26.救済
どこで、何を、間違えたのだろう。
レオニダスは一人、部屋の中で己に問うた。気が付けば、ずっとそんなことばかり考えてしまっていた。
そうしていつも思い当たる。
間違えたのだとしたら、生まれた時からだ。
妹になるはずだった人より二週間遅く生まれて、レオニダスの方が弟になった。それが全ての過ちのはじまりだった。
――あなたにはまだ、やるべきことがある。
けれど、人伝に会う機会を得た大神官はそう語った。
エレオノーラは今、一時、王太子であるにすぎない。
彼女から王位を取り返すことこそがレオニダスに与えられた使命なのだと、壮年の大神官は言った。
それこそが、本当の神の御意思なのだと。
頭によぎったのは、幼い頃から何度も読んだ建国の神話だった。
レオニダスはそれに幾度となく自分を重ねてきた。あの話で最後に王になるのは、末の弟だ。だから、自分もそうだと思い込んで疑わなかった。
――他ならぬあなたが、間違いを正さなければならない。
ああ、おれはやっと救われる。姉上がいなくなれば、おれが王になれる。いや、ならなければならない。
そして、母上の願いを叶えることができる。
そのはずだったのに。
父を丸め込んで王配選びを始めて、刺客を送り込んだところまではよかった。
問題は、あの冷徹宰相だ。
彼がいつからこちらの企みに気づいていたのかは分からない。けれど、あの緑の目はいつも鋭い光を宿して、レオニダスを睨みつけるようにして見つめてきた。いっそこれを利用して失脚させてやろうと思ったのに、それすら上手くいかなかった。
先の宰相は、周りの反対を押し切って一介の研究官に過ぎなかったギルベルトを政務官に抜擢した。その後の彼の栄達はよく知れたものだが、今となっては前宰相の見る目が確かであったと言わざるを得ない。
レオニダスは机の上に置いた己の手を強く叩きつけた。どん、と鈍い音が響いて、握りしめた手がじんじんと痛んだ。
今や彼は王配に決まり、まるで番犬のようにぴたりとエレオノーラの隣にいる。あの男がいる限り、エレオノーラを廃することは不可能と言っていいだろう。
まずは、教会に指示を仰がなければ。
レオニダスは机の上に紙を広げた。大神官とは、暗号で手紙のやり取りをしている。これまでの経緯を伝えて、今後の対策を練るのだ。
ふと、誰かの視線を感じた気がした。けれど振り返っても誰もいるはずがない。ここはレオニダスの私室だ。
一つ息を吐いて、もう一度机に向かう。
書かなければと思うのに、ペンを持つ手が震えていた。字が歪んで、インクが滲む。到底使える物ではなくなった紙を、レオニダスは大きく二つに引き裂いた。
大丈夫。おれには神様がついている。
きっと、最後には救われる。
何度そう繰り返しても、罪の意識は拭えなかった。全てが明るみに出た時に、エレオノーラはレオニダスをどう扱うだろう。半分だけとはいえ血の繋がった姉を、自分は殺そうとしたのだ。
レオニダスの知るエレオノーラは、良く言えば天真爛漫な、悪く言えばわがままなお姫様だった。踊り子だったエレオノーラの母を追い出したのは、王妃である自分の母だったと聞いている。
母は半分だけの姉と関わるのを嫌がったから、遠くから眺めていただけだが、木に登っては侍女を振り回してみたりやりたい放題だった。
気ままに木に登るなんて、自分には絶対にできないことだった。
いいなと思った。自由に生きられるというのは。
レオニダスの持ち得なかった全てを、エレオノーラは持っている。
――あなたこそが、王になるべきなのよ。わたしの子。わたしのレオニダス。
王になれないレオニダスに意味も価値も存在しない。
だから、絶対に成し遂げなければならない。
そう思ってもう一度、ペンを手に取った時だった。
「ごきげんよう、レオニダス」
自分の他には誰もいないはずの部屋に、鈴のなるような声が響く。
「誰だっ……!?」
するりと夜の闇の中から、刺繍の施された靴が覗く。次いで金色の髪が揺れて、最後に青い瞳がレオニダスを捉えた。
「せっかくだから、お話しようかと思って。よろしいかしら」
その背後には、暗闇そのものような黒い髪の男が付き従っている。
エレオノーラとギルベルトは、レオニダスの部屋にまるで魔法のように姿を現したのだった。
*
「いい? これがレオの部屋に通じる通路だよ」
協力すると言ったのは嘘ではなかったらしい。聞けばフェリクスはすぐに教えてくれた。兄は本当にこの王宮のことなら知らないことはないのかもしれない。
エレオノーラは一人で行こうと思っていたのだけれど、当然のようにギルベルトに止められた。
「絶対に、だめです」
鋭さを増した緑の瞳は、糾弾するようにエレオノーラを見つめてくる。
「でも別に話をしに行くだけだし」
「今度は手を掴まれるだけではすまないでしょう。そうなったらどうなさるおつもりですか」
そう言われたら何も反論できなかった。
「何をされても構いませんが、必ず、私を一緒に連れて行ってください」
その条件を飲まなければ、彼はエレオノーラを縛り付けん勢いだった。助けを求めて兄の方をちらりと見たが、フェリクスは肩を竦めるだけだった。
兄に教えられた通路を、ギルベルトは迷いなく一定のペースで歩く。
王宮の秘密の通路の存在を知っても、彼は全く動じる素振りを見せずに落ち着き払っている。
右手をきゅっと繋がれて、自分の方がこの通路には慣れているはずなのに、小さな子供のように手を引かれている。
今回はギルベルトも何かしら武器を隠し持っているようだった。
果たして、弟はわたしの話を聞いてくれるだろうか。もしかしたらギルベルトの言うように、荒事になるのかもしれない。それは自分の本意ではないけれど、それでも確かめないと進めないことはある。
「あのね、ギル」
レオニダスの部屋に着く前に、念押ししておきたいことがあった。
「はい、なんでしょう」
「お願い。何があっても、レオニダスを殺すのはやめて」
弟に罪があったとしても、いやもし本当にそうだとしたら、きちんと裁かなければならない。
「でも、あなたも絶対に死なないで」
繋いだ手を引き寄せるように強く握ったら、ギルベルトは一瞬だけ目を伏せたが凛とした声で応えた。
「承知仕りました」
通路の出口から、ぬるりと弟の部屋に出る。
「ごきげんよう、レオニダス」
まるで幽霊でも目にしたかのように、弟の顔は蒼白だった。その隙に、ギルベルトは机に置かれていた何かをさっと手に取った。
「なあに、それ」
一見しただけでは何が書かれているのか分からない。ギルベルトは緑の目をさっと書面に滑らせると、
「暗号ですね。教会側に助力を乞うと書いてあります」
「な、どうしてそれをっ」
レオニダスが立ち上がった拍子に、椅子がばたんと大きな音を立てて倒れた。机についた手が震えている。ギルベルトの言葉が正しかったのだろう。
長身の弟を、エレオノーラは見上げる。
すうっと息を吸い込んだ。声が震えないように、お腹に力を入れる。一歩踏み出してギルベルトの前に立った。緑の目は何か言いたげにこちらを見たが、ギルベルトは何も言わなかった。
「ねえ、レオニダス」
これは、他の誰でもないエレオノーラが問わねばならないことだ。
「あなたはどうして、王になりたいの?」
「どうして、と言われても」
レオニダスは小ばかにしたように笑った。けれどその声に焦りのようなものが滲んでいる気がした。
「だってそれが正しいことだからです。そうでなければ、おかしい」
おかしいとは、一体どういうことだろう。




