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 深い森の奥。鬱蒼としていて薄暗い森の中を、一人佇んでいる。

 気味の悪い、ぬるい風が通り抜けた。

 その風が、灰色の煙をつれてくる。次第にあたりに煙が充満し、渦巻き、前後左右、方角がわからなくなっていく。

—————火が来る。

 ()()()は腕で口元を押さえ、視線だけであたりを見渡す。

 焼けこげた草や葉がハラハラと舞い落ちて、火の気配がした。森の奥から木々が燃えて弾ける音が聞こえ始める。

 火の粉が飛び始め、やがて、火の手がカザネの方へと及んだ。

 カザネは地を蹴った。火のない方へと走り出す。

 その間も、感覚を研ぎ澄ませる。

—————火だけではない。

 走り出したカザネと共に何かが動いている。

—————無事でいてくれ!

 カザネは、胸中で叫んだ。

 この日を知っている。何が起きたかを。

 カザネが焦るほどに、足はだんだんと重くなっていく。

—————頼む、間に合ってくれ……!

 前へ進もうとするカザネを、風が押し戻そうとする。

 負けじとカザネは足を踏み出すが、全く前に進んでいる気がしない。まるで沼に足を取られたようだ。

 もがいて、木やツルを掴むが、どれもカザネが手にすると呆気なく切れて折れ、もろく崩れ落ちた。

 視界の先が、森から、暗闇の沼地のようなところに変わっていく。

 沼の先に、ぼうっと光が現れる。一人、誰かが佇んでいた。

 カザネは目を凝らす。

—————……ハル?

 それはハルだった。

 日に焼けた肌、褪せたような茶色の髪。少年のように短い髪。

 ゆったりとした服を着て、その腹は大きく膨らんでいる。

 ()()()のハルだ。

 目を閉じて、沼にも沈まず、そこにただ立っていた。

—————ハル!

 カザネは叫ぼうとするが、喉が塞がれたようにうまく声が出せない。

—————ハル!ハル……!逃げろ!

 やはり声は出せない。気がつけば、手も足も動かない。

 カザネ自身が、静かに沈んでいた。

 静かに、ゆっくりと、ハルが目を開ける。

 その瞳がカザネを捉えた。唇が動いているのが見える。それが「お前のせいだ」と言ったように見えた。

 カザネの心臓が、冷たく縮む。

 

 やはり、恨んでいるんだな、お前は。

 私の浅はかな行動で、お前を死に追いやったことを。

 

 カザネは奥歯を噛み締め、ただ、カザネを見つめて佇んでいるハルを見つめ返した。

 次の瞬間。

 ハルの胸を、剣が貫いた。ハルの胸からあっという間に血が広がり、真っ赤に染まっていく。

—————ハル!!!

 ハルの胸を貫いた切先が、素早く引かれると血飛沫が上がり、ハルはそのまま崩れ落ちて、光を失った瞳がカザネを見つめたまま、沼にゆっくりと沈んでいった。

 

「ハル!!!!」


 叫んだ声で、梧は目を覚ました。

 心臓はバクバクと激しく脈打ち、息が上がっている。全身は汗でぐっしょりと濡れていた。

 梧は荒い息のまま、見覚えのある天井をしばらく見上げていた。それが自宅の寝室の天井だと言うことに気づくまで、しばらくかかった。

 梧は額に手を当て、浅い呼吸を何度か繰り返した。

 ようやく息が整い、深く息が吸えるようになると、重たい体をゆっくり起こす。

 起き上がると脈打つたびにひどい頭痛がした。梧は頭を押さえて、俯いたまま、その頭痛が過ぎ去るのを待った。

 ……これが初めてではない。

 十代の頃に前世の記憶を思い出して以降、この夢は何度も見た。

 決まって頭痛を引き起こし、頭痛は時によって、しばらく治まらないこともあった。痛みの感覚から、長引きそうだと思った梧は、ベッドサイドのテーブルを一瞥するが、いつも常備しているはずのミネラルウォーターのペットボトルがない。

