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9.挑発

 切れ長の目はエレオノーラを捉える。

 単調な低い声に僅かに苛立ちが混じっていて、何も言い返せなくなる。


 押し黙ったエレオノーラは、仕方なくギルベルトの隣の椅子に腰を下ろした。カップは一つしかないようだが、椅子だけは三つほどある。


 ちょこんと椅子に腰かけていても、ギルベルトは何も言わなかった。


 追い出されないことはありがたいが、退屈だ。辺りを見回しても、部屋の棚には難しそうな分厚い本が巻数順にびっしりと並んでいるだけで、自分が読めそうなものは見当たらない。窓から大きな樹が見えるだけ。


 独特の静謐な空気が、部屋中に満ちていた。机にも棚の上にも埃のひとつもない。本当に必要なものだけが整然と並んでいる。まるでこの人みたいな味気ない部屋だ。


 エレオノーラならこんなところで一日中過ごすなんて、考えられない。


 けれど、隣に座るこの男の他には話し相手もいない。


「ねえ、何を調べてるの?」

 

 ギルベルトはエレオノーラを横目で見た。


「降雨流出時における河川水のpH変動について調べています」

 応えてくれないかと思ったのに、平坦な声は返事をした。喋りながら器用に、彼は文字を綴っていく。

 ただ内容は謎の呪文のようなものだった。


 何を言っているのかエレオノーラにはまるで理解ができない。聞かなかったことにして、次。


「どうしてみんなにやさしくしないの?」


 例えばギルベルトがにこりと微笑みさえすれば、あの侍女だって彼に夢中になるだろう。エレオノーラだって見てみたい。


「女性が苦手なだけです」

 そんなことはじめて聞いた。フェリクスは女官に囲まれていつも楽しそうに笑っているのに。


「変な人。ねえ、研究官ってなあに?」


 そこではじめて、ギルベルトは顔を上げた。静かな緑の目に、別の光が宿る。

 そして、小ばかにしたように鼻を鳴らした。


「ついでに子供はもっと嫌いです」


 他に何も言わなかったが「この王宮にいてそんなことも分からないのか」その目には書いてあった。


「わたし子供じゃないわ。もうすぐ十歳になるのよ。そのうち王様になるための儀式だって受けるんだから」

 誇らしげに胸を張ってみたが、ギルベルトの目は変わらない。


「十歳は十分子供でしょう」

「そういうあなたはいくつなのよ」


「十八ですが、何か?」


 驚いた。あんなに難しそうな書類を書いているのに、兄と一つしか変わらないとは。妙に落ち着いていて隙が無いから、もっと年上だと思っていた。


 それはそれとして、腹は立つものである。


「いじわるな人。わたしが女王になったらあなたなんて真っ先にクビにして差し上げるわ」


「どうぞご勝手に」


 そう言って、彼はカップに静かに茶を注いだ。その所作さえ、流れる様に美しかった。


 紅茶ほど華やかに香りが立つわけではない。ほのかに甘い匂いがする程度。けれどそのカップに満ちていた色を見て、エレオノーラは驚いた。


「ねえ、これなあに?」

 見たこともない青い色の茶だった。


 実用性を重んじたのだろう、彼の飾り気のない白いカップの中、そこだけまるで晴れた空のような目の覚める青がある。その色が、エレオノーラの心を捉えて離さない。


「さあ、なんでしょうね」


 彼は、一口それを口に運んでから、小さな壺からスプーンで一さじ掬って何かをカップに入れた。


 すると、瞬く間に茶の色が変わった。あんなにもきれいだった青が、ぱっと鮮やかなピンク色に変わって輝く。


 エレオノーラはしばし息をするのを忘れて、カップの中に揺れる水面に見入った。

 これは一体何なのだろう。わくわくする。ぴょこぴょこと跳ねる様にして、訊ねた。


「すごい! 魔法みたいね! あなたは魔法が使えるの? わたしにも飲ませて」


「いやです。これは魔法ではありません」

 ぴしゃりと、ギルベルトはつれなく言った。


「魔法なんてものは、この世にはない」


「そんな風に言わなくてもいいじゃない」

 エレオノーラだってそれぐらいのことは分かっている。魔法なんて物語の中の話だ。けれど、それを思わせるぐらいこれはすごいのだと伝えたかっただけなのに。


「じゃあこれはなんで色が変わるの?」


「……少しは自分で考えてみたらいかがですか」


 本当に何もできない小娘だとギルベルトが思っていることが分かる、今までで一番冷ややかな言い方だった。


「物事にはきちんと説明できる理由がある。そんなに気になるなら調べるなりなんなりすればいい」


「なによ、そんな言い方しなくたって」

「まあ、お子様にお分かりになれないかもしれませんがね」


 そこではじめて、にやりと片方だけ口角を上げてギルベルトは笑った。確かにそれは微笑みと呼ぶにふさわしいもので、想像したよりも目の前で見ると破壊力があった。

 例えば、うっかり一目見て恋に落ちそうなぐらいには。


 けれど、それは少女の幻想を打ち砕くには十分な、冷たい笑みだった。だから余計に嫌だった。


「ばかにしないで」


 その整った顔をエレオノーラは睨みつけた。こんな屈辱ははじめてだ。到底受け入れられるものか。


「ほう。ではこうしましょうか」


 何かを見定める様に、ギルベルトは緑の目を眇めてみせる。


「来週の同じ曜日同じ時間に、この部屋に来てください。そこでもし、色が変わる原理を俺にきちんと説明することができれば」


「できれば?」


「その時は、このお茶を御馳走しますよ」


「分かった。受けて立つわ」

 来週、この部屋で絶対にこの男を屈服させてやるのだとエレオノーラは固く決意したのだった。






 元来たように通路を通って、こっそりと自分の部屋に戻った。何食わぬ顔で次の教育係の授業を受けようと思っていたら、あの侍女が、


「姫様、本当にどちらにいらっしゃったんですか!? どこを探してもいらっしゃらないから、攫われてしまったかと思いました」


 攫われたとは言い得て妙だと思った。戻ってしまえばなんてことはないけれど、まるであの部屋は不思議の国のようで、ギルベルトはその国の主のようだった。それもとびきりいじわるな。


 研究官、というものが分からなかったから授業の時についでに聞いてみた。


「ああ、あれはですね……」


 政務官や補佐官と違い、文字通り研究を専門とする職に就くものをそう呼ぶらしい。実際の政策の元になるようなもっと基礎の研究や資料集めをする人達。ということはギルベルトも何か研究をしているのだろうか。あの部屋に山ほどあった本はその研究に関するものなのだろうか。


「けれど、(まつりごと)の中心はあくまで我々政務官ですから」


 そういえば、この教育係は元政務官だった。


「研究官なんて」

 たっぷり一呼吸おいてから、教育係は続けた。


「補佐官にすらなれなかった者のなれの果てですよ。日がな一日、部屋で研究しているだけの根暗な連中の集まりです。姫様がご興味を持つような人間ではありません」


 その言葉に潜む侮蔑の匂いに、エレオノーラが気付かないわけがなかった。なんだろう、そんな言い方をされるともやもやする。


 自分だって似たようなことを思っていたくせに、他人がそう口にすると嫌なのだ。だって、あんなギルベルトは魔法のようなお茶を見せてくれたのだ。けれど、それを口にしてしまったら授業をさぼっていたことがバレてしまう。


 わたしはなんて自分勝手なんだろうと、エレオノーラは一人こっそりと落ち込んだ。


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