1
その日は中学生最後の文化祭の最終日で、実行委員の一人である冴島たまきは校内で起きる大小さまざまなトラブルを解消するために学校中を走り回っていた。
たまきたちの学校は都市部に位置し、一学年8クラスのそれなりに大きな学校だ。文化祭は一般客も受け入れ、三日間行われる。
今日はその三日目なわけだが、最終日で日曜のせいか僅かにこの二日間より人出が多く、トラブルも一層多く感じられた。
「たまき先輩!」
迷子の子供を親御さんに無事届けてたまきが一息つくと、一人の男子が人混みをかき分けてこっちへと向かってきた。
たまきは彼に向かって手を軽く振る。陸上部の後輩、二年の霜槻紫露だ。
「霜槻、そっちは解決した?」
紫露は頷くと
「はい。D組の破れた衣装は手芸部が何とかしてくれました」
言いながらたまきの横に並んで歩調を合わせ、「休憩にしましょう」と、一般客立ち入り禁止というロープを張った階段の方を指さし、たまきも頷いてそちらへと向かっていく。
ロープをくぐり、階段を2,3段昇ってから腰かけると、紫露はスポーツドリンクをたまきに手渡す。
「これ、D組からのお礼でもらったんで、先輩もどうぞ」
紫露は一人分ずれてたまきの分の席を空けると、よほど喉が渇いていたのかスポーツドリンクの半分ほどを、喉を鳴らして一気に飲んだ。
「私もいいの?」
「……手芸部の分はちゃんと渡してきたんで大丈夫っす」
口元を拭い、息を整えるように深く吐き出しつつ紫露は答えた。
「そっか、ありがと」
紫露の隣に座り、たまきもスポドリを開けて一口飲む。
廊下の喧騒が少し遠のいて、せわしない空気が少し落ち着いた。
「いや~、やばいっすね。まじ人多い」
紫露が今度はゆっくり残りのスポドリを飲みつつ言った。
うんざりした表情で窓から見える空を見つめている。
「ほんとだね~」
たまきも苦笑しながらそれに答え、同じく窓の外を見つめた。
昼を過ぎたばかりだから、まだもう少し終了まで時間がある。休憩を終えたら、また巡回に戻らなくては。
そのとき、スマホの通知音が鳴った。
またトラブルかとたまきと紫露がスマホを同時に取り出すとたまきの待ち受け画面には何の通知もなく、
「あ、俺っす。父親ですね。そういや今日来るって言ってたな」
とすぐに紫露が言った。
たまきが紫露の顔を覗き込むと、面倒くさいような、そうでもないような、微妙な顔をしていた。
「じゃあ、お父さんと一緒に回らないとね」
と、たまきが言うと、一瞬ぎょっとした顔をしてから紫露は慌てて両手を振る。
「別にいいですよ!大人なんだから一人で回れるでしょ、俺だって忙しいし」
そう早口で言って紫露はすぐに視線をそらした。耳が赤くなっている。
そういえば、部活の大会を見に来るのはいつもお母さんだけだったような気がする。今日は都合がついたのだろう。恥ずかしいような嬉しいような、そんな心持なのかもしれない。
徐々に顔まで赤くなって落ち着かない様子の紫露を見て、たまきは笑いそうになるのを軽く握った拳を口元に当ててこらえた。
「……大丈夫だよ、私が実行委員に言っておくし。ゆっくりしておいでよ」
たまきが言うと紫露は顔を手で隠しながら、
「いいんですって。まじで大丈夫です」
と、照れ隠しに少しぶっきらぼうに言った。いよいよたまきも面白くなりちょっとからかいたくなってきた。
「行くの恥ずかしかったら一緒に行ってあげようか?」
すでにこらえきれず、たまきは言いながら、ふふふと笑いが漏れてしまった。
紫露は弾かれたように勢いよくたまきの方を見た。普段はそんなことしないが、余裕がないのか睨むような顔つきになっている。
「いいって言ってんじゃないっすか!」
顔を真っ赤にして怒る紫露をみて、たまきは大口を開けて笑った。「ちょっとも~まじで笑うなって!」と紫露は苦し紛れにたまきの持っていたペットボトルに手を伸ばし、奪い取ると「没収です!」と言った。
—————その時、階段下の廊下の向こうから、ひときわ大きなざわめきが聞こえてきて、二人はハッとした。
顔を見合わせ、何が起きたのかと二人は同時に立ち上がって階段を下り廊下へ出る。
廊下の向こうに人だかりができていた。
悲鳴に似た声も上がり、ざわめきが一層広がっていく。
またお互いに顔を見合わせ、二人は頷くと、廊下の向こうの人だかりに向かって人をかき分けて進んだ。
「すみません!道を開けてください!」
「なにかありましたか!?大丈夫ですか!?」
言いながら二人は騒めく人波を進んでいく。
そして、人だかりを抜けた瞬間—————、その中心にいた男性と、たまきは目が合った。