 薬はサイドテーブルの引き出しにも入れてあるが、飲むための水を取りに行かねばならないようだ。

 梧は、ため息をついた。

 まだ痛む頭に手を当てながら、なんとかベッドから抜け出た。

 重たい足取りでリビングまで行き、薬を入れている引き出しから一錠、薬を薬包のまま取り出すと、キッチンに向かう。

 水切りカゴに入れっぱなしになっていたコップを手に取ると、ひとまず、水を注いで一杯そのまま飲み干し、もう一杯分コップに水を注いだところで、また頭を殴られるような頭痛の波がやってきて、梧は、とっさに目を閉じる。

 手探りで薬包から薬を出そうとするも、手が震えて、薬包は手から滑り落ちた。

 梧は言うことをきかない自分の身体に、またため息をついて、いったん薬を諦め、無駄に体に入った力を逃がそうと、ゆっくりと息を吸い、吐き出す。


 どれくらい、そうしていただろう。

—————え……美味しい……!

 ふと、たまきの声が聞こえて、目を輝かせたたまきの顔が、瞼の裏に蘇った。

 いるはずもないたまきの声に、梧は、驚きながらもゆっくり目を開ける。

—————……一人で降りれますよ。

 もちろん、たまきが居るわけはない。しかし、再び声が耳元に蘇ると、リスのように頬を膨らませた顔が、脳裏に浮かんで、梧の表情が緩む。

—————ほぁ!?

 梧にからかわれ、変な声を上げたことも思い出して、梧はふっと笑いを漏らした。

 いつの間にか手の震えがおさまり、手から落ちた薬包を拾い上げる。

 ため息をついて、ようやく薬が飲めると、薬包から取り出そうとそれに手をかけた時、……梧は頭痛が消えていることに気が付いた。

 頭痛後の違和感とだるさは残っているが、もう激しい痛みはどこにもない。

 指先で額に触れ、ゆっくりとなぞってから、恐る恐る、軽く頭を振った。

 ……それでも、頭痛は感じなかった。


 梧は驚いて、しばらく動きを止めた。

 これまで、薬を飲まずに頭痛が自然におさまったことは一度もない。

 梧は不思議に思いながら、もう一度額を押さえた後、髪をかき上げた。

 汗で濡れた髪が指に触れ、自分が汗だくだったことを思い出すと、急にその気持ち悪さが全身に広がる。

 梧はとりあえず、汗を流すためにバスルームへと足を向けた。



 軽く体を流し、着替えを済ませると梧はリビングに戻ってソファーに腰を下ろした。

 濡れた髪にタオルをかぶったまま、ぼんやりと、たまきのことを思い出していた。

—————あなたの、せいじゃない

 ほとんど初対面の梧を抱きしめて、彼女は言った。

 あの時、彼女の事情を知らなかった梧は、我に返ったとき、たまきが梧を哀れに思ったんだろうと思った。

 そんな自分が情けないと思ったし、彼女をまだ何も知らない子供なのだと思った。


 だが、彼女の事情を知るほどに、それは違うのだとわかった。


 彼女は、一緒に暮らしてきた家族を失い、その死をどうやって受け入れればいいかもわからず、ただじっと胸の奥にしまって過ごしてきた。

 それを言葉にする方法もわからず、誰に吐きだしていいかもわからないまま。

 あの時、きっと梧が自分のように思えたのだろう。

 かつての悲しみと、その苦しさが自分と重なったに違いない。

 だから自分がフラッシュバックに苦しんでも、必死に、梧の話を、最後まで聞こうとした。

 そう、はっきりと意識して行動していたかはわからないが、自分自身にも、そうしてあげたいと思ったから。


 ただ、潜在的に”話したい”と思っても、すぐにそうできるわけでもない。

 紫露が、たまきに母親をどう呼んでいたかを訊いたとき、たまきはすぐに笑顔になった。謝る紫露にも気を遣わせないよう、すぐに許して、また、胸の奥にすべてをしまおうとした。

