とある政務官の屈託:3.自分の役割
一般的に頭がいいと言われる資質にはいくつか種類がある。
一番分かりやすいのは記憶力だ。これがあると知識量が圧倒的に増えるからだ。次に情報処理力。山のように知識があっても使えなければ意味がない。
この二つは、補佐官以上の地位の者は、一定の水準にあると思っていい。
ギルベルトも無論これについては問題ない。特に記憶力は良いようで、人が言ったことを全て暗唱できそうなほどだ。
しかしながら、それだけでは仕事は立ち行かない。
「ギルベルト」
「はい、何でしょう」
いつものように淡々と白の騎士を動かしながらギルベルトは返事をする。ちなみにこれで五戦目になる。
「君のところの補佐官たちが次々に配置換えを願い出ているのだが、どうしてかな」
ランドルフは黒の僧正でそれに応える。
「ですから、俺には政務官は務まらないと申し上げたはずですが」
「私はどうして、人に仕事を振らないのかと聞いているんだけれどね」
補佐官を通り越していきなり政務官にしたのだ。当然やっかみはあるだろうし、自分より年下の者に就くのを嫌がるのも分かる。だから、それについては注意深く見ていたつもりだった。
仕事の出来は問題ない。思っていたより、うまくやっている。
けれど、事態はランドルフが想定したのとは違う様相を呈していた。
ギルベルトは補佐官にほとんど仕事を回さないのだ。
ゆえに、手持無沙汰になった補佐官たちがランドルフのところに訴えに来た。これでは自分たちがいる意味がないと。その中にはアーノルドもいた。
ギルベルトは何も答えない。
「今は昼休みだ。個人的な意見を言っても、構わないよ」
「皆、俺よりたかだか五年か十年早く生まれただけでしょう。俺がやれば十分で終わることに一時間も二時間もかけている。自分でやればその分早く終わります」
なるほど。そうきたか。
おそらく彼としては思っていることをそのまま口にしただけなのだろう。
「例えば、アーノルド補佐官は書類仕事に些か不備があります。人に作らせた資料が本当に確かなのかを確認する方が時間がかかる。自分で作った方が早い」
そして、その認識自体は間違っていない。
「ふむ」
ランドルフもそういうことを思ったことが全くない訳ではなかった。別に天才でなくとも感じたことはあるだろう。世の中全員がばかに見えて仕方のないお年頃というやつだ。
ギルベルトは、入力と出力のバランスが恐ろしく悪い。
頭の回転がいいから、彼は多くのことに勘づき、理解し、学ぶ。
けれどそれをうまく伝える術をギルベルトは持たない。だからああいう、どうしようもなくひねくれた物言いになるのだと思う。
他人と距離を取りたがるのは、彼なりに調節している意味もあるのだろう。そしておそらくそれは彼の家庭環境にも原因の一端がある。ギルベルトは殊更、実家で自分を抑えてきたようだ。
何も気づかない子なら、ない悩みなのかもしれない。
まあ、だからといって、このままでいいとはランドルフも思わない。「不器用だから」が免罪符になる季節はもう、終わりつつある。もう少し何とかならないものか。
人はそう簡単には変われない。ランドルフとて、見て見ぬフリをしている悪癖のひとつや二つある。けれど、このままではギルベルトはあまりに生きるのに苦労するだろう。
ここからは、彼には新しい視座が必要だ。
「ギルベルト。君は歩兵を使うことなくチェスで勝つことはできるかい?」
ランドルフが尋ねるとギルベルトは怪訝そうに眉を顰めた。怜悧な顔には分かりやすく「ばかじゃないのか」と書いてあるが、口にはしなかった。
「思ったことを言ってごらん」
「歩兵なしでチェスで勝てるはずがない。これをどう使うかで戦略が大きく変わるのに」
「その通りだ」
歩兵は最も弱い駒だ。基本的には一マスしか進めない。
しかし、駒の半数を占めている。その価値は「チェスの魂」とも呼ばれるほどだ。
「人にはそれぞれ役割がある。歩兵には歩兵の、騎士には騎士の。それはそれぞれ異なるというだけで、優劣はない」
誰もが誰も、政務官になれるわけではない。補佐官にすらなれずに終わっていく者は多い。
けれど彼らなしには成り立たない。組織とはそういうものだとランドルフは思っている。
