一番近くにいると思っていたのに、ここ最近では紫露や梧の方が仲が良くて、たまきのことをよく理解しているように見えて、すこし悔しかったからだ。
「御堂!集中しろ!」
コーチの声が響いて、心悠はハッとした。
「すみません!」
心悠は即座に謝ると、気を引き締め直した。
ふとすると、たまきのことばかり考えてしまう。
だが、両親からもコーチからも、心悠がタイムを落とすことはたまきにも心配をかけることだと言われていた。
そんなことはわかっている。だが、心悠も、何をどうやって頑張っていったらいいのかがわからない。
走ることが割と得意だった心悠は、あまり深く考えずに陸上部に入ることを決めた。
けれどたまきが走ることが好きで楽しそうにしている姿を見て、心悠の意識は変わった気がする。
むろん、負けず嫌いで一番を目指したい気持ちもあったから、人一倍、練習も厳しくしていたが、たまきと切磋琢磨し、走ることの方が自分にとって重要なことだったのだと、今になって、気付かされた。
たまきが居たから頑張れて、たまきと笑いあいたいから走っていたのだ。
心悠は、体が半分もがれている気分だった。
「御堂!あと5本!」
「はい!」
コーチは厳しいものの、心悠に目をかけてくれているのもわかっている。
心悠は一度目を閉じて、ゆっくり呼吸をした。
たまきにとっては、走ることが両親とのつながりを確認することであって、両親との楽しい思い出とともに走っていたんだと思うと、心悠なんかが、迷っている場合じゃない。
心悠は目を開いた。その顔つきが変わる。
—————私が、諦めてどうする。
心悠はそう、自分に言い聞かせた。
――――――――――――――――――――――――――――
紫露は、緝の勤めるカフェの前で入ろうか入るまいか考えて、うろうろしていた。
部活はもともとすぐ引退する予定だったが、たまきのこともあって早々に引退し、紫露は塾に通うようになった。
塾が始まるまでにはまだ少し時間があったので、小腹を満たそうとカフェまで来たものの、紫露には気まずい理由があった。
……あれは二月の中頃の休日だった。
紫露が、二人で出かけようとしていたたまきと心悠と偶然会い、声をかけたあの日のことだ。
そう。両親の結婚記念日だ。
梧とたまきたちの卒業祝いを買って、食事を済ませて解散した後、紫露は思うところがあって緝のバイト先へと足を向けた。
緝がバイト先にいるかどうかは賭けだったが、運よくカフェに出勤していた。
休日だけあって、普段より混みあっていて随分慌ただしそうだったが、テイクアウトの列に紫露は並ぶことにした。
初めフロアに出ていた緝は、テイクアウトの列を見て、レジのサポートに入った。
オーダーのレシートを担当の店員に渡しながら、一瞬レジに背を向けた時にちょうど紫露の順番になった。
「あのー、ピンクとイエローのソーダみたいなやつって季節限定ですか?まだあります?」
「ピンクグレープフルーツとパッションフルーツのドリンクですね。今もやっております……よ」
言いながらレジの方へ振り向き、お客の顔を見た瞬間、緝はわかりやすく固まった。
「じゃあそれ一つ……と、なんか食べよっかな。この、ドーナツも一つ」
その状態の緝に紫露は容赦なく注文すると、
「……失礼しました。ピングレパッションソーダとドーナツですね」
緝は驚いていたとは思えないほどに完璧にオーダーを繰り返してきた。
「……はい。それで」
驚きながら紫露が返事をすると、冷静さを取り戻してレジを打ちながら、
「お支払いは現金ですか」
「電子マネーで」
と、淀みなく続ける。
「ありがとうございます。では、この番号札をお持ちになって、そちらでお待ちください」
テイクアウト用の受け取り場所を指し示すと、レジに背を向けようとした。
その瞬間、ここを逃すまいと紫露は身を乗り出し、
「森庵さん。……忙しいのはわかってます。いつ、バイト終わります?それだけ教えてもらえませんか」
と早口で囁いた。
緝は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに、
「すみません、今忙しいので少しお待ちください」
とだけ言うと、作業に戻った。
紫露も、怪訝そうな後ろの客に軽く会釈して受け取り場所に行くと、慌ただしい様子の緝を横目で見ながら、注文の品を受け取ってひとまず外に出て待つことにした。
追い返されなかっただけ、マシだと思った。
カフェの外壁にもたれて、ドーナツを頬張っていると、緝がカフェから出てきて紫露を探してあたりを見渡した。
紫露と目が合うと早足で近づいてきたので、紫露はドーナツを袋にしまって、口の中のものをドリンクで流し込むと、姿勢を正して会釈した。
「……今日はちょっと忙しいので、お相手できません。何か用ですか」
