15.矜持
流血描写があります
「急所は外れています。死ぬことはない」
「エインズレイ卿」
男は昏い目をしたまま言った。握った剣を振れば、そこに付いていた血が直線を描いて地面に飛ぶ。
これはエレオノーラの血ではない。ギルベルトが流した血。
「あなたは優秀だ。殺したくはない」
またすっと、白刃がエレオノーラに向けられる。
躊躇うことなく誰かに剣を向けるほどの何かが、この者にはあるのだろう。その太刀筋には迷いがない。
ああ、この男は本当にわたしを殺そうとしているのだと思った。
わたしはずっと、偽りで選ばれていたから。
「ギル、離して」
エレオノーラがいなくなれば、これは終わる話だ。これ以上、この人を巻き込んではいけない。
「わたしは、もういいから」
けれど、その手はエレオノーラをぐっと抱き寄せる。思いの外強い力にエレオノーラは逃れることができなかった。その大きな手からぽたりと、赤い血が落ちた。
「あなたがよくても、俺はよくはない」
遮ったのは、静かな声だった。
そしてそのまま、ギルベルトは剣を構える男に向き直った。彼は一人で応戦するつもりなのだ。
――ギルの覚悟はそんなものなの。
昨夜の自分の言葉が脳裏に蘇る。
だって、エレオノーラは彼の覚悟と忠義を試した。そう言って詰め寄って、己を差し出すことを強いた。
だから、この今も身を挺してギルベルトは自分を庇っている。
違う、これはわたしの望みじゃない。
こんなことをしてほしいと、願ったわけじゃなかったのに。
「やめて。ギルが傷つくのは、見たくない」
振りほどこうと抗っても、彼の腕はそれを許さない。
「ほほう、殊勝な心掛けじゃないか」
ひゅん、っと、剣が空を切り裂く音がした。
「その健気さだけは称賛に値する」
抱えた自分ごとギルベルトは体を捻った。寸手のところで剣はエレオノーラの髪を一房だけ切り裂いた。金色のそれは、はらはらと花びらのように地に降る。
「姫様。少しの間じっとしていてください」
そんなことを言われなくても、もう恐ろしさに身が竦んで、血に染まっていく彼の服を握りしめて震えていることしかできなかった。
「何に代えても、あなたに傷一つ負わせはしません」
「あなたは、そんな……その者のために真に命を懸ける価値があるとお思いか」
冷笑とともに男が言う。
そんなの後に本当はどんな言葉を続けたかったのは、その目を見れば分かった。軽蔑と落胆が、いやというほど浮かんでいたから。
何の役にも立たないお飾りの王女。それがエレオノーラだ。冬の寒さが厳しく作物の取れない北部では、王家への風当たりが強いと話には聞いて知っていたはずだったのに。
果たしてこの身に、ギルベルトが命を懸けるほどの価値が、本当にあるのだろうか。
「玉座に就いた時点で正しい王など、存在し得ないでしょう」
ただ背中に回された左腕の力がぐっと強くなる。
「大切なのは、そこから何を考え、何を成すかです。それだけが、真に王を評価するに値する」
またいつその剣が振り下ろされるともしれないのに、揺らぎもしない彼の声が宣言する。
それは紛れもないギルベルトの矜持、そのものだった。
「そして、王が正しい判断ができるようお仕えするのが我ら臣下の務めではないでしょうか」
ギルベルトはもう一度、右手に持った剣を握り直す。
「己の意に沿わぬ者が玉座に就くのが気に食わないから弑するというのなら、それはただの子供の癇癪と同じこと。私は、承服いたしかねます」
緑の目は射殺すような強さを込めて、かの男を見つめた。
「あいにく簡単に殺される気もございませんので」
最後に剣の柄を鳩尾に叩き込まれて、男はどさりと地面に転がった。
「足の腱を切りました。おそらくもう動けないでしょう」
ギルベルトの額に汗が滲んでいる。広い肩は苦し気に上下して、絞り出すように息を吐いた。
「ギル、傷がっ!」
動いた分だけ、彼の足元には血だまりが出来ている。そうだ、血を止めなくては。
羽織ったショールを包帯代わりに結ぼうとするが、手が震えて上手くいかない。
「殿下、これからの流れを、お伝えします」
がくりと崩れ落ちるようにして、ギルベルトが膝を突く。
「そんなことはいいから!」
みるみるうちに真っ白だったそれが、赤く染まっていく。指先に、ぬるりとしたあたたかさが触れる。こんなことすらわたしには満足にできないのか。
「聞いてくれ、頼むから」
耳元で囁くような声が言った。いつも確かな響きで届く彼の声とは明らかに違う。頷くと、ギルベルトはエレオノーラの顔を覗き込んで微笑んだ。
からんと、軽い音がして、ギルベルトが持っていた剣が地に落ちた。
「いい子だ」
大きな右手が頭に触れる。子供にするように、髪を撫でられる。
「もうすぐここに衛兵が来るはずです。そうすれば、この者を彼らに引き渡してください」
「わ、わかった」
「フェリクス殿下が来られたら、殿下が見たこと、聞いたこと、感じたことを全てお話してください」
ぐっと、強く抱き寄せられた。こんな時でなければ、ときめいてしまうほど、強く。その腕の中でエレオノーラは硬直することしかできなかった。
「それまでは、俺から離れないで」
肩に乗せられたギルベルトの頭から徐々に力が抜けていく。その重みが彼女の身体にのしかかった。
真っ赤なドレスと、真っ赤な血と。
その意味を、はじめてちゃんと理解した。
「ギル、ねえ、だめ、目を開けて」
ああ、これは、王家の色は、血の色だ。
誰かを生贄にしても、それでも玉座にあろうとする、罪深き色。
わたしはずっと、この色に彩られてきたのか。
血だまりにはらはらと涙が振る。
何も考えずに、身に纏っていた自分の幼さを痛感する。
「いや、やだ、ねえ、ギル、ねえってば」
揺さぶっても、声を掛けても、男の返事はない。ただそれでも、彼はエレオノーラを離しはしなかった。
まるでその腕で、どんな時もエレオノーラを守ろうとするように。
「いやああああああ」
己のつんざくような悲鳴だけが、庭園に響いた。
お読み頂きありがとうございます。
いいね・ブクマ・評価・感想頂けますと励みになります。
ちょっとものすごいところですが、ここまでで第一部終わりです。
次話から第二部です。
引き続き楽しんでいただけると幸いです。