男性の深い黒々とした瞳が一瞬、光を浴びて青く光ったように見えた。錯覚かと瞬きをしていると、艶のある黒髪がさらりと揺れて、その男性の鋭かった視線がふっと緩む。
その瞬間、時が止まった気がした。
あたりの喧騒が水を打ったように急に静まり返り、
「……ここにいたのか、ハル」
静かに低く響くその男性の声だけがはっきりと聞こえた。
あまり表情が豊かではなさそうなその男性が柔らかく微笑んだ気がして、たまきは目を見開いた。
仕立てのいい光沢のあるスーツを身にまとい、袖から見える太く引き締まった手首には高級そうな腕時計が光っている。すらりと背が高く足も長い、均整がとれて引き締まった体型と整った顔立ちのその人はただ立っているだけなのに目を惹いた。まるでモデルか芸能人のようだった。おそらくこの騒めきも悲鳴のような歓声も、彼に向けられていたのだろう。
彼は、たまきから目を離さない。吸い込まれるように、そのきれいな黒い瞳から目が離せなかった。
「……だれ……?」
ほとんど無意識にたまきが小さくそう呟いた瞬間、まるで魔法が切れたように黒髪の男性の表情は能面のように感情を失い、再びあたりの喧騒が戻ってきてたまきは我に返った。
なぜか胸の奥が、チクリと痛んだ。
「父さん!」
喧騒の中から紫露が声をあげたのを聞いて、たまきは驚いてそちらの方を見た。
—————え?父さん?
周囲の人の視線からもたまきが思ったことと同じことをつぶやく声が聞こえた気がした。静かにどよめきが広がり、紫露とその黒髪の男性に周囲の視線が注がれる。
まさか!紫露のお父さんがこんなに若くてイケメンだったなんて。いや、さすがに若すぎじゃないだろうか。せいぜい二十代後半にしか見えない。たまきは目を丸くした。
「紫露!」
紫露を呼ぶ声がしたが、呼んだ声はその黒髪の男性のものではなかった。
声がした方向にたまきは視線をむける。
後ろからもう一人のスーツ姿の男性が姿を現した。
黒髪の男性よりも背は小さいが、筋肉質なのがスーツの上からでも分かった。人並みを避ける身のこなしが運動神経の良さを物語っていて、顔立ちがどこか紫露に似ている。
紫露たち三人は注目を集め、平凡なたまきは何となく場違いさを感じて一歩下がって距離を取った。
「アオ君と来るなんて聞いてないけど!」
少し不機嫌そうに紫露が言った。
紫露の父親がちらっとたまきに視線を送ってから紫露に駆け寄り腕を掴むと、少しその場から離れ、何かこそこそと話し出した。
何となく気まずさを感じて、たまきが視線を巡らせてふと顔をあげると、紫露が“アオ君”と呼んだ黒髪の男性と目が合った。たまきは驚いてつい身構えてしまったが、彼は表情を変えることなくすぐに目をそらし、紫露たちの方を見る。
また胸の奥が痛み、たまきはその今まで感じたことがなかった感覚に、胸元を撫でた。
「時雨」
低い声が響く。低いけれど良く通る声だ。
紫露の父親がパッと振り向いて、「はい」と素早く応える。
「もう帰ろう。これ以上は迷惑になる」
少し遠巻きに廊下に広がる人だかりに一瞬視線を投げて、“アオ君”は言った。“アオ君”が視線を投げた先で、また黄色い歓声が上がる。
紫露の父—————時雨もあたりを見渡したのち、一瞬、またたまきに視線を落としてから、“アオ君”の方に向き直る。
「……しかし、」
「時雨」
何か言いかけた時雨を、“アオ君”は鋭い視線とその一言で黙らせた。
「はい」
時雨はそう言って軽く頭を下げると、ここへ来るまでもそうしていたのだろう、まるでボディーガードかSPのように腕を広げて、人だかりに頭を下げて道を作ってゆく。
「紫露、迷惑をかけたな」
“アオ君”は紫露に向かってそう言うと、紫露は慌てて「あ、ううん」と首を横に振った。
たまきの方へも一度視線を向け、目を伏せるようにして会釈をした。たまきも慌てて頭を下げる。
たまきを見つけた時に見せた、微笑んだように柔らかい表情はもう彼にはなかった。
なぜか、たまきの胸がまたチクリと痛む。
たまきが再び頭をあげた頃には、“アオ君”は人波の向こうへと行ってしまっていた。
ふと紫露の方に視線を向けると、“アオ君”の行った先を紫露は気まずそうな顔で見つめている。
たまきが、何か声をかけようと口を開いた瞬間、たまきのスマホが鳴った。
慌てて電話に出ると、
『ちょっと!たまきどこに居るの!?』
他の実行委員の怒ったような声がスマホから響いた。
起きた出来事の余韻もなく、たまきと紫露はまた校内を走り回ることになったのだった。