緝があえて丁寧な口調で言うと
「待ちます。バイト何時までですか」
それでも紫露は引き下がらず、言った。
「……夜になります。もう暗い時間ですから、お待たせするわけにはいきません」
緝は今度はゆっくりと、丁寧な口調のまま、それに答えた。
「それでもいいです」
「ダメです。中学生ですよね?時雨さんに叱られますよ」
食い下がる紫露に、緝は父親の名前を出してきた。紫露は不機嫌な顔になる。
「……親父に何か言われてるんですか?俺が来ても、何も話すな、とか」
話してもらえないかと、紫露の胸に焦りが浮かんだ。
緝はため息をついた。
「いいえ、時雨さんからは何も言われていません。……でも無理です」
「なら、何でですか!」
紫露の声が大きくなる。周囲の人の注目を浴び、緝は紫露の腕を掴んで、少し場所を移した。
「大きい声は出さないように」
以前と同じ注意をされてから、
「何を……そんなに知りたいんですか」
と緝が言うと、紫露は思いつめたような顔をした。
「……ハルさんの最期を、看取ったんですよね?」
緝はわかっていたようだった。それを聞いても落ち着いていたし、すぐに
「……言えません」
と答えた。
「なんっ……」
また大きな声を出しそうになって、紫露はそこまでで言い留まり、落ち着くために息を吐いた。
「……何でですか?親父からなんも言われてないなら……」
「俺が!」
こらえて小声になった紫露に、今度は思わず緝が声を上げてその言葉を遮る。
しかし、我に返ってため息をついた後、緝は紫露に顔を寄せて、小声になった。
「……俺が……、話したくないんだ。お前の気持ちもわからなくはない。……でも、俺は……」
緝は顔を顰めて俯くと、そこで言葉を切った。
紫露はそこで初めて、自分の無神経さに気づいて、唇をかんだ。
緝や時雨が、自分を子ども扱いして話さないのだと思っていた。だが、もしかしたら、二人にも痛みがあることを想像しきれていなかったのかもしれない。
「……悪い。もし聞きたいとしても……時間をくれ。今は話せない」
顔を上げてそう言うと、緝は軽く紫露に頭を下げてからすぐに踵を返し、カフェに戻っていった。
その背中を見送って、紫露は自分が情けなく思えてため息をついた。
カフェに来たのはそれ以来で、あの日とは逆に、緝がいないことを期待しながらここへ来た。
そうっとカフェの中を覗き込んだところで、
「何をしてるんだ?」
と、後方から声がかかった。
「わっ!」
紫露は驚いて少し跳ねると、振り向いた拍子に足がもつれて尻もちをついた。
そこに居たのは、ほうきとちり取りを持った緝で、見事なリアクションで驚いた紫露に対して、呆れた顔で見つめながら、手を差し出してきた。
どうやら外の掃除をしていたらしかった。もしかしたら紫露がカフェの前でうろついていた時から見ていたのかもしれないと思うと、急に恥ずかしくなった。
「……す、すいません」
できるだけ視線を合わせないように、その手を取りながら紫露は謝りながら立ち上がると、荷物とズボンを軽く払ってその場を離れようとした。
「……寄らないのか?」
首をかしげて、不思議そうな顔をする緝に、
「え。寄っていいんすか」
と、紫露が反射的に答えると、また呆れたような顔になった。
「出禁にした覚えはありません。まぁ、寄らないなら無理強いはしないですけど」
緝が敬語に戻って冷たく言うと、紫露は戻ってきて「え、あ、寄ります寄ります」と言い、緝の後を追った。
「テイクアウト?」
後ろを振り向きながらそう言うと、紫露は「あ~……店内で食べます」と、スマホで時間を確認しながら言った。
あまり混んでいない店内で、緝は紫露に向かってホールの方を指し示し、適当に座って待つように促す。
促されるまま、紫露は適当に席を選んで、座ると、荷物を置いて適当に参考書とノートを取り出した。
緝はほうきとちり取りをしまうのに一度バックヤードに引っ込んでから、紫露のところに戻ってくると「何になさいますか」と定型の質問をした。
「えーっと、ホットサンド……かな」
ちらっとメニューは見たものの、紫露は適当に言った。
「飲み物は?」
「……コーラで。先にください」
「かしこまりました」
緝は注文を取ると、そのまま去っていく。紫露は、ため息をついて参考書とノートを開いて、勉強を始めた。
すぐに緝はコーラを持って戻ってきた。
テーブルに飲み物を置きながら、紫露の広げている参考書を見て、
「……東都大付属高校?」
と緝はつい口に出して言った。このあたりでは一番レベルの高い進学校だ。
ちらっと緝を見上げたが、紫露はまた参考書に視線を落として、
「進学校ならどこでもいいんですけど、まぁ、一応」
と、微苦笑を浮かべた。
あまり突っ込んで聞かないほうがいいかと思って、緝は黙ってそのまま席を外した。
