28.言い訳
「ねえ」
ギルベルトはエレオノーラを椅子に座らせた後、ごそごそと救急箱を広げている。その大きな手は忙しなく動いているが、彼は一向に返事をしてくれない。
「ねえ、ギルってば」
緑の目は鋭く細められて、ギルベルトはずっと険しい顔をしている。
レオニダスの部屋から戻る時、有無を言わさず荷物のように横抱きにされた。行きの倍以上の速さで彼は通路をすたすたと歩き、エレオノーラの部屋まで辿り着いた。
ずっとエレオノーラの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれていたのだと、その時はじめて気が付いた。
その間ギルベルトは、一言も口を利いてくれなかった。
「怒って、る……?」
やっと顔を上げたギルベルトは、「当然です。怒っています」とだけ答えた。
「そうよね……ごめんなさい」
ひどいことをしてしまったと、理解はしている。とばっちりもいいところだろう。
「わたしのせいであなたまでレオニダスにあんなことを言われて……やっぱり一人で行けば」
ぴたりと、ギルベルトの手が止まった。
「姫様」
ギルベルトはエレオノーラの前に恭しく膝を突いて、その実糾弾するように見上げてきた。
「私が怒っているのは、そういうことではありません」
緑の目はまるで燃えるような怒りを宿している。
「じゃあ、なあに?」
「どうして、もっと早く止めさせてくれなかったんですか」
レオニダスとの間に入ろうとするギルベルトをエレオノーラは一度留めた。彼は本当はもっと早くに助けに入りたかったのだと、分かっている。
「レオニダスが何を考えているのかを分かりたかったから。きっとつらい思いをしてきたんだと思うの。だから」
首を絞められた時、息が吸えなくて溺れるようで、とても苦しかった。もがけばもがくほど、絡め取られて沈んでいくような、そんな恐ろしさがあった。
けれど同じぐらい弟はずっと、苦しかったはずだ。だから、それをエレオノーラは知りたかった。
「お言葉ですが、殿下」
遮ったのは低い静かな声だった。
「そのために弟君に姉殺しの汚名を着せるおつもりだったのですか」
糾弾するように、緑の目は睨みつけてくる。
「そんなことは、思ってなかったけど」
「でしたら、あのまま私がお止めしなかったら、一体どうなさるおつもりだったのですか」
「そうよね……」
投げかけられる言葉には、反論出来ない。あのまま首を絞められていたら自分は今頃どうなっていたか分からない。けれど、エレオノーラはあの場で、何一つ不安には思っていなかったのだ。
「あなたが、助けてくれるって気がしたの」
制しておきながら、本当に危なくなればこの男はきっと自分を助けてくれると、エレオノーラは心底信じていたのだ。
エレオノーラがそう言うと、ギルベルトは額に手を当てて呆れたとばかりに頭を振った。それから深く息を吐いて続ける。
「自分が生きることがつらいことは、誰かを虐げる大義名分にはならない。レオニダス殿下の境遇には同情すべき点はありますが、それでもあなたを害していい理由にはならないのですよ」
それは、いつもの冴え冴えとするほどのギルベルトの正論だった。
「だから、あなたがそれを分かろうとする必要は無い」
ギルベルトは一見ひどく近寄り難いが、意外と面倒見もいいしやさしい。誰かを陥れるようなことを決してしない実直な人だ。
彼の言葉に、それが全て見える気がした。
家督を継げなかった己が、弟を虐げることのないように彼は実家から距離を置いたのだろう。
「ギルはずっと、そうやって生きてきたのね」
エレオノーラがそう言うと、彼ははっと目を伏せた。苦々し気に目を逸らして、整えられた前髪を崩した。
「そんないいものではありません。それしか生きる方法が、分かりませんでした」
そうすると、途端に目の前の男がいくらか幼く見えてくる。まるでエレオノーラが出会った頃のギルベルトのように。
