12
深い森の奥。鬱蒼としていて薄暗い森の中を、一人佇んでいる。
気味の悪い、ぬるい風が通り抜けた。
その風が、灰色の煙をつれてくる。次第にあたりに煙が充満し、渦巻き、前後左右、方角がわからなくなっていく。
—————火が来る。
カザネは腕で口元を押さえ、視線だけであたりを見渡す。
焼けこげた草や葉がハラハラと舞い落ちて、火の気配がした。森の奥から木々が燃えて弾ける音が聞こえ始める。
火の粉が飛び始め、やがて、火の手がカザネの方へと及んだ。
カザネは地を蹴った。火のない方へと走り出す。
その間も、感覚を研ぎ澄ませる。
—————火だけではない。
走り出したカザネと共に何かが動いている。
—————無事でいてくれ!
カザネは、胸中で叫んだ。
この日を知っている。何が起きたかを。
カザネが焦るほどに、足はだんだんと重くなっていく。
—————頼む、間に合ってくれ……!
前へ進もうとするカザネを、風が押し戻そうとする。
負けじとカザネは足を踏み出すが、全く前に進んでいる気がしない。まるで沼に足を取られたようだ。
もがいて、木やツルを掴むが、どれもカザネが手にすると呆気なく切れて折れ、もろく崩れ落ちた。
視界の先が、森から、暗闇の沼地のようなところに変わっていく。
沼の先に、ぼうっと光が現れる。一人、誰かが佇んでいた。
カザネは目を凝らす。
—————……ハル?
それはハルだった。
日に焼けた肌、褪せたような茶色の髪。少年のように短い髪。
ゆったりとした服を着て、その腹は大きく膨らんでいる。
あの日のハルだ。
目を閉じて、沼にも沈まず、そこにただ立っていた。
—————ハル!
カザネは叫ぼうとするが、喉が塞がれたようにうまく声が出せない。
—————ハル!ハル……!逃げろ!
やはり声は出せない。気がつけば、手も足も動かない。
カザネ自身が、静かに沈んでいた。
静かに、ゆっくりと、ハルが目を開ける。
その瞳がカザネを捉えた。唇が動いているのが見える。それが「お前のせいだ」と言ったように見えた。
カザネの心臓が、冷たく縮む。
やはり、恨んでいるんだな、お前は。
私の浅はかな行動で、お前を死に追いやったことを。
カザネは奥歯を噛み締め、ただ、カザネを見つめて佇んでいるハルを見つめ返した。
次の瞬間。
ハルの胸を、剣が貫いた。ハルの胸からあっという間に血が広がり、真っ赤に染まっていく。
—————ハル!!!
ハルの胸を貫いた切先が、素早く引かれると血飛沫が上がり、ハルはそのまま崩れ落ちて、光を失った瞳がカザネを見つめたまま、沼にゆっくりと沈んでいった。
「ハル!!!!」
叫んだ声で、梧は目を覚ました。
心臓はバクバクと激しく脈打ち、息が上がっている。全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
梧は荒い息のまま、見覚えのある天井をしばらく見上げていた。それが自宅の寝室の天井だと言うことに気づくまで、しばらくかかった。
梧は額に手を当て、浅い呼吸を何度か繰り返した。
ようやく息が整い、深く息が吸えるようになると、重たい体をゆっくり起こす。
起き上がると脈打つたびにひどい頭痛がした。梧は頭を押さえて、俯いたまま、その頭痛が過ぎ去るのを待った。
……これが初めてではない。
十代の頃に前世の記憶を思い出して以降、この夢は何度も見た。
決まって頭痛を引き起こし、頭痛は時によって、しばらく治まらないこともあった。痛みの感覚から、長引きそうだと思った梧は、ベッドサイドのテーブルを一瞥するが、いつも常備しているはずのミネラルウォーターのペットボトルがない。
薬はサイドテーブルの引き出しにも入れてあるが、飲むための水を取りに行かねばならないようだ。
梧は、ため息をついた。
まだ痛む頭に手を当てながら、なんとかベッドから抜け出た。
重たい足取りでリビングまで行き、薬を入れている引き出しから一錠、薬を薬包のまま取り出すと、キッチンに向かう。
水切りカゴに入れっぱなしになっていたコップを手に取ると、ひとまず、水を注いで一杯そのまま飲み干し、もう一杯分コップに水を注いだところで、また頭を殴られるような頭痛の波がやってきて、梧は、とっさに目を閉じる。
手探りで薬包から薬を出そうとするも、手が震えて、薬包は手から滑り落ちた。
梧は言うことをきかない自分の身体に、またため息をついて、いったん薬を諦め、無駄に体に入った力を逃がそうと、ゆっくりと息を吸い、吐き出す。
どれくらい、そうしていただろう。
—————え……美味しい……!
ふと、たまきの声が聞こえて、目を輝かせたたまきの顔が、瞼の裏に蘇った。
いるはずもないたまきの声に、梧は、驚きながらもゆっくり目を開ける。
—————……一人で降りれますよ。
もちろん、たまきが居るわけはない。しかし、再び声が耳元に蘇ると、リスのように頬を膨らませた顔が、脳裏に浮かんで、梧の表情が緩む。
—————ほぁ!?