 確かに、あの時、梧は杠葉に話を聞いてあげてほしいとお願いはされていた。

 だが、それがなくとも、梧はたまきをあのままにしておくことはできなかっただろう。

 梧にも、たまきの苦しみがわかったから。

 いや、梧よりもたまきの方がもっと辛く悲しい痛みを抱えているはずだ。


 梧は自分の掌を見つめる。


 彼女が梧の腕の中で嗚咽を漏らして、ただただ涙を流したあの時、こんなに小さな体で、どれほどのことを抱えてきたのだろうと思った。


 梧はソファーに体を預け、天井を見上げてため息をついた。

 

 梧とたまきは似ているのだ。

 愛しいものをすべて失った、その記憶を持つ者同士として。

 いや、……似ているというのは彼女に対して失礼だろうか。


 梧はため息をついた。


 梧は間違いなく、たまきに救われていた。

 たまきは、その行動の純粋さと素直さで、梧に前世(かこ)を吐き出させ、……偶然かもしれないが、彼女は梧の頭痛まで消してしまった。


「……俺は、君に、何を返せるだろう……」


 梧はそう呟くと、ゆっくり目を閉じた。このまま、眠れそうな気がした。夜眠ることが怖くないと感じたのは、もう思い出せないほど、久しぶりのことだった。

 しばらく、その心地よさに微睡んで、梧は我に返ったようにはっと目を開いた。

 このままここで眠ると体に障る。

 この感覚をもったいなく思いつつも、梧はゆっくり立ち上がり、ベッドルームに移動した。

 眠気が覚めてしまわないか心配になったが、ベッドに入って目を閉じると、気が付かないほどすんなりと、梧は眠ってしまったのだった。


 ――――――――――――――――――――――――――――


「おはよう」

「おはようございます」

 梧が出社してきて社長室に入ってくると、先に準備を始めていた時雨と挨拶を交わした。ふと、時雨は手を止めて梧の顔を覗き込んできた。

 それを訝しんで、

「……なんだ?」

 と、眉間にしわを寄せる。

 時雨は「あ、いや」と首を横に振りながらも微笑んで、「昨日は、よく眠れたみたいだね」と言った。

 梧は驚いた表情で「……あぁ」と返事をした。

 気分は良かったが、目に見えて違うとは思っていなかった。

 悪夢で夜中に目が覚めてから、もう一度眠ったので、睡眠時間的にはさほど長くはない。

 だが、普段の梧の眠りの質は、睡眠薬を常用するほど悪かった。寝つきも悪く、夢ばかり見て眠りも浅い。昨日のように夜中に目が覚めることもしょっちゅうで、頭痛が続けばすぐに眠ることはできず、そのまま夜を明かすこともあった。

