1.冷徹宰相
お読みいただきありがとうございます。楽しんで頂ければ幸いです。
月明かりに、白の衣装の裾が翻る。
淡い光はまるでスポットライトのように彼を彩る。
全てを映し出すわけではない。長い前髪と仮面に隠れて、彼の顔はほとんど見えない。けれど、その緑の瞳はとてもやさしかった。
彼の上着をぎゅっと握りしめて、エレオノーラは言った。
「お願い、わたしをどこかに連れて行って」
どうせ王になんかなれっこない。そんな器じゃない。
わたしがいなくなれば、兄か弟が王位を継いでくれるだろう。
それならいっそ、この人に攫われてしまいたかった。
沈黙が落ちる。エレオノーラに名を乞うた怪盗はこう答えた。
「いつか君が本当のレディになったら」
頭に触れる手は大きくて、とてもあたたかかった。
「その時は、君を攫ってあげる」
「ほんとう……?」
目が合うと彼はにこりと微笑んだ。
「ええ、本当ですよ」
だから、その時をずっと待ちわびて、今日まで生きてきた。
わたしの怪盗。わたしのヴェルデ。
わたしが彼を見つけて、名前を付けた。
*
窓から差し込んだ陽の光が、男に降り注ぐ。艶のある黒髪はすっきりと整えられていて、形のいい額が覗いていた。
いつもは鋭い光を宿している目は書類に向けられている。長い睫毛の影が、すべらかな頬に落ちる。そこだけ絵画のように、きらきらと輝いていた。
エレオノーラはその全てを、頬杖をついて眺めていた。
男の名は、ギルベルト=エインズレイ。
こういう顔をしていたら、彼もなかなかの美男子である。思わずため息の一つも零れそうなほどに。
「……の取れ高については、検討が必要です。また、北部の備蓄についてですが」
落ち着いた響きのある声で読み上げられれば、ただの報告書がまるで聖典の一節のように聞こえてくる。
このままずっと、永遠にこの時間が終わらなければいいのにと思った。
「殿下、エレオノーラ殿下」
報告を続けていた声が、一段低くなる。
切れ長の目が冷ややかな光を湛えてこちらに向けられる。
エレオノーラの手元にも、彼の手にあるものと同じ書類がある。はっとして、それに目を落としたけれどもう遅かった。
「私の報告はお聞きになっていらっしゃいましたか?」
「も、もちろん聞いていたわよ」
聞いてはいた。割と真剣に。
「ほう」
ぴくりと眉が動いた。
「ため息が出るほど退屈な報告で申し訳ございませんでしたが」
その額にも目が付いていたのか、と言いたくなるほどに嫌味である。あれはそういう意味のため息ではないのだけれど。そんなことを言えるような雰囲気では全くない。これではせっかくの美男子も台無しだ。
「では、賢明なる王太子殿下のご意見を頂戴できますでしょうか」
そして、内容はちっとも頭に入ってきていなかった。
「えっと、その……」
必死で考えを巡らせても、何も出てこない。
何より目の前にいる男は、史上最年少の二十四歳で宰相の地位に就いた天才である。適当なことを言っても、この目の追及からは逃れられるわけもない。
「やっぱり、来年北部の地で作付けする作物の種類を検討した方がいいんじゃない、かしら」
かろうじて絞り出すようにそう返すと、ギルベルトは二回瞬きをした。
さすがというべきか、彼は考えを表情で悟らせるようなことはない。もっと言えば、何を考えているのかエレオノーラにはさっぱり見当もつかない。
「ギル……?」
今度は、彼がため息を吐く番だった。
「承知いたしました。次の会議の議題に挙げておきます」
果たして満足のいく回答だったのだろうか。
「報告は以上です。続いて、こちらが明後日の会合でお話いただく内容になります」
机の上に差し出されたのは、一枚の原稿だった。一昨日エレオノーラが書いたものである。
ただし、今ここにあるものにはびっしりと赤で修正が入っている。元のままの文はほとんどない。
エレオノーラはそれをちらりと視界の端に置くにとどめた。
会合での質問事項は事前に提出されていて、エレオノーラはそれに対して「お言葉」を話す。けれど、それはこの宰相が目を通してきちんと手直しをしたものだ。
齢十七の小娘に満足のいく回答なんてできやしないとみんな分かっている。どうせ全部茶番なのだ。
「私の添削に何か問題がありましたでしょうか」
「ないわ」
原型をとどめないほど修正された文は、美しく整えられて不満のつけようなどありはしない。
「ただこんなに直すのなら最初からギルが書けばいいのに、って思っただけ」
「殿下」
静かな声がほんの少しだけ叱責の色を宿す。小さな子供を言い含めるような、そんな。
「主語と述語を意識する、ご自身が今何を伝えようとしているのか明確にイメージする、それだけでも文章は格段に読みやすくなります」
彼の頭脳にかかれば、小娘の戯言を会合で話すに値する文章に直すことなど造作もないことだろう。
「また分からない語句は辞書を引くことと、かねてより三十二回ほど申し上げたはずですが」
この人はいつも正しい。だからエレオノーラは何も言い返せなくなる。
「では、明後日の会合までに覚えておいてください」
静かにそう告げると、ギルベルトは執務机の上の資料を片付け始めた。
「あれ、もう終わり?」
普段はこの手のやり取りが午後も続くのに。エレオノーラが首を傾げたら、彼の瞳がすっと鋭くなった。
「本日は、レオニダス殿下がお戻りになるので、国王陛下と王妃殿下を交えて会食だと伺っておりますが」
「あ、そうだったわね」
弟のレオニダスは、国内各地で留学と武者修行の間のようなことをしていた。王宮に帰ってくるのはいつぶりだろう。
「遅れるべきではないかと。お仕度を」
ただでさえ王妃の覚えはよくないのだ。今更どうこうできるとは思わないけれど、きちんと時間に間に合わせるぐらいの努力は見せたほうがいいだろう。
「分かったわ」
促されるがままに、エレオノーラは立ち上がった。会食で一体どんな話をすればいいのだろう。考えるだけで今から憂鬱になる。
「ギルも一緒に来ない?」
だから、目の前を歩く彼の腕を掴んでぎゅっと抱き着いてみた。この人がいてくれたらどれほど心強いだろう。
ギルベルトはエレオノーラより頭一つ分以上背が高い。必然的にぴたりと引っ付いて見上げるような格好になる。顎から首筋にかけての鋭角のラインが綺麗だった。
思わず頬が熱くなる。鮮やかな緑の瞳は、ちらりとエレオノーラを見ただけだった。