「私は、弟とも母とも――これは育ての母ですが、きちんと話をしたことがありません。私が何を考えているか、人に知られたら到底褒められたものでは無いから知られたくなかった。
醜い自分を知られたくなくて、遠ざけました。彼らが何を考えているかも、知ろうとしてこなかった。ずっとそうやって、逃げてきたんです」
ギルベルトは、己の話をしたがらない人だった。自分をそうやって押し込めてしまう人が、今思いを吐露している。
「最初は騎士になろうと思ったけれど、母はそれだけはやめてくれと言いました。お前が誰かを守って死ぬようなことがあれば、産んだ母に顔向けができないからと。
仕方がないから文官の登用試験を受けたら合格できただけで、別に忠誠心なんてものがあったわけではないんです。一人で生きられる術を得られるなら、なんだってよかった。そのままずるずると、私はここにいるだけです。
レオニダス殿下が仰った通りの、負け犬です」
そう一息に言って、ギルベルトは項垂れた。黒髪が顔を覆って、どんな表情をしているのか分からなくなる。
「それでも」
エレオノーラはその髪にそっと触れた。さらりとした癖のない黒髪は、手の中で流れていく。
「わたしはギルが逃げてくれてよかったと思うわ」
レオニダスが世界に、姉に向けた刃を、彼はずっと自分自身に向けてきた。
ギルベルトが実家に留まり家督にしがみつくような人間なら、エレオノーラは研究棟で彼に出会うこともなかっただろう。
「じゃなきゃ、わたしはギルに会えなかったから」
あなたが誰かを傷つけることを良しとしなかった選択の先に、今のわたしがいる。
「だから、わたしはギルが逃げてくれてよかった」
ぎゅっとその頭を掻き抱いて撫でる。この人が、エレオノーラによくそうしてくれたように。
「本当に、困ったお人だ」
ギルベルトはくしゃりと、笑った。珍しく、形のいい眉を下げて困ったようにしている。
「あなたは、何からも逃げないのに」
「え、なんのこと?」
ふと囁くように彼が呟いた言葉の意味が、エレオノーラには分からなかった。
「こちらの話です。さて、では手当てをしますよ」
襟元をぐっと広げられて、首筋に大きな手が触れる。そのまま湿布が貼られた。今のところ目立った痕は残っていないが明日以降どうなってくるかは判断が付かないとギルベルトは言った。
「侍女には適当に、ひどく寝違えたとでも言って誤魔化してください。あと、気管に炎症が出る場合もあります。その時は薬湯を用意させますので、仰ってください」
「分かったわ」
にしてもこの人はなんでも知っているなとぼんやりと思う。
労わるように、長い指が覆われた首元をなぞる。
これは、ただの手当てでそれ以上の意味はないはずなのに。
「やっと手の痣が消えたと思ったらこれです。もう少しご自分を大切になさってください」
緑の目は、どんな傷も見逃さないと言うようにエレオノーラを見つめてくる。その熱い目が肌の上を滑る。
見つめ合った距離の近さに、どうしようもなく心臓が跳ねた。
――でもさぁ、まったくいちゃいちゃしないのも問題だよ、エリー。仮にも婚約者になるわけなんだし。
どうしてこんな時に、フェリクスの言葉を思い出すのだろう。
「分かって、るけど」
目を逸らしたら、眉間の皺がぐっと深くなった。肩にとんと、手が降りてくる。
「まだどこかほかに、私に隠している怪我でもおありですか」
変な意味はないと分かっている。ただギルベルトは過保護で心配性なだけだ。これは、断じて、いちゃいちゃではない。
「な、ないわよ!」
応えた声が思わず上擦る。もっともこんな傷だらけの形ばかりの婚約者なんて、彼はいらないのかもしれないけれど。
「ならよろしいのですが」
一つ溜息をついて、ギルベルトは立ち上がる。広げた手当の道具をてきぱきと片付けるその背を見ながら、エレオノーラは頬が熱くなるのをどうしようもできなかった。