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19

 泣き腫らしたたまきは、その後、子供のように眠ってしまった。

 梧はまだ熱を持つたまきの頬を、手の甲で優しく触れながら、これから彼女が立ち向かうものの大きさを思ってため息をついた。

 代われるものなら代わってやりたい。

 脚だけでなく、命だって、なんだって差し出せる。梧の持っているものすべて、何一つ惜しくはない。

 だが、たまきに対して、今、梧ができることは何もないに等しかった。

 杠葉が祖父母を伴い、病室に戻ってきたところで、梧は二人に挨拶をすると、病室を後にした。

 

――――――――――――――――――――――――


 その夜、梧は夢を見た。

 

 前に見ていたような、ハルが死ぬ夢ではない。

 漆黒の空に、月明かりが眩しい夜の草原で、地上は昼間のように明るかった。

 風に草が揺れている。

 時折強く吹く風がふと止んだ瞬間に、ここはどこかと辺りを見渡すと、少し遠くに誰かが立っていた。

 その後ろ姿に見覚えがある。

 日に焼けた肌、褪せたような茶色の髪。少年のように短い髪。

「ハル!」

 梧の声に、その人は振り向いた。紛れもなくハルだ。

 背丈の高い草をかき分け、梧はハルの方へと向かった。最期に会った時より幼く見える。

「ハル」

 近づいて、ハルに声をかけると、彼女は訝しんで梧を見つめた。

「…………誰だい、あんた」

 頭からつま先まで視線を動かしてじっくりと見つめ、顎に手を当てたハルが言った。

「え?」

 梧は驚いて自分の体を見た。

 ……その体は、カザネではなく、梧のものだった。ハルの夢を見るとき、たいてい自分はカザネの姿だったように思う。だが今は、ハルとは不釣り合いな現代のスーツ姿で、訝しんでいたハルの目が興味深そうに変わった。

「俺は—————」

「あぁ、いいよ。なんとなくわかるから」

 説明しようとした梧の声を遮って、ハルは呆れたような顔で苦笑いした。

「…………お前に、頼みたいことがある」

 それなら話が早いと梧がそう言うと、ハルは心底呆れたように鼻で笑い、半眼で梧を見つめて、

「随分、都合よく()()を使うもんだね」

 と言った。

「え?」

 梧が驚いていると「だってそうだろう?」とハルはため息をついた。

「さんざん、自分のせいでおれを死なせたと泣いて見せて、今度は自分が困った途端、おれを頼ろうってのかい」

「……泣いてなど……」

「んなもん、どっちだっていいよ」

 言うとハルは両手を上げて見せてから、その場にどっかりと腰を下ろした。

 確かに、都合が良すぎるかもしれない。

 そう思って黙った梧を横目で見上げてから、ハルは再びため息をつく。

「自分の命を差し出して、あの子の命を救ってくださいとでも言うつもりだったのかい?」

 ハルがまっすぐ、梧を見つめる。

 梧は見透かすようなハルの言葉に、驚いたような顔をしてそのまま黙ったまま見つめ返す。

「なんでおれに頼むのさ。できるわけがないだろ?そもそも風ってのはそう言うもんじゃない。お前も知ってるじゃないか。人の生き死にをどうにかできるわけじゃない。理由もない。風は風としてあるだけだ」

「だが、あんまりだ。家族を失った上に、走ることすら奪われて、彼女はこれから先……」

 相変わらず呆れたような顔のまま、ハルはため息で梧の言葉を遮った。

「そんなこと知るかよぅ」

 両手を広げて見せてハルは首をすくめた。

 梧は視線を落とし、

「せめて……なにか、彼女の行く先(みらい)を知らないのか。彼女の希望になるような……」

 藁をも縋るような気持ちで呟いた。

「……いくら魂が一緒だからって、()に、あの子の風がわかるとでも思ってんのかい?……というか、私だって自分の風の行く先がわかったことなんてないよ。知るわけないじゃないか。まぁ、わかると言われたところで知りたいとは思わないけどね」

