29.相手の領域
「で、二人で見事レオを懐柔するのに成功したわけだ」
フェリクスは物珍しそうに紫色の目を細めて微笑んだ。
「懐柔というか、レオニダスに『次期女王の首が飛ぶところをその目で見ませんか。お待ちしております』的な手紙を大神官に宛てて書いてもらうことにしたの」
教会は、王太子の婚姻の際には祝福の使者を寄越すことになっている。父の時に現れたのは高位神官だったそうだが、大神官がその任に当たることもないわけではない。
そうして相手側が出てきたところを叩く、その算段だった。
「エリーらしい対応だね」
「何もレオニダス殿下にお願いしなくても私が筆跡を真似て書けばいいだけの話なのですが。暗号の解読も済みましたし」
この男はそんなこともできるのか。
「にしてもすごいわよね、ギル。あんな一瞬で暗号を解いちゃうなんて」
あの時、彼は机に置かれていた紙を見てすぐさま暗号を解いて見せた。やはり常人とは頭の出来が違うのかもしれない。
「ああ、あれははったりです」
落ち着き払った顔をして、ギルベルトはそんなことをのたもうた。
「え、うそ。でも『教会側に助力を乞う』って」
「あのタイミングだとそのような内容しかないかと思いましたので。それに、具体的なことは何も申し上げておりませんし」
「そうなの?」
どちらにしてもすごいことには変わりない。自分には到底できない芸当だ。ギルベルトはあんなに近くにいたエレオノーラにさえ、それを悟らせなかった。
「いや、でもここはレオに書かせた方が正解だ。そういう微妙な違いは通じるものだからね」
ずっとにやにやと自分とギルベルトのやり取りを見ていた兄は言った。
大神官はその手紙を見たら一体どんな反応をするだろう。思っている通りに事が運べばいいのだけれど。
「で、呼んだところでどうするの。さすがに大神官をぐーで殴って終わりってことはないよね?」
「そのことなんだけど……」
呼び寄せなければなんともならない、とは思っている。
けれど、ここから先どうすればいいのかはエレオノーラの頭の中にはなかった。
「へえ、我らが女王陛下は何の策もなしに大神官を呼びつけるつもりなんだ。なかなかに斬新だね」
面白くて仕方ないとばかりに笑うフェリクスに対し、ギルベルトは仏頂面といっていい顔をしていた。
「恐れながらフェリクス殿下。笑っておられないで、お止めしてください」
「それは僕の仕事じゃないからなぁ」
そう言いながらも、兄はすっとその目を眇めた。
纏う空気が少しだけ、変わる。
フェリクスは長い指を二本立てた。
「方法としては二つかな。まずは相手を自分の領域に引き込むこと。こちらに有利な条件を作り出すことが肝要だけど、これはレオが大神官を呼び出すことに成功すれば叶うね」
エレオノーラは頷いた。教会に乗り込むのはさすがに分が悪いが、相手が王宮に来てくれればこちらにもやりようはある。
「もう一つは……これは結構難しいけど、相手の領域で勝負してやることだ」
「どうして? どうせなら自分の得意なことで勝負した方がいいんじゃないかしら」
エレオノーラが問いかけると、フェリクスは「それもそうだね」と返した。
「だけど、そうするとそれが相手の言い訳になる。自分の得意な領域で勝負されたら認めざるを得ないからね。今回の場合だと、教会側の教義を逆手に取るとか。うまく使えれば効果的だよ」
「相手の領域……」
この場合の相手の領域とはなんだろう。しかしながら、教会が支配するもの、その領域でエレオノーラの優位を示せれば、この地位は盤石となるだろう。
反論の余地など、与えないほどに。
「あとは、そこで怖い顔をして僕を睨んでいる宰相閣下と二人で考えるといいよ。じゃあね」
言いたいことだけ言って、フェリクスはひらりと立ち上がって部屋を出て行った。
エレオノーラは、兄が言うところの怖い顔のギルベルトと二人きりになる。
「ギルは、どうしたらいいと思う?」
振り返って、控えるようにエレオノーラの後ろに立っていた彼に訊ねる。
「個人的には、大神官を呼び寄せるところからどうにかしたいところですが」
危険だと言いたいのだろう。実際レオニダスに手紙を書かせる時にも、やんわりと止められた。万事慎重派の彼の立てる策とは異なると、エレオノーラも分かっている。
今の大神官はその地位に就いて長い。そう簡単に牽制できるとは思えない老獪さを持っている。
息のかかった貴族達も多く、じんわりと内政に干渉してくる。隠然とその権力は存在する。まるで目を凝らさなければ見えない、真昼の月のように。
だからこそ、表舞台に引きずり出してやりたい。
「これは決定事項よ。そうしてやらないとわたしの気が済まないもの」
「……承知いたしました。でしたら、そこを起点に何か考えましょう」
ギルベルトは、諦めたようにカウチのエレオノーラの隣に腰掛けた。
さっきまでいた兄は向かいに座っていた。
この感じは、少し違う。本当に、そばにいて彼は同じように物を見てくれるのだ。
そういえば、はじめて会った時もそうだった。エレオノーラは彼の隣で、お茶の色が変わるのを眺めていたのだった。
「あっ」
そうして、閃いた。
教会の領域は、神様の領域だ。
彼らだけが、奇跡を起こすことができる。
あの日、エレオノーラが目にした奇跡を思い出す。神話の通り、泉は赤く輝き、エレオノーラは女王に選ばれた。
けれどもし、自分も同じように奇跡を起こすことができたら。真に神様に選ばれたと示すことができるのではないだろうか。
「ねえ、ギル」
「はい、なんでしょう」
隣に座るギルベルトは静かに返事を返す。魔法も奇跡もないとわたしに言い切った、この黒髪の男。
けれど、人には知恵と思惑がある。考えることを止めなければ、きっと辿り着けるはずだ。
「わたしの為に、奇跡を起こして欲しいの」




