19.醜聞
明るい日の中で、意識が浮かび上がる。
カーテンを通した光が差し込んで、目を開けなければと思うのに、瞼が重い。怪我を負ってからはずっとそうだ。
そんな自分を肯定するように、額にそっと手が触れる。その手は幼い子にするように、ギルベルトの髪を撫でてくれる。
ふわふわと芳しい香りがする。花の匂いと、それに混じって別の甘い香りが。
どんな花の香りよりも、この香りにギルベルトは深く囚われている。小さな手を強く掴んで抱き寄せてしまいたいと思う。けれど、体はまるで金縛りに遭ったかのように動かない。
その体温も香りも、やがて遠ざかる。
そうしてやっと、ギルベルトは目を覚ますのだ。
「ちょっとさぁ、厄介なことになってるんだよね」
便宜上ギルベルトのものとなっている部屋を訪れたフェリクスは、彼にしては珍しく真面目な口調で言った。
「と申しますと」
答えながら、ギルベルトはゆっくりと体を起こした。少しはマシになってきたが、まだ体が痛む。
「君が王配の座を狙ってるっていう噂が、宮中で出てる」
「はあ」
それはつまり、ギルベルトがエレオノーラの隣に立つということだ。
そんなことは、夢にだって思ったことはないのだが。
「いやね、権力を恣にしたいエインズレイ卿がその地位を乱用して自作自演で襲われたふりをしたっていう話が出ててね。もうなんか悪の宰相閣下、って感じ」
「ばかばかしい」
ギルベルトはそれを一蹴した。
真に自分が権力を望むのなら、そんな面倒なことはしない。もっといくらでもやりようはあるというのに。
「だよねぇ。わざわざ一歩間違えば死ぬような怪我してやる芝居じゃないよ」
そこまで重症だとは思っていなかった。
「あとね、ちょっと違う感じの噂も流れてる」
そこで少しだけ、フェリクスは笑みを堪えるような表情を浮かべた。
「一体どのような」
「邪な思いを抱いた王配候補の男が王女を思いのままにしようとするんだけど、実は宰相閣下は昔から王女を深く愛していて、見事そいつを成敗したって話。これは女官と侍女を中心に盛り上がってるね」
妙に見透かしたような目が、ギルベルトを見遣る。
「なる、ほど……」
今度は「ばかばかしい」と退けることができなかった。
まったくの大嘘、というわけでもなかったので。
エレオノーラに剣が向けられた時、考えるよりも先に体が動いていた。あの斬られた金色の髪を見ただけで、刺客の男を「殺してやればよかった」とさえ思った。
臣下の身でありながら己が主に拗らせた激情は、今もこの身の奥深くで渦巻いている。
「あ、でもこっちの君の評判は悪くないよ。愛に生きて愛に死ぬ、悲劇の男って感じで結構人気でさ。最終的にはエリーを攫って駆け落ちするんじゃないかな、なんて言われてたりする」
眩暈がしたのは一体なんのせいだろう。できれば、勝手に人を殺さないでいただきたい。
「君ほら、モテる割に『仕事の鬼』だから女性関係の噂全然ないし、その歳で婚約者もいないからさ。妙に信ぴょう性があるみたい。こっちの噂を流した人は、なかなかに脚本の才能があるね」
こんなことなら適当に結婚でもしておけばよかったのか。
「特段好きでもない女と付き合うほど、時間が有り余っているわけではないだけです」
急に重たくなってきた頭を押さえてギルベルトは言った。あと、別にモテてはいない、と思う。
「にしても、どうする? 宰相閣下。どちらにしても君本人が表に出てこられないから、みんな言いたい放題だ」
フェリクスは含みのある笑顔で、ゆったりと返してきた。
「どうしましょうかね」
ギルベルトは、大きく溜息をついて窓際に飾られている花を見た。まるでそこだけ光が灯ったように、可憐に揺れる花。
あれから、エレオノーラとは顔を合わせていない。喧嘩別れのようになって彼女が部屋を後にしたのが最後だ。
宮中で広がっているのなら、エレオノーラも当然、この噂を耳にしただろう。
今エレオノーラとギルベルトが親しくしている姿を見せるのは得策ではない。盛り上がるための燃料を注ぐことにしかならないと分かっているはずだ。
彼女はこれをくだらないと笑い飛ばしたのだろうか。それとも、何かあの青い瞳に憂いを宿したのだろうか。ギルベルトにはどちらとも分からなかった。
ギルベルトの視線に気が付いたのか、フェリクスも同じ様に花に目を向ける。
「僕、この花どこかで見た気がするんだけどな。どこだったっけ?」
昔から妙なところで律儀な子だった。自由気ままなように見せて、変なところで気が回る。「見舞いには花が必要だ」と言った自分自身の言葉をきちんと守っている。
女王となるのなら、これからもきっと彼女には苦難が続くのだろう。こんな襲撃は序の口に過ぎない。頭の中でフェリクスが笑い話のように言った「駆け落ち」という言葉が木霊した。
左手はやっと動かせるようになってきた。伸ばせば、この花には手が届く。本当に触れたいものには、手が届かないのに。
――いっそ本当に攫ってやろうか。
脳裏によぎった考えの現実味のなさに苦笑が漏れた。自分にそんなことができるとは到底思えなかった。
けれどそれこそが、彼女の望みだったのも事実である。もっとも、それを聞いたのはギルベルトであって、ギルベルトではないけれど。
「気のせいではないですか」
ギルベルトは指先で花びらを撫でながら素っ気なさを装ってそう答えた。
これがエレオノーラからの花だと、分かっていたから。