 ふと、ハルの姿が急に大人びてゆく。

「……なぜ?」

 ここが夢だとわかっているせいか、そのことに驚きつつも、梧は気にせずに訊いた。

「死ぬだの、助かるだの、判ったら辛さが変わるのかい?その病で近いうちに死ぬと分かったら治療もせずに諦めさせるのかい?逆に必ず助かるなら、死にたくなるほど辛い治療を無理やりでも続けさせるのかい」

 梧は黙った。答えられない。

 ハルが目の前で揺れる草の一枚をちぎって風に浮かせた。強い風が吹いて、あっという間にその草はどこかに飛んで行く。

 梧がちぎれた草を見送り、またハルのもとに視線を戻すと、ハルの姿は最期に会った妊婦の姿に変わっていた。

 さすがに、その姿には梧もぎょっとした。

「風を知ったところで、やることは同じなんだ。たぶん、何度同じ風が吹いても、……私は()()()()をするだろう」

 ハルが、妙に悟ったような、穏やかな顔でそう言う。

()()……?」

 その言い方が妙に気になって聞き返した瞬間、ごう!と音を立てて強く風が吹いて、草花が吹雪のように風に舞った。梧は咄嗟に目を閉じる。

 風が弱まり、再び目を開けると、そこにはもうハルの姿はない。

「……私はもう死んでる。腕の一本も残ってないんだ。けどお前には、抱きしめる腕も、涙を拭う指もあるんだろ?」

 再び舞うように吹き荒んだ風の中に、最後、そう言うハルの声がした。


 

 なんだか妙にリアルな夢だった。

 目が覚めても、本当にハルと話したような感覚が残っている。

 自分が未だに、何か迷いを感じているときにハルにすがってしまうというのは情けない話だが、

 結局、今世(いま)を生きるお前が、自分で考えろと言われただけだった。

 それが、なんともハルらしかった。

 前世を思い出してから見た夢の中で、一番ハルに近いハルの姿に思えた。

 

 ベッドから立ち上がり、リビングへ出た。

 カーテンを開けると、わずかに空が白んできている。

 梧は、少し早いが出かける支度を始めた。

 会社に行く前に、たまきの顔を見て行きたかった。

 何もできなくても、目覚めた彼女が一人で泣くようなことは嫌だった。


 ――――――――――――――――――――――――


 たまきも、夢を見ていた。

 それは、両親と父方の祖父母との団欒の時間で、茶の間のテーブルに所狭しと祖母の料理が並べられ、祖父は晩酌の準備をしている。まるで()()()の食事の風景だった。

 ふと、今がいつで、今日が何日だったかと考える。

 

 —————あぁ、もしかして、全部夢だったのかな。

 地震も、みんなが死んだことも全部。

 

 たまきの両親と祖父母が食卓に着いた。ふと、みんなが笑顔でこちらを見る。

 たまきはほっとして一歩踏み出した。

 その瞬間「たまきは来ちゃダメ!」と叫ぶようなママの声がした。

 いつも笑っていて、怒ることなんかほとんどなかったママの、切迫した声だった。

 その時、すべてが揺れ始める。

 目の前の団欒の風景にひびが入り、下から徐々に崩れ落ちていく。

「待って!ママ!パパ!!……じーちゃん!おばあちゃん!」

 たまきは急いで手を伸ばし、みんなの元に走り寄ろうとする。しかし、脚が重くて上げられない。

 足元を見ると、無数の黒い手が地面から伸びてたまきの脚に絡んでいた。

「……嫌だ……、やめて」

 たまきは呟きながら、脚でもがくが、一向にその黒い手からは逃れられない。

 気が付けば、目の前の風景はすべて崩れて粉々になって、たまきは一人、暗闇に取り残された。

 

 落ちていかないし、沈んでも行けない。

 ただ一人、たった一人、その場にただ浮いている。

 前にも後ろにも何もなく、進んできたはずの道も、進むべき道もどこにもない。

 ただ真っ暗な宇宙のようなところに、上下左右もなく独りぼっちで浮かんでいる。

 

