22.生きて死ぬ覚悟
「はい」
曇りのない澄んだ目が、エレオノーラを見上げている。
その目の中に自分だけが映っている。
「王配になるということがどういうことか、本当に分かっているのかしら」
口にしてからふざけた問いだと思った。結局のところ、自分自身だって王になることがどういう意味かなんて分かっていないのだ。それを他人に問うだなんて。
「恐れながら、殿下」
ギルベルトは恭しくエレオノーラの手を取ると、そっと額に押戴いた。それはまるで本物の女王にするような、敬意に満ちている。
どうしてだろう、こんなに沢山の人に囲まれているというのに、まるで世界に二人きりのような気がした。
「命を懸けても殿下のおそばに侍るのに足りないというのなら、私はあと、何を懸ければよいでしょう」
ああ、これはよくない。
これはほとんど脅迫だ。
この申し出を受ければ、ギルベルトを王配として縛り付けることになる。
けれど断れば、彼は他に何だって懸けてみせると言うはずだ。
どちらにしてもエレオノーラはギルベルトを受け入れるしかない。この男はそれを全て承知の上で口にしているのだ。
もしも。
もしも、その心が欲しいと言ったら、ギルベルトはどうするだろう。そんなこと、聞けるはずもないけれど。
代わりに背筋を伸ばして、エレオノーラはこう尋ねた。
「ギルベルト。ではあなたは真に、わたしの為に生きて死ぬ覚悟があると」
問われているのは同時に、エレオノーラがこの男を贄にする覚悟だ。
「喜んで」
ふわりと、ギルベルトは微笑んだ。
それが心の底からの己の望みであると言わんばかりで、どうしようもなく胸がざわめいた。
「殿下のために我が身を擲つことが叶うのならば、このギルベルト、これほどの幸福はございません」
ただ何を問うても最初から、この人はこう返すつもりだったのだろうなと、思った。
添えられるだけだった大きな手を、エレオノーラは握った。
「ならばその一生、わたしが貰い受けるわ」
元よりこう答えるほかないのだろう。
それでも、心のどこかでほっとした自分がいたのは事実だった。
これで、エレオノーラはギルベルトにこの身を委ねることを許されるのだ。
たとえそれが忠誠の威を借りた束縛であっても、嬉しいと思わずにはいられなかった。
雨のような喝采が降り注ぐ。この今、王配はギルベルトと決まった。
「へぇ、冷徹宰相のくせにやるじゃん」
小声で、どこか嬉しくてたまらないというような声でフェリクスがそう言うのが聞こえた。
「それでは、陛下。殿下と二人きりでお話させていただいてもよろしいでしょうか」
さっと立ち上がったギルベルトはエレオノーラの手を握ったまま、そう言った。
なお、いつも通りの口調である。色恋めいた響きはもうどこにもない。エレオノーラは一瞬、この場が会議か何かなのかと思うほどだった。
ただ、父はそうは思わなかったようでしばし呆然と立ち尽くしていた。可愛い末娘に突如訪れた現実についていけなかったらしい。
「いいよ、いいよ。そうだよね、そりゃあ色々話したいこともあるよねぇ。行っておいで」
父の前にさっと進み出た兄が言った。両手をひらひらと振って、満面の笑みである。
「それでは、失礼いたします」
言うが早いか、ギルベルトはエレオノーラを軽々と抱き上げた。
「へっ!」
膝裏と背中にしなやかな手が回されている。
いわゆる“お姫様抱っこ”というやつである。名前ぐらいは知っている。
エレオノーラを抱えたまま、ギルベルトは元来たように颯爽と歩き出す。
怪訝そうな目を向ける人々を、彼はその緑の瞳でぐるりと見渡した。
いや、見渡したなんてものではない。睨みつけて威嚇した、と言った方が正しいかもしれない。気圧された人々はすごすごと押し黙って、ギルベルトは空いた空間に悠々と歩を進めた。
「いや、ほら、大丈夫ですよ、父上。エインズレイ卿はプロの堅物ですからそう簡単に手を出したりはしませんって」
なんだか遠くの方で兄が父に話しているのが聞こえる。合間に「きゃー」っと令嬢の悲鳴のようなものが混じる。自分のことでなければ、エレオノーラだってそうなったと思う。
