14-1
カフェのロッカールームで制服から私服に着替えると、森庵緝は、バックヤードにいた店長に「お疲れさまでした」と声をかけた。
「ん、おつかれー。気をつけて帰ってねー」
と、疲れた顔で返してきた店長に、軽く頭を下げて裏口から外へ出ると、カバンからスマホを取り出し、時間を確認した。
時間は19時半になろうというところだった。何もメッセージがないことも確認して、今度はカバンの中からイヤホンを取り出して、耳にはめる。
音楽アプリを探して、スマホの画面上で指を滑らせたところで、
「今帰り?」
と言う声がして、顔を上げた。
そこには仕事帰りらしい、スーツ姿の時雨が手に何かを持って立っていた。
「……あぁ、はい」
特に驚きもせず、やる気のない口調でひとまず返事をすると、緝はため息をついてイヤホンを外し、スマホと一緒にポケットにしまう。
時雨は、手に持っていたチルドカップのコーヒーの一つを、緝に差し出してきた。
「……どうせコーヒー飲むなら、売り上げに貢献してもらいたかったですけど」
と、嫌味を言ってから受け取ると、時雨は苦笑して
「そう思ったんだけど、間に合わなかったんだよ」
そう答えてから、店の前のベンチを指し示した。
緝は時雨の後に続いて、ベンチへと移動する。
ベンチに座ったところで、時雨は自分の分のコーヒーにストローを刺すと、一口飲んで、息をついた。
緝はもらったコーヒーを持ったまま、その時雨を見ながら、
「なんか、話ですか?」
と言う。
時雨がこんなふうに店の前で待ち構えていたのは、何か話があるからだろう。
おおよそ、先日再会した“ハル”のことか。
先日、少年と訪ねてきた小さい少女を思い浮かべ、ハルにしてはスレてなくて、素直そうなリスみたいな子だったな、と思い出す。
……あの子リスに、時雨たちは、一体どこまで話したのだろう。
内容は気になるところだが、緝はそんなことよりも、早く帰りたかった。
前世のことはすべて覚えているし、彼らと再会したことは、まぁ、それなりに嬉しかったが、元気に暮らせているなら、それでいい。無理に関わる必要もないと思っていた。
「まぁ、そうなんだけど……。どうぞ、飲んで」
「あとでいただきます」
そうきっぱりと言って、話を促す。
薬学部三年の緝は、時間が有り余っているわけではない。
「敬語じゃなくていいって言ったのに……」
「いえ、年下なんで」
時雨は苦笑いをしながら言うが、緝はまたきっぱりと言う。
前世でゼンとサギリのどちらが年上だったかは忘れてしまったが、同世代で、いろいろと共感する部分があったので、気を許していた部分もあったとは思う。
だが今は三十代後半と二十代前半では、だいぶ歳が下であり、境遇も違う。緝はその線引きはきっちりしておきたかった。……前世と、今世は違うのだから。
それでも、困ったように微笑んで緝を見つめてくる時雨に、ため息をついてから、仕方なくストローを刺して、コーヒーを一口飲んだ。
少しほっとした顔でコーヒーをもう一口飲んで、時雨は口を開いた。
「ごめんね。薬学部は大変なんだろうけど。……ハルと会ったのを見ただろう?気にしてないかなと思ってさ」
それを聞いて、緝はあからさまに怪訝そうな顔をすると、
「……気にしてません」
言いながら、緝はベンチの背もたれに体を預けて、ため息をついた。
気にしていないと言いつつ、帰ろうとしない緝を見て微笑むと、時雨も軽くベンチの背にもたれる。
「……記憶、ないんですね?ハルは」
緝はあの時、漏れ聞いた会話を思い出して訊いた。
時雨は頷き、コーヒーをまた一口飲むと、
「まあ、潜在的に、何となく感じるものはあるみたいだけど、何も覚えていないみたいだね」
夜空を見上げつつ、そう答えた。
「……その子リスに、どこまで話したんですか」
緝はコーヒーのカップを指で撫でながら訊いた。
「子リス?」
時雨が驚いた顔で緝の方へ視線を戻し、そう訊き返されて初めて、緝は自分が思わずさっき思いついたままを口走ってしまったことに気づいた。
「あ……いや」
緝は気まずさから視線をそらす。
時雨がふ、っと笑いを漏らす息遣いが聞こえて、ますます居たたまれなかった。
