8.初恋泥棒
王宮に秘密の通路というものがあるのだと教えてくれたのは兄だった。
いつものようにふらりとやってきて、「面白いものがあるからついておいで」と片目をつぶってみせた。掴み所のない彼が語る内緒ごとはそれだけで十分に魅力的に見えた。
通路には、もちろん非常時に王族が逃げるためのものもあるし、もっと他の目的のものもある。
フェリクスはおそらくその大半を把握しているようなのだが、エレオノーラが知っているのはごく一部だ。壁の絵や調度品をずらして、決まった順番にタイルを押すことでそれは現れる。
今歩いているのは、他の目的のために作られたものだ。
なんでも何代か前の王が女官に恋をして、秘密裏に会いに行くために作ったものだとか。そんなことのために、と思わないこともないけれど自分も似たようなことをしているのだから人のことは言えない。
通路は薄暗くて灯りが欠かせない。手を突けば、石造りの壁はひやりとしている。一歩踏み出すごとに不安が込み上げてくるのは、この闇のせいだけではないだろう。
この道を通るのは久しぶりだった。
幼い頃は、勉強をするのが嫌でよくこの通路を使った。授業を抜け出しては、庭で木に登ってみたり厨房でお菓子をつまみ食いしたりした。
反響する足音を聞きながら、エレオノーラは思い出す。
何度も何度も、この道を歩いた。
研究棟と呼ばれる建物だと知ったのは、そこを見つけて少ししてからだ。人の出入りが盛んで活気に満ちている政務棟と違って物々しいそこは、侍女から隠れるにはうってつけだった。
その中でも、一際人が立ち入らない部屋があった。
なんだか不思議な空気が満ちていて、知らない世界にでも通じていそうな扉。
開けてしまうのは、少し怖かった。
「姫様、どちらですかー?」
けれど、探し回る侍女の声がして、エレオノーラは思わずドアノブに手をかけた。足音は多分、もうすぐそこだ。
「お願い、わたしを隠して」
長身の背にさっと隠れた。おそらくこの部屋の主であるその者はとても背が高くて、エレオノーラは肩にも届かなかった。
「俺に何か用がおありですか?」
こつんと頭を置いた背中の内側から、声が聞こえる。不思議な響きのある、低い声だった。
「話しかけないで。とりあえず、わたしを隠して! 誰か来たら王女はいないって、言って」
黒いローブの裾をぎゅっと握って俯いた。広い背は、その後ろにいるだけでなぜだか守られているような気さえする。
ちらりとこちらを見た気配がしたけれど、それ以上、彼は何も訊ねてこなかった。
ゆっくりとまた扉が空いて、恐る恐る誰かが問いかけてきた。
「あのお、王女殿下はこちらに」
間違いない。エレオノーラを探していた、あの侍女だ。
「そのような方はいらっしゃいませんよ」
淡々とした声で、彼は返事をする。
「おかしいな……絶対こちらに来られたはずなんです。もう少し探して」
「仕事の邪魔になるので、騒々しくしないでいただきたい」
ぴしゃりと遮るように、強い調子で彼は言う。その声は随分と冷たく響いた。
「わっ、分かりました。お邪魔をしてしまい、申し訳ございませんでした……」
何も見えないけれど、侍女の声は怯えているようだった。そのまま、そそくさと逃げるように部屋から去っていく。
「さて」
くるりと彼が振り返った拍子に、長めの前髪が揺れる。切れ長の緑の目が、その合間から覗いた。
思わず、息を呑んだ。
「あっ」
一目見たら、三日は忘れられないだろう。できれば夢でも会いたいぐらいだ。それぐらいの本物の美形だった。
こんなかっこいい人に、エレオノーラは今まで王宮で出会ったことがなかった。
「こちらにいらっしゃるのはどなたでしょう」
まるで頭の上から突き刺さすような視線で、彼はエレオノーラを睨む。なるほど、侍女が怯えていたのはこういうことだったのか。
「わたしが誰かも分からないの?」
この王宮にいてエレオノーラのことを知らない者などいないだろうに。
「わたしは、エレオノーラ王女よ」
「ほう」
ぴくりと、その眉が動いた。緑の瞳は僅かに細められて、じっとこちらを見る。まるでその目ならエレオノーラの心の中だって見透かせそうな、謎めいた目だった。
「王女殿下、なんて方はここにはいらっしゃらないはずですが」
すっとそっぽを向いて宣言するように彼は言う。
やられた。咄嗟にそう思った。
確かに「王女はいないと言って」とは頼んだ。頼んだけれど。なんて性格が悪い人なのだろう。
どこからどう見ても整った顔立ちをしているのは事実なのだが、こんな風にしていたらむしろ凄みが増すだけで逆効果だ。
前言撤回だ。こんなやつが夢に出てきたらたまったものではない。
「なんですって」
心の底からカッチーンときた。なんというか、このきれいな顔がぎゃふんとなるまでは帰れない。
「あなた、お名前は?」
「人に名を訊ねるのならば、まず自分から名乗るのが道理かと思いますが」
いちいち言うことが嫌味だ。兄ならもっと、優し気に微笑みかけてくれるのに。
エレオノーラは背筋を伸ばして、長身を見上げた。
「エレオノーラ=アーヴィングです。以後お見知りおきを」
腹が立つので、ちょこんとドレスの裾を摘まんでカーテシーまでしてみせた。これなら、どうだ。
対する彼もまた、見本のように美しい礼をした。その所作も言葉遣いも、全てが丁寧で洗練されているのだが、その分だけ癇に障る。
「ギルベルト=エインズレイと言います」
静かな声はそう名乗った。なんだか濁点の多い小難しい名前で舌を噛みそうだ。けれど一生この名前を忘れてなるものか、そう思った。
ギルベルトなる人物は、ポットを手に取り茶葉を計り始めた。侍女もびっくりするような、手慣れた仕草だ。
そして、椅子に座り直すと、さっきまでそうしていたのだろう。書類に向かい始めた。ちゃんと蒸らしてから淹れるらしい。
エレオノーラのことは完璧に無視、である。
用意されたカップも当然のように一人分である。
「わたしの分のお茶はないの? 気が利かない人」
「そもそもこの部屋にはカップが一つしかありません」
「わたしを一体誰だと」
こんな扱いを、エレオノーラは未だかつてされたことがなかった。王宮を歩けば、皆「姫様」と傅いてくれた。向けられる敬意を、当たり前のものだと思って受け止めてきたのに、これはなんだろう。
「俺は研究官であって、子守りではありません」
ギルベルトは書類から顔もあげずに応える。手元は止まらずにさらさらと動いて、何か難しそうなことを書き続けている。
「お世話が必要なら先ほどの侍女の方をお呼びしましょうか?」