少し経ってホットサンドが出来上がり緝が持っていくと、紫露はため息をついてから、出していたものを全てカバンにしまい込んだ。大した時間でもなかったのだが、紫露は疲れたように目頭を押さえる。
「どうぞ、ごゆっくり」
緝はそう言って置くと、紫露が「あざすー……」と力なく答えた。
先にと言った割にはほとんど手を付けられていない、氷が解けて薄くなったコーラを一口飲んで、紫露はホットサンドに向かう。
緝は何となくその様子の紫露が気になって、ぼんやりと眺めていると、ホットサンドにかぶりつこうとした紫露と目があった。
「あぁ。悪い……。何でもない」
そう言って立ち去ろうとすると、「あ、あ。ちょっと待って」と紫露が引き留めた。
もしかしたらハルの最期のことをまだ諦めていないのかと訝しみながら緝が振り向くと、それを察したのか、紫露は襟足を撫でながら、
「……ハルさんのことは、もういいんで」
と、視線を逸らして気まずそうに呟いた。
緝はその様子に一度店内を見渡してから、あまり客がいないことを確認して、紫露の元に戻った。
紫露はその緝の顔色を窺うように見上げながら、隣の椅子を引いた。
緝は仕方ないな、という顔で紫露の隣の椅子に浅く腰掛ける。
「……温かいうちに、食べろよ」
話始めれば冷めてしまうだろうことを予想して、緝はホットサンドを指して言うと「あぁ、はい」と紫露は頷いて一口かぶりついた。
その間、しばし沈黙が落ちた。
半分程食べて、薄まったコーラをストローで混ぜてから、飲んで流し込むと、紫露は一息ついた。
「……骨肉腫って、やっぱ走れないんですかね」
沈んだ声で、紫露が言った。
「……ん?」
思ってもみなかった質問に、緝は聞き返す。
「いろいろ、ネットでも調べたんですけど。あんまりいいこと書いてなくて、途中でやめちゃったんすけど」
緝は、頭の中でいくつかの薬剤の名前が浮かんで、試験問題のように薬剤間の相互作用や検査値の数値がランダムに広がっていったが、紫露が聞きたいことはそういうことじゃないだろうと首を横に振ったあと、
「俺は医者じゃないからわからないけど、まぁ……罹患部位が足なら、まず無理じゃないかな。場合によっては日常生活で歩くのすら難しい可能性もあるし」
と答えた。
紫露は「そっすよね……」と、気のない返事をしてから、残りのホットサンドを食べはじめる。
友達が骨肉腫とでも診断されたんだろうか。などと思いながら、緝はこの沈黙のうちに、仕事に戻ろうかどうしようかと考えていた。
「たまき先輩が」
残りのホットサンドを口の中に詰め込んで、やっと飲み込んだ紫露が呟いた。
その一言で、緝の背筋に冷たいものが走った。
まさか。と緝が口にするより前に、泣き出しそうな顔で、紫露は緝を見つめて
「……たまき先輩なんです。病気……」
と言った。
「子リスが?」
緝はまた、思わずそう呟いて、口を押えた。
紫露は首をかしげて、「こりす……?」と繰り返したが、緝は「いや、何でもない。忘れろ」と、少し強めに言った。
「……リスっぽいすもんね、小さいし、もぐもぐしてるときめっちゃリスだもんな」
紫露は悲しそうな顔をしたままだったが、少しふっと表情を緩めた。緝はそうかもな……と、思いかけて、いやいやと首を横に振り「忘れろ」と念を押すと、紫露はその圧に押されて頷いた。
「……手術は?」
「これからです。抗がん剤がきついみたいで、最近は会えてないんですけど」
「そうか……」
しばらく沈黙が流れ、緝はハッとした。
「ん?お前、なんか予定あるんじゃないのか?」
注文の時に紫露が時間を確認していたことを思い出して、緝は腰を浮かせた。
「え?あ、やべ」
紫露はスマホで時間を確認して驚く。今からだと塾の時間にはギリギリだった。
慌てて紫露はテーブルの上のものを片付けるが、「もうそのままでいい」と緝は言い、紫露の手から、トレーに乗せた皿とコップを受け取る。
「支払い!」
紫露がごそごそと荷物をあさっているのを見て、
「それもいい、俺が払っとくから」
「え?は?」
呆れた声で緝が言うと、紫露は戸惑って目を丸くした。
出逢った時には、サービスと見せかけて梧のICカードから紫露たちの分を支払ってたくらいなので、そんなことをしてくれるとは思っていなかったのだろう。
「今日は俺がおごる。今回だけだぞ?……間に合うか?」
と、紫露の背中を押すと、スマホの時計と緝を交互に見ながら、「あ、えっと、たぶん。あの、あざっす!また来ます」と慌てて頭を下げる。
「はい、ありがとうございました。気を付けて!」
バタバタとカフェを出ていく紫露の背中を見送って、緝はテーブルのものを片付けると、レジで紫露の分を自分のスマホで決済した。
そして、ふと一瞬手を止めて、一度だけ見たたまきの顔を思い出し、深くため息をついたのだった。




