14.正しい王
一部流血描写があります
サンドラは歌うようにエレオノーラに言った。
『些細なことでよいのです。まずは小さなお願いごとをしてみるのがいいですわ』
『そういうものかしら』
そんなことなら、数え切れないほど何度もやってきた。なんなら出会ったその日に、「隠してくれ」と頼んだのである。
『頼られた殿方は悪い気はしません。あとは、何かを教えてと頼むのもいいですね』
これも何回もやったことがある。その度にあの緑の目は容赦のない鋭い光を宿す。
『それはだめね。自分できちんと調べて考えなさい、って言われるのがオチよ』
『まあ、なかなか面白い方ですわね』
自分のことでなければ、エレオノーラだってそう思うだろう。けれど、こっちはそんな風に思う余裕はない。
『では、こういたしましょう』
両の手を合わせてサンドラは妖艶に微笑んだ。
『一人では決してできないことを教えて、と頼んでみるのです』
サンドラはたっぷりと一呼吸置いた。その間に、エレオノーラは考えてみる。一人ではできないことって、一体なんだろう。
首を傾げたエレオノーラに、彼女は目配せをした。
『例えば……キス、とか』
『ききき、キス!?』
頭の中が真っ白になった。頬がかっと熱くなる。それを教えてもらうということはつまり……。
『むり、むり、絶対に、無理よ!』
気が付けば、無意識に手で口を覆っていた。
『まあ、姫様ったら。可愛らしいこと。別に減るものでもないでしょうに』
そういう問題だろうか。いや、何か確実に減るものはある、気がする。
美貌の未亡人は微笑みを絶やさない。けれどその目には真剣な色があって、これが本気の策なのか冗談なのか、エレオノーラには分からなかった。
『それほどお思いになっている殿方なのでしょう? 一度も考えたことがないなんてことはないはずですわ』
まるで心を見透かされたようだった。
突き放されたような感じではなくて、その声にはどこか懐かしむような響きがある。
考えてみたことは、ある。
大きな手が、エレオノーラの頬に触れる。長い指が、そっと輪郭をなぞる。
見つめ合えば、切れ長の目元がふっとやわらかくなって、男は微笑みかけてくる。普段は決して見せない、エレオノーラだけに向けられた微笑み。
髪と同じ色の睫毛が、すべらかな頬に影を落としていて彫像のように美しい。それがゆっくりと伏せられていって、慌ててエレオノーラも目を閉じる。
一呼吸ののちに、その唇が己のそれに重ねられる。
といった具合に。
けれど、現実はどうだろう。
ギルベルトは怪訝そうに眉を顰めてみせたのちに、エレオノーラの額に口づけた。
忠義のお題目を掲げれば、彼は石でも愛するのかもしれないが、これは一体なんだ。なんの子供騙しだ。求めていたのは、そういうのではない。
けれど、額を掠める程だった唇の感触が忘れられなくて一睡も出来なかった。あからさまな拒絶よりも、同情のように与えられたそれが、余計につらかった。
朝、侍女たちは、さえない顔色のエレオノーラに手を尽くして化粧を施し、普段の倍以上の気合を入れてハーフアップに髪を結い上げた。毛先はくるんと巻き上げてある。何せ今日は王配選びの日であるので。
身に纏うのは、真っ赤なドレス。赤はアーヴィング王家の色だ。だから、エレオノーラが正式な夜会などで着るドレスはいつもこの色だ。ぱっと目を引くこの色は嫌いではない。最後に真っ白なショールを合わせれば完成だ。
時間になって迎えに来た男は、いつもと何一つ変わらなかった。整い切った涼しい顔をしてギルベルトは「本日の流れ」を説明する。その緑の目を、エレオノーラはまともに見られなかった。
「どうかされましたか? エレオノーラ殿下」
目の前にいた男が振り返った。これは考えていたのとは違う人。
すぐ近くを歩いていたと思ったのに、いつの間にか距離が空いている。
「あ、いえ。少し、緊張してしまって」
彼は王配候補の一人だ。確か弟が選んだ北部出身の騎士か何かで、腰には見事な剣を帯びている。
候補者全員で昼食を囲んだその後は一人ずつ話をする時間が設けられた。だからこうして今は庭園を歩いている。
ギルベルトと見舞いの花を選びに来た時のここは、もっと輝いているように見えたのに。一体何が違うのだろう。
ちなみに当の本人は少し離れてエレオノーラの後方にいる。こんな時まで責任感が強いのか、見守るつもりらしい。
「間近で見ると本当に可憐な方だ」
にこりと男は微笑んでみせる。仮にも候補に挙がるだけのことはあって、こんなこともさらりと言ってみせるのだなと思った。どこかの誰かとは大違いだ。
「そんな、買い被りすぎですわ」
「けれどそれだけだ」
急に男の声が一つ低くなった。纏う空気が一瞬にして冷えたものになる。
「へっ」
これは危険だと頭の片隅で声がする。逃げなければいけないと思うのに、足が動かない。
「玉座は可愛いだけのお人形を飾るための場所ではない」
男が音もなく剣を抜く。白刃は陽光に照らされて、まるで宝石のようにきらきらと煌めいた。
「エレオノーラ王女殿下。あなたに個人的な恨みはない。けれどあなたが死ねば、正しい王が選ばれる」
「ただしい、王」
その言葉に血の気が引いていくような気がした。
ああ、わたしはずっと知っていたのに。
赤く輝いた泉。手を叩いて喜ぶ人たち。微笑んだ大神官。それでも、見ないようにしてきた。
「だから、いなくなっていただきます」
どうすればいいのか分からなかった。体は竦むばかりでもう思い通りに動かない。
ただ己に向けられる剣が恐ろしくて、エレオノーラはぎゅっと目を閉じた。
けれど想像したような痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
鼻先を掠める鉄錆に似た匂い。
恐々目を開けると、ぎゅっと抱き締められていた。その肩に真新しい傷がある。
「奇襲が奇襲として成立するのは、最初の一手だけです。だから必ず、そこで仕留めなければならない」
いつもと変わらぬ落ち着いた声が、ぴたりと引っ付いた内側から響く。
「失敗すれば、ここから先はあなたに利はない。それぐらいのことはお分かりかと思いますが」
ギルベルトはエレオノーラを左腕で抱き寄せたまま、相手に振り返った。
「ここで引いていただきたい」
声も口調も冷静そのものであるのに、この場の全てを圧倒するような怒気が、彼を包んでいる。こんなに感情を露わにするギルベルトを、エレオノーラは見たことがなかった。
「閣下!」
衛兵が一人駆け寄ってくる。庭園に配置されている人数はそう多くはない。
「すぐにこちらに衛兵を寄越すように手配してください。併せて、他の王配候補を取り押さえること。
それからフェリクス殿下に伝令を出して、以降は殿下の指示を仰いでください。あと、こちらを少しお借りします」
そう矢継ぎ早に言って、ギルベルトは衛兵の帯びていた剣をするりと抜いた。片手で器用にそれを握ってみせる。
「ですが、閣下、」
「早くしろ。言っていることの意味が分からなかったのか?」
ぎろりと緑の目が衛兵を睨みつける。彼は短く返事をしたかと思うと、全速力で駆けて行った。それでもここは王宮から一番遠い区域だ。
「ギル! 血が」