「ちょっと待って、その、無理!」
「何か問題でも?」
ちらりと、ギルベルトがエレオノーラを見た。ふいに近づいた距離に心臓が跳ねる。どうしていいのかもう分からない。
「恥ずかしくて死にそう……」
これでもずっと王女なので人前に出ることには慣れているが、それにしても、これは。
「でしたら、適当に抱き着いていてください。顔が隠せるかと」
「なんてこと言うのよ!」
そんなこと出来るか。
「そうですか。喜びのあまり感極まる的な感じも演出できてよいかと思ったのですが、残念です」
これが衆人環視の中堂々と求婚してきた男の言うことだろうか。彼は顔色一つ変わらない。
「ギルは、何とも思わないの?」
またいつものように呼んでしまって後悔するがもう遅い。ただ彼もそれを咎めるようなことはしなかった。
「この程度は想定の範囲内です」
涼やかな相貌には羞恥の色は見当たらない。むしろ当然とばかりの堂々たる顔をしていた。
「……どうしてこんなこと、したの」
本来ギルベルトは目立つことを好む質ではない。それをこんな、王女に人前で求婚するようなことをしたからには何か意図があるはずだ。
「こうでもしないと、殿下は私と目も合わせてくださいませんでしたので」
「なっ!」
そんなことのために、あれだけのことをやってのけたのか。
「どうかしてるわよ、あなた」
「そうでしょうか?」
「あんなに格好付けちゃって、ばかみたい」
顔を背けてエレオノーラはそう言った。そうでもしないと、ギルベルトに見惚れていた自分を肯定してしまいそうだったから。
「お言葉ですが、殿下。殿下はご存じないかもしれませんが、求婚するとなればどんな男でも格好の一つや二つ、まあ三つぐらいまでは付けるものです」
流れる様に言い返されて、エレオノーラは押し黙る。何せ求婚されたことは今回が初めてなので、これが普通なのかそうでないのかが分からない。いや、多分普通ではないと思うけれど。
「なによ」
「お気に召さなかったのなら、謝罪いたします」
ほんの少しだけ、その声が揺れた気がした。
「そういう、ことじゃないけど……」
お気に召す召さないだけの問題で言えば、相当にギルベルトは格好良かった。ただあまりにも日頃の彼とのギャップがありすぎるのである。怪我をした時に頭でも打ったのだろうか。
「って、あなた怪我はもういいの?」
いきなり抱き上げられた衝撃が大きくて思い至るまで時間がかかってしまった。平然とした顔をしているが彼はつい先日肩を刺されたのである。
「日常生活を送るのに問題がない程度には回復しております。ご安心を」
果たしてお姫様抱っこは日常生活の範囲内だろうか。エレオノーラには判断が付かない。
「わたしちゃんと歩けるわよ」
「ええ、存じ上げております」
「だったら」
言外に下ろせと訴えてみたが、ギルベルトはエレオノーラを離してはくれなかった。
「こういうのは様式美というものですので、もうしばらくお付き合いください」
「重たくない?」
ドレス越しに感じるこの腕は、負傷を感じさせないほど確かなものだけれど。
「姫様は昔から軽いですよ」
ギルベルトは一瞬だけ決まりの悪そうな顔をして、話を変えるとばかりに大袈裟に咳払いをした。
「ウェリントン侯は確かに武芸には優れておられるかもしれませんが、あんな脳筋に負ける気はいたしません。私の方が必ず、殿下のお役に立てる」
その名前には聞き覚えがある。王配候補の資料の中で見た。今年の武術大会で優勝した背の高い男だ。
何もなければ、エレオノーラはその男と結婚するはずだったのだろうか。
「ちょっと待って。何でギルがわたしより先に結婚相手を知ってるのよ!?」
「これでも宰相ですので。その権力を持ってすれば、これぐらい容易いことです」
しれっと恐ろしいことをこの耳が聞いた気がする。
「職権濫用も甚だしいわね!」
「ですから、普段はやりません。今回は非常事態です」
諦めたようにギルベルトは一つ大きくため息をついた。
そのまま、手近な部屋の扉をギルベルトは開けて中に入る。夜会の時にはこういう部屋がよく用意されている。主には男女の密会のために。