梧にからかわれ、変な声を上げたことも思い出して、梧はふっと笑いを漏らした。
いつの間にか手の震えがおさまり、手から落ちた薬包を拾い上げる。
ため息をついて、ようやく薬が飲めると、薬包から取り出そうとそれに手をかけた時、……梧は頭痛が消えていることに気が付いた。
頭痛後の違和感とだるさは残っているが、もう激しい痛みはどこにもない。
指先で額に触れ、ゆっくりとなぞってから、恐る恐る、軽く頭を振った。
……それでも、頭痛は感じなかった。
梧は驚いて、しばらく動きを止めた。
これまで、薬を飲まずに頭痛が自然におさまったことは一度もない。
梧は不思議に思いながら、もう一度額を押さえた後、髪をかき上げた。
汗で濡れた髪が指に触れ、自分が汗だくだったことを思い出すと、急にその気持ち悪さが全身に広がる。
梧はとりあえず、汗を流すためにバスルームへと足を向けた。
軽く体を流し、着替えを済ませると梧はリビングに戻ってソファーに腰を下ろした。
濡れた髪にタオルをかぶったまま、ぼんやりと、たまきのことを思い出していた。
—————あなたの、せいじゃない
ほとんど初対面の梧を抱きしめて、彼女は言った。
あの時、彼女の事情を知らなかった梧は、我に返ったとき、たまきが梧を哀れに思ったんだろうと思った。
そんな自分が情けないと思ったし、彼女をまだ何も知らない子供なのだと思った。
だが、彼女の事情を知るほどに、それは違うのだとわかった。
彼女は、一緒に暮らしてきた家族を失い、その死をどうやって受け入れればいいかもわからず、ただじっと胸の奥にしまって過ごしてきた。
それを言葉にする方法もわからず、誰に吐きだしていいかもわからないまま。
あの時、きっと梧が自分のように思えたのだろう。
かつての悲しみと、その苦しさが自分と重なったに違いない。
だから自分がフラッシュバックに苦しんでも、必死に、梧の話を、最後まで聞こうとした。
そう、はっきりと意識して行動していたかはわからないが、自分自身にも、そうしてあげたいと思ったから。
ただ、潜在的に”話したい”と思っても、すぐにそうできるわけでもない。
紫露が、たまきに母親をどう呼んでいたかを訊いたとき、たまきはすぐに笑顔になった。謝る紫露にも気を遣わせないよう、すぐに許して、また、胸の奥にすべてをしまおうとした。
確かに、あの時、梧は杠葉に話を聞いてあげてほしいとお願いはされていた。
だが、それがなくとも、梧はたまきをあのままにしておくことはできなかっただろう。
梧にも、たまきの苦しみがわかったから。
いや、梧よりもたまきの方がもっと辛く悲しい痛みを抱えているはずだ。
梧は自分の掌を見つめる。
彼女が梧の腕の中で嗚咽を漏らして、ただただ涙を流したあの時、こんなに小さな体で、どれほどのことを抱えてきたのだろうと思った。
梧はソファーに体を預け、天井を見上げてため息をついた。
梧とたまきは似ているのだ。
愛しいものをすべて失った、その記憶を持つ者同士として。
いや、……似ているというのは彼女に対して失礼だろうか。
梧はため息をついた。
梧は間違いなく、たまきに救われていた。
たまきは、その行動の純粋さと素直さで、梧に前世を吐き出させ、……偶然かもしれないが、彼女は梧の頭痛まで消してしまった。
「……俺は、君に、何を返せるだろう……」
梧はそう呟くと、ゆっくり目を閉じた。このまま、眠れそうな気がした。夜眠ることが怖くないと感じたのは、もう思い出せないほど、久しぶりのことだった。
しばらく、その心地よさに微睡んで、梧は我に返ったようにはっと目を開いた。
このままここで眠ると体に障る。
この感覚をもったいなく思いつつも、梧はゆっくり立ち上がり、ベッドルームに移動した。
眠気が覚めてしまわないか心配になったが、ベッドに入って目を閉じると、気が付かないほどすんなりと、梧は眠ってしまったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――
「おはよう」
「おはようございます」
梧が出社してきて社長室に入ってくると、先に準備を始めていた時雨と挨拶を交わした。ふと、時雨は手を止めて梧の顔を覗き込んできた。
それを訝しんで、
「……なんだ?」
と、眉間にしわを寄せる。
時雨は「あ、いや」と首を横に振りながらも微笑んで、「昨日は、よく眠れたみたいだね」と言った。
梧は驚いた表情で「……あぁ」と返事をした。
気分は良かったが、目に見えて違うとは思っていなかった。
悪夢で夜中に目が覚めてから、もう一度眠ったので、睡眠時間的にはさほど長くはない。
だが、普段の梧の眠りの質は、睡眠薬を常用するほど悪かった。寝つきも悪く、夢ばかり見て眠りも浅い。昨日のように夜中に目が覚めることもしょっちゅうで、頭痛が続けばすぐに眠ることはできず、そのまま夜を明かすこともあった。