「君ができることを全員が出来る必要は無い。我々は組織だ。この王宮には、百人以上の文官がいる。いくら君が優秀でも、文官百人分の仕事はできないだろう?」
さすがにそれは無理だと思ったのだろう。ギルベルトは押し黙った。
「君が無能と切り捨てたものを使いこなせるようになれなければ、所詮その程度の人間ということだよ、ギルベルト」
そして、有能無能の判断は非常に難しいものだ。絶対的なものではなく、それは環境によって大きく変わる。
ランドルフは、ギルベルトの陣地の一番奥に歩兵を置いた。これでこの歩兵は女王と同義となる。
「さて、君の王は逃げ場を失った」
いわゆる詰みである。
「何か異論があるなら聞こうか」
しばらくの間、緑の目はじっと盤を見つめていた。けれど諦めたように、一つ大きく息を吐いた。
「……いえ、ありません。ありがとうございました」
ギルベルトは静かに一礼して椅子から立ち上がった。いつものようにただぎゅっと左手を握りしめていた。
それからしばらくの間、ギルベルトはまた淡々と仕事をしていた。態度に劇的な変化はなかったが、それでも大きく波風を立てることは避けたようだった。
変わったのは、託宣の儀式の後だ。
これは王太子を決めるためのもので、王宮中、いや国中の関心事でもある。
儀式によって、次期国王はエレオノーラ王女殿下に決まった。
ランドルフとしては複雑な気分であった。
彼女が悪いといっているわけではない。ただ、兄弟を差し置いて女王になるのはなかなか苦難の道だなと思ったのだ。
けれど、選んだのはまさしく神である。ランドルフとてどうしようもない。
ギルベルトは儀式から三日ほどぼんやりとしていた。世の中のことなど何も気にしていないように見せる孤高の天才も、この時ばかりは書類を逆さに置いたまま気づかなかった。そのまま器用に記載していたところは見事だった。
それでもチェスに挑んでくることは挑んでくる。
ただ圧倒的にキレがなかった。様子も全体的に殊勝だ。
「ギルベルト、どうかしたのかい」
訊ねたところで「何もありません」とすぐ返事がくると思ったが、ギルベルトは長い前髪をぎゅっと握りしめてしばらく考え込んでいた。そして、おもむろに口を開いた。
「閣下は『人にはそれぞれ役割がある』と仰いましたね」
「言ったね」
「……俺にも、役割があるのでしょうか」
彼は多くのことを考えている。けれどその半分も口にしない。
だからこれは非常に珍しいことだ。
「俺でもちゃんと、誰かの役に立てるのでしょうか?」
いつも淀みなく流れるように話すのに、ギルベルトには珍しく小声で呟くように言った。
そして動かすわけでもないのに、その手で女王の駒に触れた。
盤上でもっとも強い駒。
まるでそれが宝石か何かで出来ているかのように、そっとそれを撫でる。
緑の目は、窓の向こうを見つめていた。そこには一本の大きな木だけがある。それは少し前に王女が登ってギルベルトを呼び出した木だった。
王女と、女王は違う。
その意味がギルベルトに分からないわけがない。その上で彼は悩んでいる。
「立てる」
この時、ランドルフは確信した。
ランドルフはまだ、自分の跡を継ぐ筆頭政務官を決めていなかった。頭の中で逆算する。
六年、六年だ。
「前にも言ったが、君は優秀だよ。頭の使い方を覚えれば、なんにでもなれる」
政務官として三年、筆頭として三年。
それだけあればこの男は国を背負うに十分な人材になるだろう。 探し続けた者と、やっと巡り会えた。その思いでランドルフはいっぱいだった。
「そうですか」
きっとこの時ギルベルトは見つけたのだと思う。
人が生きていくには、信じるべき芯が必要だ。自分の中に一つそれがある者は強い。言い換えれば、神と呼んでもいいぐらいだ。
例えばランドルフが何を言っても、それがなければ彼は、本当の意味では飲み込めなかっただろう。
「分かりました、やってみます」
野良犬の目に光が宿った。その瞬間を宰相は目の当たりにしたのだ。
ランドルフ閣下は至高のイケおじで、バチバチの愛妻家。なお、文官が選ぶ理想の上司ランキングで五年連続一位になり、殿堂入りしております。