「……あぁ、まぁ子リスみたいだよね。小さいし、なんかぴるぴるしてて。冴島たまきさんって言うんだけど」
「……あんまり本人の知らないところで個人情報暴露するのやめた方がいいですよ」
わかるような、わからないような、ぴるぴるという表現に首を傾げつつ、緝はすかさず釘を刺した。
「あ、うん……。それもそうだね。今は子リスにしておこうか?」
「いや……それも……。どうかと思いますけど……」
緝をからかうつもりでもなさそうな、真剣な顔で時雨が答えたので、緝は返答に困った。
そのまま、真剣な顔で「今はたまきさんで良い?」と訊いてきたので、緝は「何でもいいです……」と呆れたように答えると、時雨は「ありがとう」と見当違いなお礼を言ってきた。
緝はその情報を悪用するつもりはもちろんないし、時雨もそれをわかっている。多分今から聞く話も個人情報満載だろう。子リスには申し訳ないが、もう今更だなと考えて、それ以上、何か言うのをやめた。
この様子だと、緝の前世と今の名前くらいは、子リスたちに伝わっていそうだ。
……前世と比べると随分、時雨は緩くなったと思う。
というか、天然なのか、あるいは奥さんの影響なのか。
一度だけカフェに夫婦で来たことがあったが、人目のあるところでも構わず、奥さんに甘い視線を送っているところを見て、緝は前世のサギリのイメージとあまりにも違い過ぎて思考停止したのを覚えている。
できることなら、もう二度と見たくはない。思い出しただけで鳥肌が立った。
「たまきさん、災害で、一緒に暮らしていたご家族を全員亡くしていてね」
「……えっ?」
いきなりトーンを落として言った時雨の言葉に、緝は驚いた。てっきり子リスは暖かな家庭で幸せに暮らしているものだと思っていたからだ。
「今は、母方のおじいさまとおばあさまと暮らしているから、孤児ではないんだけど」
「そう……なんですか」
緝はそれ以上、何も言う言葉が思いつかない。
「亡くなられたご家族のことを、やっとこの前、吐き出せたばかりなんだ。まぁ、ここへ来ることはないかもしれないけど、何か困って君を訪ねるようなら、助けてあげてほしい。……君がゼンだってことと名前だけは伝えてあるから」
それは予想通りだったので良いとして、思いもよらない境遇の彼女に、頭がついていかず、ぼんやりとした。
「それは、……まぁ、はい。わかりました」
本当に訪ねてくるかはわからない。彼女にとっては全く知らない人だろうから。と思ったので、返答が曖昧になったが、……ハルの最期を知る者の一人としては、今世では幸せでいてもらいたい。自分にできることはないと思うが、心づもりはしておこうと緝は思った。
「……で、どこまで話したんですか?」
気を取り直して、緝が再び訊くと、
「あぁ、まぁ……あらすじを一通り」
言いにくそうに、時雨は曖昧に答えた。
「殺されて死んだことも?」
「うん……」
「……お腹に、子供がいたことも」
「……そう、だね」
それを聞いた緝は、時雨を見つめて固まったあと、深いため息をついて、顔を覆って俯いた。
「いや、あの、話しているときは知らなかったんだよ、彼女の境遇をさ」
「でも彼女は中学生ぐらいでしょ」
顔を覆ったまま、緝は冷たく言い放った。
「そうです……」
つい敬語で返事をすると、時雨も少し俯くとため息をついてから、また口を開いた。
「まぁ、言い訳だけど……。途中で止めようとしたとき、彼女がどうしても聞きたいって言ったんだ。やめても、濁しても、聞きたがるような気がして」
緝はそれを聞いて顔を上げると、時雨の横顔を見つめた。
後悔しているような、話せてホッとしたような、複雑な感情が混ざり合っているのが、緝にもわかった。
「……勝手な言い分だけど、梧にも、吐き出して欲しかったんだ」
梧は、前世の後悔に囚われていた。全部を知っている時雨や緝が何か言ったところで、それは簡単に消えるものではなかった。それはずっと、カザネの時代から梧を見守ってきた時雨にとっても、苦しいことだっただろう。
わかってしまうから、緝は時雨のことを、無碍にできない。