だが昨日は再び眠りに落ちた後、セットしたアラームが鳴るまで夢も見ずに眠れた。
「夢は見なかったんだな」
時雨はホッとした顔で作業を再開しつつ、梧に言った。
「……いや、見た」
梧は自分のパソコンを立ち上げつつ、ため息交じりに答える。時雨は驚いたように梧の顔を見る。梧はパソコンの画面を眺めながら、
「いつものように目が覚めて、頭痛もあった。……だが、薬を飲む前に、治まったんだ」
言って、時雨の方をちらっと見て、またパソコンの画面に視線を戻す。
時雨は再び手を止め、驚いた顔のまま、梧の方へと歩み寄った。
「……薬を飲まずに?そんなこと、今までにあったか?」
梧は首を横に振り、「ない」ときっぱりと言った。
時雨は顎に手を当てて、少し俯いて考えるような仕草をした後、不思議そうな表情で顔を上げる。
「……何か心当たりが?」
そう言って梧の顔を見ると、こめかみのあたりを指先で掻いて、少しためらいがちに口を開く。
「……彼女の……、声を……思い出した」
時雨は驚いたように眉を上げたが、その口元には微笑みが浮かび、どこか嬉しそうな表情になると
「たまきさんの?」
と、訊いた。
いつのまにか“冴島さん”呼びから“たまきさん”呼びになっていることに少し引っかかりつつも、梧は頷く。
「……そうか」
時雨は頷き返してきたが、梧は複雑な表情になる。それに気づいて時雨は首を傾げた。
「……何か、問題でも?」
「そう言うわけじゃないが……」
言いながら梧は椅子の背にもたれて、ため息をつくと、そのまま黙ってしまった。
時雨は肩をすくめると、作業に戻り、
「……もう、十分苦しんだよ。梧は」
と、優しい口調で言った。
「だから、今度は自分を許すことを覚えてくれ」
時雨は作業する手は止めず、梧の顔を見ないまま、そう続けた。
梧は、一瞬、驚いた顔をしたが、微苦笑を浮かべた。
思えば、時雨は前世から梧のことを心配していた。特に前世では、カザネにすべてをささげていたと言っても過言ではない。
梧が立ち止まっている限り、まだ時雨に心配をかけ続けることにもなる。
「……お前に、甘え続けるわけにもいかないしな」
ぽつりとつぶやいた梧の言葉に、時雨は面食らった表情で顔を上げた。
しかしすぐにふっと「そういう意味で言ったんじゃないよ」と言って笑った。
「自分を罰するように、痛みに耐え続ける必要はないってこと。……俺だって、前世を忘れたわけじゃない。どうせ、忘れられないんだから」
視線を落として、時雨は微笑んだ。
……確かに、その通りだった。夢も、頭痛も、ハルが自分を恨んでいる証拠だと思い込んでいた。だから甘んじて受け入れなければならないと思っていたし、それこそが梧の罪の重さだと信じて疑わなかった。
自分がハルに許されていいとすぐに思えるわけではないが、ハルが自分を恨んでいるかどうかなんて、もう確かめようもない。ハルはもういないし、たまきはそれを覚えていない。
考えてみれば、ハルが誰かを恨み続けるような奴ではないことくらい、知っていたはずなのに。
覚えていないのは、辛かったことも、すべて忘れて先に進みたかったからじゃないのか。そちらの方が、ハルのイメージとして、しっくりくる。
いや、そんな風に、物事に理由を求めることすら、意味のないことと、あいつは笑うかもしれない。
—————風は風だよ。ただ、流れるだけだ。それに意味を求めるなんて馬鹿げてるね。
ふと、前世の記憶がよみがえった。
何を目指し、どこに行こうとしているのか。その運命とは?”風のもの”に課された宿命とは何だ?と”風のもの”の意味をカザネが問うた時、ハルがそう答えた。
ハルの最期にばかり気を取られ、すっかり忘れていた思い出の一つだった。
なぜ、王家に生まれ、なぜ、こんな運命を生きねばならないのか。自分に課された宿命とは何か、と悩んでいたカザネにとって、その言葉は寝耳に水だった。
—————宿命?知ったことか。人間、生まれたら死ぬだけだろ。そんなん言ったって時間の無駄だよ。答えなんかありゃしないさ。運が良けりゃ、私が死んだ後に誰かが適当に理由を付けてくれるんじゃないかい?
その言葉に、カザネの気持ちは少し軽くなったことを、思い出した。
相変わらず自由のない日々でも、随分と、息がしやすくなった。
梧は、目が覚めた気分だった。
ハルとたまきは別人だ。そして、悪夢に出てくるあのハルでさえ、梧が生み出した創造の産物なのだと、ようやく気づいた。
時雨は梧の顔が穏やかになったのを見て、ホッと息をついた。
そして、タブレットを片手に梧の前に立った。
それに気づいて顔を上げた梧と目が合うと、
「……それじゃあ、本日のスケジュールを確認しますが、よろしいですか?社長」
いつもより丁寧な口調でそう言った。
梧はふ、っと笑みをこぼすと
「ああ、頼む」
と答えた。




