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5.実家と女主人

 遠いというほどの距離ではないが、ギルベルトはほとんど実家には帰らない。


 仕事が忙しいからという口実は、出世をするたびに真実味を帯びていった。思い出さないということはないが、しなければいけないことが山のようにあっていつの間にか足が遠のいた。


 山ほどの土産といくらかの金を持ってくぐった生家は、大して懐かしさを感じなかった。十五歳までこの家で過ごしたというのに。


 屋敷は人を、特にその家の差配をする女主人をよく表すという。


 磨き上げられた柱も床も、温かみのある色のカーテンも、全てがここに暮らす者、訪れる者にとって居心地がよいように整えられていると分かる。


 だから、ここに息が詰まる感じを覚えてしまうとしたら、多分自分の側の問題なのだろう。


 手ぶらで帰っておいで、と弟も母も言う。けれど、ギルベルトにはそれができない。


 手ぶらで帰るとしたら、ここに帰ってくる理由はなんだろう。

 例えば土産を渡すという大義名分なしに、ギルベルトは自分がこの家の門をくぐれる資格があるとは思えなかった。


「ごめんなさいね、ギルベルト。あなたは忙しいでしょうに」


 久しぶりに見た母は随分と小さくなった気がして、しかしながらこんな人だったような気もした。つまりは記憶が曖昧だということだ。


「お加減は」

「大したことはないのよ。またアルが大袈裟に言ったんでしょう」


 確かに弟から来た手紙には今にも母が死にそうだというような文言が並んでいた。それから比べれば、目の間にいる人は元気そうに見える。


「きれいな花ね」


 母が目を留めたのは、花束だった。ギルベルトが選んだ、最高級の絹のショールでも庶民の口にはなかなか入らない砂糖をふんだんに使った菓子でもなく。


「あなたが選んでくれたの?」

「ああいえ、そうではなくて」


 選んだ人そのままの色鮮やかな花束は、己が持つに似つかわしいとは到底思えなかった。


 けれど、真っ直ぐな青い瞳がきらきらとこちらを見つめてくるものだから断るのも気が引けて、結局持って来てしまった。昔からギルベルトはあの目に弱いのだ。


「王女殿下が、是非にと」


「まあ、なんて素晴らしい方なのかしらね」

「素晴らしいといえば……素晴らしいですが」


 その形容詞は、エレオノーラを表するにはいささの違和感がある。


「危なっかしいしほっとけないしお転婆は収まらないし、()はあの方がいるとちっとも気が休まらなくて、ああ、でも本当に可愛らしい方で」


「ふふふ」


 そこまで一息に話してしまったところで、母が声を立てて笑った。やわらかに細めた目元に皺が寄る。


「あなたのそんな顔、初めて見たわ」

 この今、俺は一体、どんな顔をしていたのだろう。


「このお花、あなたも少し持って帰りなさい。お部屋に飾るといいわ」

「ですが」


 これはエレオノーラが母のために選んだものだ。それを、自分がかすめ取るようなことをしていいのだろうか。


「大切な人がくれたものがそばにあるというのはいいものよ。だから、ね」


 母の指先が、そっと丸い花びらを撫でる。侍女に花瓶を持って来させた母は、自らその花を生けた。


 そこから先は、得意ではないのだが当たり障りのない世間話をした。時折話題に困ってエレオノーラの話をすると、母はまたとても嬉しそうな顔をした。


「いつだって、帰ってきていいのよ」

 あまり長話をしても体に障ると思い部屋を後にする時に、ふと母が言った。


「だって、ここはあなたの家なのだからね。ギルベルト」


 ギルベルトはここの他に、家と呼べる場所はない。この人が整え続け、守ってきたこの家以外に。


「はい」


 だから、こう応えた自分は何も間違ってはいないだろう。ただ何とも言えずちくりと刺さるような罪悪感だけが喉に残った。






「おじうえ」


