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たまきはあれからも一般客の誘導や案内に奔走し、一通り片付けも終えてようやく帰路についた。紫露とはあの後別行動になった上、片づけを終えると早々に帰ってしまったようで、今日のことを聞けないままになった。
起きたことを振り返る間もなく走り回っていたら、今日あった出来事は夢だったんじゃないかとすら思えてきた。
とはいえあの後、美形の二人は帰ってしまったというのに学校中で話題に上っていたし、たまきもどこにいるんですか?と聞かれたりもしたのだから、二人が来たことは夢ではないのだけど。
……その一人がよく知る後輩の父親で、もう一人が自分に声をかけてきたいうことには現実味がなかった。
ふと、黒髪の男性の姿を思い出すと同時に、—————ここにいたのか、ハル—————という声が耳元に蘇ってきた。あまりにはっきりと思い出されて、現実だったんだと何かに言われた気がした。胸の中に風が吹き込んだようにざわめいてなんだか落ち着かず、たまきは胸元の服をかき寄せた。
—————ハルって誰だろう。
たまきの脳裏にふとした疑問が浮かぶ。
“アオ君”って誰?なんで私に向かってあんなことを言ったんだろう。
……この疑問について紫露なら何かを知っているかもしれないと思った。だけど、紫露に投げかけてもいいのか、そもそもなんて聞けばいいのか、聞いていいのか、たまきにはわからなかった。
紫露と知り合ってからは四年ほど経つが、知り合いがたまきを探しているなんてことは一度も聞いたことがなかったからだ。
ごちゃごちゃと混乱した頭のまま、たまきは「ただいま……」と言って玄関を開け、靴を脱ぎっぱなしのままにしたことすら気づかないまま家に上がるとリビングのドアを開けた。
開けたドアの先には、少し驚いたように目を見開いた祖母の顔があった。祖母はすぐに笑顔になると、
「……おかえり。疲れたでしょう?最後の文化祭大変だったわねぇ」
そう言ってから「お風呂沸いてるから、先に入ってきちゃえばいいね」と続けた。
ただいまと言ったたまきの声が、祖母には疲れた声に聞こえたのかもしれないと気づいた。
実際、この三日走り回っていたから疲れていることには間違いなかったけれど、実はそうではないことに気を取られていたことも、心配させてしまったことにも申し訳ない気持ちになった。
「あ、うん。そうだね」
すぐ切り替えてたまきが笑顔で応えると、奥から祖父が出てきて気難しい顔を見せた。何も言わず無言のまま、たまきの背負っていたカバンを受け取り、二階への階段の方へと向かう。
「……あ。ありがと」とたまきが言うと、祖父は「ああ」とだけ答えた。
普段からそうしてくれているわけではないのだが、特別たまきが疲れていそうな雰囲気を察知すると、祖父はカバンを受け取って、二階のたまきの部屋の前まで運んでくれるのだ。
そんな祖父の後ろ姿にも少し罪悪感を感じながら、たまきはいつも通りリビングとつながっている四畳半ほどの小さな和室に向かい、そこにある仏壇の前に座った。
笑顔の若い夫婦の写真と老夫婦の写真が並べて飾られている。……たまきの両親と父方の祖父母だ。
いつものように手を合わせ「ただいま」と言った。
たまきは小学五年生の頃に両親と祖父母とともに災害に遭い、たまきだけが助かった。その後、母方の祖父母であるこの二人に引き取られたのだった。
手を合わせ、目を閉じたまま、“今日も一日、無事に終わったよ“と心の中で報告する。
ふと、今日出会った“アオ君”の顔が浮かんで、たまきはぱっと目を開けた。なぜか後ろめたく感じられて、かき消すようにふるふると首を横に振る。
「じゃ、お風呂先に行ってくるね」
たまきは立ち上がり、二階から降りてきてダイニングに座っていた祖父と、キッチンで食事の準備をしてくれている祖母に向かってそう言うと、着替えをとりに二階の自分の部屋に向かった。
お風呂から上がって食事を済ませると、疲れたからと言って、たまきは早々に二階の部屋へと上がった。
部屋へ入って扉を閉めると、扉を背に一度ため息をついた。なんだかずっと落ち着かない。