 この夢を、知っている。

 いつも目が覚めると忘れてしまっていたけど、たまきはずっとここにいたんだ。

 普段のたまきを知っている人が誰もいなくなって、”たまき”が消えた場所。

 ”たまき”は本来どんな人だったのか、どういう風に過ごしていたのか。何もかもが消えてしまった。

 今のたまきは、両親たちと過ごしていたころの、本当のたまきなのかわからない。

 目を開いていても、閉じていても変わらない、漆黒の闇。

 生きていても、死んでいても、変わらない。

 なのに、落ちても行かなくて、沈んでも行けなかった。


…………ああ、そっか。これは罰なんだ。

 

—————たまき


 そう思った時、誰かが、たまきの名を呼んだ。

 微かに一筋の道のように光が、足元まで伸びてくる。

 光の先を見ても、暗闇で、その先はわからない。


……………だれ?


 たまきが聞いても、その光は消えなかった。そのまま微かな光を放っている。


—————たまき


 もう一度、その声はたまきを呼んだ。

 背中を押すように、風が吹いた。

 たまきは、その光の先へ、一歩踏み出す。


 

 その時、たまきは目が覚めた。

 瞼が腫れぼったくて重かった。皮膚が引きつれているような気もするし、目の奥も痛い。

 少し霞んだ目の前には病院の天井が見えて、たまきはハッとした。心臓が痛むように縮み、そのまま脈が速くなるのがわかる。息が荒くなった。

 ()()()()()()の光景だった。

 ふと、あの日に戻ってしまったのかと思う。

 たまきの記憶が確かなら、ベッドの傍らには母方の祖父母が居て、……みんなが死んでしまったことを聞かされたのだ。


 たまきは恐る恐る、少しずつ視線だけをベッドサイドに移していく。

 もしもあの日に戻って、また、その話を聞かされて、また同じ日々を繰り返すのは、嫌だった。


 —————しかし、そこに居たのは梧だった。


「……え?あお……ぎり、さん?」

 驚いて顔もそちらに向けて確認すると、やはり間違いなく梧で、たまきは慌てて起き上がろうとした。

「寝てていい」

 梧は言うと、その肩を押し戻して、たまきはベッドにまた横になった。

「……今、何時ですか?」

 言いながら、たまきは自分のスマホを探すが、

「七時前だな」

 腕時計で確認した梧の方が早く答えた。

「……ど、どうやって入ったんですか?」

 面会時間は特別な理由がない限り午後からのはずだった。午前中の、まして七時前に、家族でもない梧が入ってこれるのか不審に思った。

「……忍び込んだ。だから、あまり大きな声を出すな」

 梧が声を潜めて真面目な声で言うから、たまきは慌てて両手で自分の口を覆って息を止めた。 

 しばらく真面目な顔で見つめあった後、ふと、梧が笑った。

 たまきは両手を口から離して、ぷはっと呼吸を再開すると口を尖らせる。

「……嘘、つきましたね……?」

 少しにらむような顔で梧を見ると、

「……悪い。一応許可はとったが十分しかもらえなかった。あと……五分弱なら居られる」

 腕時計を確認しながら答える。

 たまきは少し不機嫌な顔をしたものの、残り少ない時間でなにを話したらいいかを考えて、結局思いつかずに黙った。

 ちらっと梧の表情を伺うように見ると、梧はたまきを見つめていて、たまきと目が合うと、眉を上げて首をかしげる。

 たまきはかけている布団を鼻元まで引き上げて顔を半分隠した。

 徐々に思い出してきたが、昨日は感情のままに泣いて、その後の記憶がはっきりしない。おそらくそのまま寝てしまったのだろう。

 梧には醜態を見せた上に今も晴れた瞼で、ひどい顔をしているに違いない。

「目を冷やすか?」

 梧は言うと、ポケットに手を突っ込んでハンカチを取り出すと、立ち上がって洗面台へ向かった。

 大丈夫ですと断ろうとしてその背中を見つめていたのに、たまきの口から突いて出たのは、

「……私の名前、呼びましたか?」

 だった。

 夢の中で聞いた声を、思い出していた。

「え?……ああ。うなされていたようだったから。やっぱり起こしてしまったか」

 昨日と同じように固く絞ったハンカチを、たまきに差し出す。

