39.告解
長身が屈んで、エレオノーラと目線を合わせるようにする。
大きな手が、エレオノーラの頬に触れる。
見つめ合えば、切れ長の目元がふっとやわらかくなって、男は微笑みかけてくる。普段は決して見せない、エレオノーラだけに向けられた微笑み。
髪と同じ色の睫毛が、すべらかな頬に影を落としていて彫像のように美しい。
ここまでは、想像と寸分違わなかった。
けれど、エレオノーラは微動だにできなかった。頬に触れる手が熱い。いや、熱いのは自分の方か。それすらもう、分からない。
これからギルベルトが何をしようとしているかは、分かっていたのに。
静かに長いまつ毛が伏せられていく。
そして、唇が唇に触れた。
「なに、これ……」
時間にすればほんの一瞬だったはずだ。けれどそれが永遠のように長く感じた。
「キスですが」
無意識に手が口元に伸びていた。
何が起こったかは、頭では理解できる。ただまだ心が追い付いてこない。
「えっと、スズキ目スズキ亜目キス科に所属する魚類の総称。学名はSillaginidae」
「そちらのではありません。あと、いつの間に学名をお調べに」
別にエレオノーラだって好きで調べたわけでない。
「あなたのせいじゃないの!」
「それは、申し訳ございませんでしたが」
「どっちのなんだっていうのよ」
「これは、そうですね……」
ギルベルトはすっと目を逸らすと、彼にしては珍しく小声で言った。
「恋人同士でするやつ、です」
黒髪から覗いた耳が、僅かに赤い。
「えっ」
同じように、エレオノーラも強請った。恋人同士のキスがしてみたいと。
「そんなわけない。ギルがわたしのこと、そんな」
だって、あの時彼は応えてはくれなかったじゃないか。
ギルベルトはただ肯定するように静かに頷くだけだ。
「だったら……!」
ぐっと、ドレスのスカートを握りしめる。白いドレス同じぐらい真っ白になる自分の手。
「なんで。なんで、もっと早く教えてくれなかったの」
ああ、こんな風にしては皺になってしまうと思うのに、それでも力が入っていくばかりだった。
もっと早くに彼がヴェルデだと分かっていれば。そうすれば。
「俺だと分かっていたら、どうされましたか?」
そう問うてきた声には自嘲するような響きが混じっていた。弾かれたように顔を上げれば、裏腹にその目は静かなものだった。
「すみません。意地の悪いことを言いましたね。俺は心からあなたを」
眩しいものでも見るように、ギルベルトは目を細めた。
「言わないでっ」
これを聞いてはいけない。エレオノーラは必死で頭を振った。
確かに、その心が欲しいと思った。どんな宝石よりも、黄金よりも、ギルベルトの心が欲しかった。
けれど、エレオノーラは強いたのだ。
忠誠も、人生も、捧げさせた。
それでもまだ、ただ一人の人として愛されたいと願うのは、あまりにも過ぎている。
「わたし、まだあなたに何も返せてない。ずっと、あなたから奪ってきた」
守ってもらった命も、支えてもらった日々も、何もかも。
これから先、返せるとも到底思えないのに、その上心まで与えられるとしたら。
「だから、だめよ」
長い指が、エレオノーラの頬に触れた。
「もう十分に返してもらいましたよ」
その手が流れた涙を拭っていった。自分が泣いていたことにも、エレオノーラは気づいていなかった。
「俺の話を聞いていただけますか」
力んで冷えた手に、ギルベルトは包み込むように触れる。そのまま、彼はエレオノーラの前に膝を突いた。
エレオノーラは彼に、話をするように言った。
だから、これを拒むことはできない。彼はそれを分かっていて、今こう口にしたのだ。
「家族の時と、同じです。俺はずっと、あなたから逃げていました。自分に都合のいい、上澄みの自分だけを見せていました。そうやって、何も知らない無邪気な女の子に尊敬されていたかった」
ギルベルトは訥々と言葉を紡ぐ。
「俺を必死で慕ってくるあなたが、可愛くて仕方がなかった。だから現実のみっともない自分を、知られたくなかったんです。けれど、あなたはもう十分に大人で、きちんとものを考えられるようになっていた。俺の甘えを見透かして、ちゃんと断れるぐらいに」
「そんなこと、ない」
エレオノーラが少しでもものを考えることができているとしたら、それはギルベルトがいたからだ。
この人がそれを教えてくれなければ、自分は今もお飾りの王女のままだっただろう。そもそも、生きてすらいない。
「そんなこともあるのですよ、姫様」
いつもは見上げるばかりの緑の瞳に見上げられるのは、何度体験しても不思議な気分だ。
「殿下。あなたは私に『結婚してもへいき?』とお聞きになりましたね」
ギルベルトはそう言って、遠くを見るような目をした。
「結論から言えば、俺は、全くもって平気ではありませんでした。ずっとあなたを俺だけのものにしたかった。他の誰にも渡さないで、いっそどこかに隠してしまいたかった」
そんな執着を、ギルベルトは一度だって覗かせたことはなかったのに。
「ヴェルデは俺の弱さの象徴そのものでした。だからあなたには言いたくなかった」
彼があの仮面の向こうに隠していたもの。冷徹宰相の裏にあった、本心。
だとしたら、ギルベルトがこの今、これを晒す意味。
「けれど、どうしても訂正したいことが二つほどあったので」
「なによ、それ」
そこまでして訂正したいようなことなんて、なんだろう。
「レオニダス殿下の話を聞いていて、思い出したことがありました。俺もずっと、あの方と同じことを考えていました。まかり間違えば、俺だって弟を殺そうとしていたかもしれない」
落ち着いた低い声が、僅かに掠れて揺れる。
「そんなこと……」
そんなこと、ギルベルトがするだなんて到底思えなかった。エレオノーラの目を見て、彼は首を横に振った。
「自分から遠ざけたくせに、生まれた家族に愛されているあいつが、ずっと羨ましかった。俺とこいつの一体何が違うんだろうって、ずっと思っていたんです。けれどいつからか、そういうことを考えなくてすむようになった」
それほど強い屈託を抱いていた彼を救ったもの。
「エレオノーラ殿下、あなたがいたからです」
「わたし……?」
緑の目が、エレオノーラを真っ直ぐに見る。その目は、嘘偽りのない確かな光を宿して輝く。
「可愛くて小さくてか弱くて、俺がお守りしなければとずっと思っていました。でも違うんです。あなたがいなければ生きていけないのは俺の方でした」
まただ。ギルベルトの目の中に、自分だけが映っている。
「まず俺は、惚れてもいない女のために命を懸けるほど、暇ではありません」
これが、一つ目。
「あなたは何も持たない人ではない。何も奪ってなんかない」
握られた手の力が、少しだけ強くなる。彼の心の内をそのまま映し出すように。
「わたしは、あなたが懸けた命に、見合う?」
エレオノーラを守るために、ギルベルトが流した血と、その命。
そしてこれからも彼が、エレオノーラに差し出すもの。
何度も何度も、繰り返し考えた。
何を考えれば、どう生きれば、それに見合うことができるだろう。
「見合う見合わないを問う意味はない。あなたがいなければ、今ここに俺はいないのですから」
ギルベルトが生きるために必要とした何か。辛い時に思い出して、心の拠り所になるようなもの。
聖堂で問うた時、ギルベルトには確かにそれが見えていた。
「あなたは俺の光で、生きている意味そのものです」
彼が信じた神様が何だったのか、やっと、エレオノーラにも分かった。孤独の中でずっと、ギルベルトは祈り続けてきたのだろう。
これが、二つ目。




