40.戴冠
「愛しています、エリー」
ずっと呼んで欲しいと願い続けた愛称を、ひどく大切に彼はなぞる。
ああ、いつもそうだ。
出会った時からずっとだ。この人はわたしの心を返してはくれない。
飾り気のない言葉は、何よりもギルベルトの思いを伝えてくる。
いつも通り、反論の余地もないほど考え抜かれた正論とそれでいて本心の織り込まれた、ギルベルトらしい論理だった。
「何かご意見があるなら、お伺いします」
すっと立ち上がったギルベルトが言う。
その涼やかな顔には、愛の告白の情熱の名残は少しも見受けられなかった。
「そ、そうよね」
そこでやっとエレオノーラは、自分が何の返事もしていないことに気が付いた。
「本当にわたしで、いいの」
「ええ」
再びギルベルトを見上げるようにして、エレオノーラは言う。
「わたし、その、結構めんどうくさがりなんだけど」
「存じ上げております」
「朝すごく弱いから、大体起きられないんだけど」
「私が、朝議に遅れた殿下を何回起こしに伺ったとお思いで」
「部屋とかも、あんまり、片付けられないんだけど」
「私は整理整頓の類が苦手ということはないので、問題ないかと」
エレオノーラの問いかけの全てに、ギルベルトは淡々と返してみせた。
生きているだけで、ずっと奪っていると思っていたもの。その全てを、与えられたと彼が言ってくれるのなら。
わたしはここにいても、いいのか。
「できれば、私を二度も振られた男にしないでいただけるとありがたいのですが」
どんなに平坦な声をしていても、これが照れ隠しであることぐらいエレオノーラにだって分かる。
「そこまで言うのなら、仕方ないわね」
握られたその手をエレオノーラは、握り返した。この人とともに在ると、心を決めるように。
「さて、式の時間が迫っています。急ぎましょう」
しなやかな腕は恭しく、それでいて力強くエレオノーラを導いてくれる。
「せっかくしてもらったお化粧が台無しね。侍女に怒られちゃう」
「殿下がお泣きになったのは私のせいでもありますから、ご一緒に謝罪させていただきます」
「ギルが一緒なら怖いものなしね。行きましょうか」
この手を握っていれば、たとえ全力疾走しても転ぶことはない。そんな気がした。
白のドレスの上に、赤のマントを羽織る。
向き直る祭壇の奥のステンドグラスに描かれているのは、聖堂と同じ神話の風景だ。けれどこの教会のものは、場面が違う。
青い空と赤く泉、そしてその前に立つ王と泉の神様がいる。
王のマントと教会に広く敷かれた青い絨毯は、そのままそれを模していると言われている。
初代王の頃から使われている黄金でできた玉座の椅子の前に、エレオノーラは立つ。すると高位神官は、その者が神に選ばれた紛うことなき王であると宣言する。
宣言が終われば、エレオノーラは「王位継承の誓い」を述べる。
そっと、首元に手をやった。
振り返ることなどできない。ここに座れるのはエレオノーラ一人きり。
けれど、それが指先に触れればもう、不安はなかった。ここにはちゃんと、エレオノーラのお守りが確かな緑の光で輝いている。
「この血と、わたしをお選びになった神に、我が役目を果たすことをここに誓います」
一つ大きく息を吸った。
「わたしはこの誓いを守り、果たします。神よ、力を与えたまえ」
聞こえるのはただ、己の声のみである。天井の高い教会に、吸い込まれるように響く。
そのまま、玉座の椅子に座った。兄も弟も、神妙な顔をしているのが見える。
父が、王冠を持っている。
戴冠式に使われる王冠は初代王のもの。王であっても、この王冠を被るのはただ一度だけだ。
静かに王冠を掲げる父の目が、僅かに細められた気がした。
頭を垂れて、それを戴く。この重さはそのまま、王の責任の重さだろう。
エレオノーラが立ち上がるとともに、教会の鐘が鳴らされる。
それが鳴りやんだ瞬間に、割れんばかりの拍手が降り注ぐ。
人々が繰り返す称賛の言葉を、新しき女王は一心に受けて微笑んだ。皆をくまなく見つめたあと、エレオノーラは女王としての一歩を踏み出す。
そして、誰よりも先んじてギルベルトがエレオノーラの前に歩を進める。その目は、ただ静かにエレオノーラを見つめるだけだ。
ステンドグラスの光を受けて眼前に立つ男が、この世界で一番美しいと思った。
流れるように右足を引いて跪き、彼は両手を床についた。もっとも敬意を示すという、この礼。
「私、ギルベルトは、陛下に生涯をかけてお仕えし、敬い、忠誠を尽くすことを誓います」
エレオノーラはそれに対し、ただ右手を差し出すことだけで応える。ギルベルトが、その手の甲に口づけを落とし、王の伴侶としてともに立ち上がる。
二人手を取り合って、向かって進み出す。開かれた教会の扉から、晴れ渡った青い空がよく見えた。
隣を見上げれば、長身の男は、彼には珍しくひどくにこやかに微笑む。
「ギルベルトが心の底から幸せそうに微笑んでいるなんて、今日は槍でも降るんじゃないかな」
そんなフェリクスの声が聞こえた気がしたけれど、それはさすがに気のせいだったのかもしれない。
* * *
アーヴィング王国第十二代国王、エレオノーラの功績として一番に挙げられるものとしては、託宣の儀式の廃止が挙げられる。
それまで次代の王位継承者はこの儀式によって選ばれてきたが、彼女はその任命権を王家の元に戻した。無論、教会からの反発は強くあったが、その際にエレオノーラが口にしたとされる「神が王を選ぶのではない。人が王を選ぶのだ」という言葉はあまりにも有名である。
その後も、彼女は「教会は我らの隣人である」とし、良好な関係を築いた。
対するその伴侶に関して。
ギルベルトは常にエレオノーラの傍を離れず、その献身的な様からしばしば「女王の番犬」と揶揄されることもあったが、女王との仲睦まじい様子を賞賛されることの方が多い。
彼が積極的に取り組んだ事柄としては官僚制度の充実が挙げられる。自身も研究官であったギルベルトは、補佐官の指名制度や政務官の在り方について先進的な改革を行った。
女王の晩年を支えたのは、彼が新しく定めた文官登用制度によって採用された、以前であれば文官になどなり得なかった者たちであったとされる。
長く繫栄したエレオノーラの治世を、人々は《黄金の時代》と呼んで称えたという。
血を水で乗り越える話。
ということで、本編完結です。
エレオノーラとギルベルトを最終話まで見守っていただき、本当にありがとうございました!!
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ちょっとばかし番外編(ギルベルトの政務官時代の話とか)も鋭意制作中です。
よろしければもう少しお待ち頂けると嬉しいです。
次話に表紙イラストを掲載しております。