 受け取ろうともぞもぞと布団の中で腕を動かしているうちに、梧はちょうどたまきの目にかぶるくらいに折りたたんで、優しく目の上に乗せた。

 少しひんやりとして気持ちが良かった。たまきはそれを、布団から出した指先で押さえながら、

「大丈夫です。もう起きたかったから」

 と言った。あのまま、夢の中の暗闇にいるのは嫌だった。

 君の大丈夫は信用できないとまた言われるかなと思いながら、たまきは続けて口を開く。

「……思い出したんです」

「……何を?」

 目の奥が、じんと熱くなった。もう泣きたくないのに、泣きそうだ。

 梧には泣いているところばかり見せているし、昨日話してしまったことも、これから言うことも、きっと困らせるだろう。

 だけど、なぜか梧には、話してしまう。

「……罰だったんです、きっと。私が病気になったのは」

 梧はすぐには返事をしなかった。何を言い出したのかと、呆れられたかもしれない。

 だけど、目に当てたハンカチを外して、梧の様子を確認することは、怖くてできなかった。

「……なぜ、そう思う?」

 梧の声色で、戸惑っているのがわかる。怒っているわけではなさそうだ。

 言わなければ良かったと思う一方で、嫌われてもいいから聞いてほしいと思った。

「みんなが……死んで……、居なくなって。……私も、死にたいって、みんなのところに行きたいって……思ったから」

 誰にも言ったことがなかったけれど、あの状況でせっかく助かった命なのに、たまきはずっと罰当たりなことばかり考えていた。

 こらえきれずに、涙が溢れてくる。声が震えて、梧にもたまきが泣いていることはわかってしまっただろう。

 梧は、やはりすぐには答えない。たまきに、失望しただろうか。

 だが、ハンカチを押さえていたたまきの手を、梧は優しく包み込むように握ってきた。

 その温かさに、たまきの目から、また涙が溢れてくる。

「……今も、そう思っているか?」

「……え?」

「死にたいと、思っているのか?」

 梧の質問に、一瞬戸惑ったが、たまきは首を横に振った。

 母方の祖父母に、心悠や紫露たちみんな、それに、梧がいる。

 死にたくない。生きていたい。みんなと一緒に居たい。……でも、そんな資格、ないかもしれない。

 梧の手が、さっきよりも少し強く握られる。

「……なら、……頑張ろう。俺にできることは何もないかもしれないが……、できることなら、何でもする。いつでも連絡をくれ。いつでも来るよ」

「……でも……、仕事、ありますよね……」

 梧の言ってくれた言葉は、すごく嬉しくて、心強かった。

 病気の話を聞いたあと、とても怖い。走れなくなることも、手術も、その前後の治療の副作用も。だけど、そんなに迷惑をかけてしまっていいのだろうか。

「どうとでもなる。気にしなくていい」

「……なんで、そんなにしてくれるんですか?……私が、ハルさんだから?」

 また梧が黙る。戸惑っているのが、その沈黙で分かった。

 意地悪な質問だっただろうか。だが、梧みたいな人がたまきに良くしてくれる理由が他に思い当たらない。

「……君は、ハルとは別人だ」

 梧がそう言った時、病室のドアが静かに開けられた。

「海風さん、もう、そろそろ……」

 静かな声で、看護師が声をかけてきた。

 面会に許された時間を過ぎたのかもしれない。

「すみません、もう出ます」

 言うと、たまきの手をもう一度ぎゅっと強く握った後、

「たまき、時間だ。……また来る」

 そう言って手を離した。

 思わずたまきがハンカチを外して、涙で濡れたままの瞳で梧を見つめると、梧は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでたまきの頭をくしゃくしゃっと髪を乱すように撫で「また来る」ともう一度言ってから、病室を出て行った。

 たまきは、乱された髪に触れながら目を閉じて、ゆっくり息を吐く。

 まだ、心の中は複雑なままだったが、今、ほんの一瞬の間だけ、穏やかな風が胸の中に吹いた気がした。

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