 だが昨日は再び眠りに落ちた後、セットしたアラームが鳴るまで夢も見ずに眠れた。

「夢は見なかったんだな」

 時雨はホッとした顔で作業を再開しつつ、梧に言った。

「……いや、見た」

 梧は自分のパソコンを立ち上げつつ、ため息交じりに答える。時雨は驚いたように梧の顔を見る。梧はパソコンの画面を眺めながら、

「いつものように目が覚めて、頭痛もあった。……だが、薬を飲む前に、治まったんだ」

 言って、時雨の方をちらっと見て、またパソコンの画面に視線を戻す。

 時雨は再び手を止め、驚いた顔のまま、梧の方へと歩み寄った。

「……薬を飲まずに?そんなこと、今までにあったか?」

 梧は首を横に振り、「ない」ときっぱりと言った。

 時雨は顎に手を当てて、少し俯いて考えるような仕草をした後、不思議そうな表情で顔を上げる。

「……何か心当たりが?」

 そう言って梧の顔を見ると、こめかみのあたりを指先で掻いて、少しためらいがちに口を開く。

「……彼女の……、声を……思い出した」

 時雨は驚いたように眉を上げたが、その口元には微笑みが浮かび、どこか嬉しそうな表情になると

「たまきさんの?」

 と、訊いた。

 いつのまにか“冴島さん”呼びから“たまきさん”呼びになっていることに少し引っかかりつつも、梧は頷く。

「……そうか」

 時雨は頷き返してきたが、梧は複雑な表情になる。それに気づいて時雨は首を傾げた。

「……何か、問題でも?」

「そう言うわけじゃないが……」

 言いながら梧は椅子の背にもたれて、ため息をつくと、そのまま黙ってしまった。

 時雨は肩をすくめると、作業に戻り、

「……もう、十分苦しんだよ。梧は」

 と、優しい口調で言った。

「だから、今度は自分を許すことを覚えてくれ」

 時雨は作業する手は止めず、梧の顔を見ないまま、そう続けた。

 梧は、一瞬、驚いた顔をしたが、微苦笑を浮かべた。

 思えば、時雨は前世から梧のことを心配していた。特に前世では、カザネにすべてをささげていたと言っても過言ではない。

 梧が立ち止まっている限り、まだ時雨に心配をかけ続けることにもなる。

「……お前に、甘え続けるわけにもいかないしな」

 ぽつりとつぶやいた梧の言葉に、時雨は面食らった表情で顔を上げた。

 しかしすぐにふっと「そういう意味で言ったんじゃないよ」と言って笑った。

「自分を罰するように、痛みに耐え続ける必要はないってこと。……俺だって、前世を忘れたわけじゃない。どうせ、忘れられないんだから」

 視線を落として、時雨は微笑んだ。

 ……確かに、その通りだった。夢も、頭痛も、ハルが自分を恨んでいる証拠だと思い込んでいた。だから甘んじて受け入れなければならないと思っていたし、それこそが梧の罪の重さだと信じて疑わなかった。

 自分がハルに許されていいとすぐに思えるわけではないが、ハルが自分を恨んでいるかどうかなんて、もう確かめようもない。ハルはもういないし、たまきはそれを覚えていない。

 考えてみれば、ハルが誰かを恨み続けるような奴ではないことくらい、知っていたはずなのに。

 覚えていないのは、辛かったことも、すべて忘れて先に進みたかったからじゃないのか。そちらの方が、ハルのイメージとして、しっくりくる。

 いや、そんな風に、物事に理由を求めることすら、意味のないことと、あいつは笑うかもしれない。


—————風は風だよ。ただ、流れるだけだ。それに意味を求めるなんて馬鹿げてるね。


 ふと、前世の記憶がよみがえった。

 何を目指し、どこに行こうとしているのか。その運命とは?”風のもの”に課された宿命とは何だ?と”風のもの”の意味をカザネが問うた時、ハルがそう答えた。


 ハルの最期にばかり気を取られ、すっかり忘れていた思い出の一つだった。


 なぜ、王家に生まれ、なぜ、こんな運命を生きねばならないのか。自分に課された宿命とは何か、と悩んでいたカザネにとって、その言葉は寝耳に水だった。


—————宿命?知ったことか。人間、生まれたら死ぬだけだろ。そんなん言ったって時間の無駄だよ。答えなんかありゃしないさ。運が良けりゃ、私が死んだ後に誰かが適当に理由を付けてくれるんじゃないかい?


 その言葉に、カザネの気持ちは少し軽くなったことを、思い出した。

 相変わらず自由のない日々でも、随分と、息がしやすくなった。


 梧は、目が覚めた気分だった。

 ハルとたまきは別人だ。そして、悪夢に出てくるあのハルでさえ、梧が生み出した創造の産物なのだと、ようやく気づいた。

 時雨は梧の顔が穏やかになったのを見て、ホッと息をついた。

 そして、タブレットを片手に梧の前に立った。

 それに気づいて顔を上げた梧と目が合うと、

「……それじゃあ、本日のスケジュールを確認しますが、よろしいですか?社長」

 いつもより丁寧な口調でそう言った。

 梧はふ、っと笑みをこぼすと

「ああ、頼む」

と答えた。


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