 ぱたぱたと駆けてくる子を抱き上げる。ついこの間生まれたような気がしていたのに、もう走っているとは。人の子の成長は早い。


「大きくなったな、ブライアン」

 その後ろから駆けてきたもう一人がぺこりと頭を下げた。


「おひさしぶりです、おじうえ」


「セドリックも久しぶりだね」

 今度はこちらの頭を撫でる。


 よく似た黒髪の兄弟は、ほとんど顔を見せないわりに自分にも懐いてくれている。きっと弟がいいように話をしてくれているのだろう。子供はあまり得意ではないが、彼らは可愛いと素直に思えることに安堵する。


「兄さん」


 アルベルトはギルベルトの三つ年下の弟だ。年上の妻と早くに結婚して子を儲けた。今はこのエインズレイ家の家督を継いでいる。


「すみません。忙しいのにお呼び立てしてしまって」

 申し訳なさそうに弟は頭を下げる。


「構わないよ。母上の顔が見られてよかった」


 弟が手紙を出してくれなかったら、あとまた三年程度はこの家に寄りつかなかった気がする。


「お加減は、どうなんだ?」


 そこまで悪いようには見えなかったが、たまに会うだけのギルベルトの前で母が弱音を吐くとは思えない。


「今日は兄さんがいるからか調子がよいみたいです。ただ無理をしがちな人なので」

「そうだろうな」


 それは自分がこの家にいる頃から少しも変わっていないらしい。必要なものがあれば何でも届させると、ギルベルトは弟に言った。


「おじうえ」

 兄の方が、ギルベルトの服の裾をくいくいと引っ張った。


「どうかしたかい、セドリック」


「おじうえはどうしてけっこんしないのですか」


 それを聞いて、弟が鳶色の目をぱっと見開いた。顔色が悲痛とも言えるようなものに変わる。


「セド!」


 鋭い声をあげるアルベルトを手で制した。今度は代わりにセドリックを抱き上げる。彼は五歳になったはずだ。なかなかにしっかりとした重みを腕に感じる。


 大方エインズレイ家を訪れた者の誰かがそんな話をしていたのだろう。子供は思いの外、大人の話を理解しているものだと聞いたことがある。


 ギルベルトはその問いには答えなかった。


「君達の幸せが、私の幸せだよ」

 これはギルベルトの本心だ。


 そう言うと、セドリックはにこりと笑った。


「さあ。向こうにお土産を置いてあるから、もらって来なさい。ブライアンと仲良く分けるようにね」

「はい、おじうえ」


 兄弟は手を繋いで、廊下を駆けていく。そういえば、昔はよくこの廊下でアルベルトとかけっこをした。


 自分と弟も、こんな風に見えたのだろうかとぱたぱたと走る小さな背中を見ながら思う。


「兄さん、ぼくは」


 けれど、決定的に違うことがある。ギルベルトとアルベルトは母を同じくしていない。これは自分達の間に歴然と横たわる事実である。


「気にすることはないよ、アルベルト。本当のことだ」


 十代のうちにほとんどが結婚する貴族女性ほどではないが、男でもこの歳にもなれば妻帯していなくとも婚約者ぐらいはいるのが普通ではある。


「けれど……兄さん」


 アルベルトの声には拭い切れない後悔が滲んでいた。兄である自分を差し置いて家督を継いだことを彼がずっと気にしていることを、ギルベルトはよく知っている。


 けれど、それは今更変えられるものでもない。


「さて、申し訳ないがそろそろ失礼するとするよ。今王配選びの任を拝命していてね。滞ると国王陛下にもご迷惑が掛かる」


 何かを言いかけた弟がぐっと押し黙る。当然だ。そうなるように、わざわざ陛下の名前を出したのだから。


「お時間をいただき、ありがとうございました。お気をつけて、兄さん」


「お前も、体に気を付けて」


 それ以上何を言えばいいのか、ギルベルトには分からなかった。

 だからきっと、弟もそうだろう。


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