ベッドに横になり、スマホを開いた。
紫露に連絡しようかとも思ったけれど、やっぱり何をどう聞いたらいいかわからなくてやめた。
胸元にスマホを置いたままぼんやりと天井を眺めて、ふと、たまきは思いついて検索画面に“しもつきしぐれ“と打ち込んだ。検索結果の一番上のサイトを開くと、とある会社のサイトで、その役員の欄に”霜槻時雨“と名前があった。
そのままサイト内を閲覧していると、社長という肩書とともに一緒にいた“アオ君”の写真が出てきた。スマホの写真と目が合い、たまきは驚いてスマホを胸元に伏せる。しばらくそうして気持ちを落ち着けてから、恐る恐るまたのぞき込む。
……そこには何の表情もない、“アオ君”の顔があった。その下に名前が書かれている。
「……海風梧……」
名前を聞いたところで、ピンとこなかった。知らない名前だ。
わかったのは、彼はたまきが思うよりとんでもなくすごい人だということだけ。
大学在学中に起業して、現在二十七歳。
あの見た目で社長だと分かったら、あの場はもっと大混乱だっただろうなと冷静に考えた。平凡なたまきとは全く住む世界が違う。
そんな彼が、確かにたまきをまっすぐに見て、「ここにいたのか、ハル」と言った。まるで、ずっと探していた人をようやく見つけたような言い方だった。
たまきは、海風梧さんなんて人のことを今日まで全く知らなかった。それにたまきは“ハル”じゃないし、そんなあだ名だったこともない。誰かに似ているのだろうか。
試しに“ハル”と検索してみると、お店の名前やメーカーの名前、人の名前と多種多様に表示されたが、そのどれもがあの人の言う“ハル”とは違う気がした。ハルというのはあだ名かもしれないし、検索して見つけるのは不可能だろう。
天井を見つめながら、嬉しそうだった梧の顔と、たまきの一言でその表情が消えてしまった瞬間を思い出して、胸の奥がきゅうっと締め付けられて苦しくなる。パジャマの胸元をかき寄せて身を縮めると、その胸の痛みの理由がわからずに、たまきは布団をかぶってぎゅっと目を閉じた。
間違いなく知らない人だった。
だけどたまきは、どうしても海部梧さんのことが気になってしかたない。
—————ハル
名前を呼ぶ声を、もう一度聞きたいと思った。
その名前は、たまきの名前じゃないのに。
そんなことを考えながら布団の中で丸まっているうちに、たまきはうとうとと眠りに誘われて、いつの間にか、眠りに落ちていった。
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足元に、ぽっかりと穴が空いている。
だけど落ちていかないし、沈んでも行けない。不思議なことに浮いているらしい。
ただ一人、たった一人、その場にただ浮いている。
足を踏み出してみれば、その穴もついてくる。踏みしめる感覚も、歩いている実感もない。
前にも後ろにも何もなく、進んできたはずの道も、進むべき道もどこにもない。
気がつけば、ただ真っ暗な宇宙のようなところに、上下左右もなく独りぼっちで浮かんでいた。
—————ここにいたのか、ハル
誰かの声がした。
キョロキョロと辺りを見渡すと、微かに一筋の道のように光が、足元まで伸びてくる。
その光を見た瞬間、なんだか胸のあたりが暖かくなった。
地面がわかって、着地した気がした。
この光を目指せばいいのかな。あの声は、誰だろう。
…………だれ?
そう聞いた瞬間に、ふっとろうそくを吹き消したように光は消えてしまった。
あぁ、聞いちゃいけなかったんだ。
わかった時にはもう遅くて、光を取り戻す方法はわからなかった。
知らないようで、知っているような声。
もしかして私は忘れちゃったのかな。だから、怒ったのかな。
また漆黒の宇宙にただ一人で浮かんで揺れて、どこにいけばいいのかも、今、どこにいるのかも、自分が誰なのかも…………そもそも自分が存在しているのかどうかもわからないまま。
なんだか、眠たくなってきた。
瞼が重くて開けていられない。
目を開いていても閉じていてもあまり変わらない暗闇で、静かに目を閉じたのだった。