ため息をついて、緝はコーヒーを飲んだ。
前世で、ゼンとサギリの立場は、よく似ていた。
ハルにはスイもいたが、ゼンも親のような気持ちでいたし、サギリも、カザネに対して保護者のような気でいたように思う。
ハルとカザネが近づくことに葛藤したことも、自分たちなりに二人を守ろうとしたことも、ゼンとサギリは、よく話をした。意見がぶつかることもあったが、その時のお互いの気持ちは、わかりすぎるほど、わかってしまうものだった。
「……ハルが、そういうやつだったな」
つい、緝は独り言のように呟いた。時雨はそれに、言葉では返さず、静かに頷く。
ハルの子供の頃は、なんでも聞きたがり、何にでも首を突っ込む危なっかしいやつだった。
「……梧がね、夜に夢を見るって言っただろう。ハルが死んだシーンをずっと繰り返している夢。その後の頭痛に悩まされていたんだけど、昨日は薬を飲む前にその痛みが消えたんだそうだ」
時雨は暗い空を見上げながら嬉しそうに微笑んで、言った。
「……彼女の……、たまきさんのね。声を思い出したら楽になったそうだよ」
「…………良かったな」
ほっとした顔で、時雨が安どのため息とともにそう言い、緝も微笑んで相槌を打つと、時雨は「ああ」と応えた。
泣き出しそうなほどうれしそうな時雨の顔に、緝も目の奥がじんと熱くなって、時雨から視線をそらす。
しばらく、長い沈黙が落ちた。コーヒーを啜る音だけが二人の間に流れたあと、緝は、まだ一つ気にかかることがあって、口を開く。
「……子リス……いや、冴島……さんと、一緒にいた少年だけど……」
時雨の顔を見ると、また複雑そうな顔で彼は微笑んでから、間を置いて頷いた。
「霜槻、紫露。……俺の子供だよ」
その顔を見つめて、緝は、ハルのことも本題だっただろうが、時雨はそのことも伝えにきたんだな、と思った。
「そうか……、あんたの子ども、か」
敬語が外れたことに気づかないまま、時雨の言葉を繰り返すように緝は呟いた。
少年を見たとき、時雨によく似ていたから、おそらく彼の子どもだろうとは思った。
巡り合わせとは、時に数奇なものだ。
「……あのことは、話したのか?」
時雨は首を横に振る。
「梧にも、言ってない」
「……そうか。…………そうだな」
緝は、独り言のように呟く。その言葉を聞いて、少しだけ、時雨はホッとしたように眉を下げた。
そのまま、また二人は沈黙した。
その間にコーヒーを飲み干した二人は、しばらくの間、呆然としていたが、時雨が自分の太ももを両手で叩くと、
「ま、俺からはそれだけ」
と言って微笑んだ。
緝も我に帰って頷くと、立ち上がった。
時雨も立ち上がりながら、緝の手から、空のコーヒーカップを自然な動きで回収すると、緝は軽く会釈する。
その後で、ちらっと緝を一瞥した視線が、何か、ためらうように一瞬泳いだ。
緝が訝しげな顔をすると、時雨が口を開く。
「……スイは—————」
「そのことはもういい。放っておいてくれ」
時雨のいいたいことは、おおかた予想ができていた。緝は時雨の言葉を遮って、少しきつめの口調で言う。
時雨は、スイが見つかったかどうかを訊こうとしたのだ。
彼が緝のことを心配して訊いてきたことはわかっている。だが、そのことを時雨に、触れられたくはなかった。
「……うん、ごめん。何か、俺にできることがあったら言ってくれ」
そういうと、少し寂しそうな顔で、緝の返答を待つように少し待った後、何も応えない緝に、時雨は気まずそうな顔で「じゃあ、……気をつけて。おやすみなさい」と声をかけて、緝に背を向けて立ち去っていく。
罪悪感が緝の全身に重くのしかかる。
それでも、どうしても、……何も答えることができなかった。
時雨は、前世で想った相手と再会し、結婚して子供もいる。梧と子リスのことはまだわからないが、前途は悪くないように思われた。
緝は、ポケットからイヤホンを取り出した。
イヤホンをはめて、気を紛らわすために、適当に音楽を流し始める。
だが、イヤホンから流れる音楽は、緝を素通りしていくだけで耳にすら届いてはいない。
緝の意識は、遠く、前世へと馳せていった。




