嘘の告発で婚約破棄されたので、逆に濡れ衣を着せて陥れます
私が『王宮の夜会』へ足を踏み入れたのは、月明かりが石畳を白く照らし始めたころだった。広大な中庭を抜けると、そこには壮麗なシャンデリアが吊るされた大広間が広がっている。銀の燭台が壁際を優美に彩り、演奏家たちが奏でるワルツの調べが耳をくすぐった。
絹のドレスをまとった貴族たちは、まるで宝石のような笑顔を振りまきながら談笑に興じている。華やかな笑い声やグラスの触れ合う音は、夜の闇を跳ね返すかのように生き生きとしていた。
ファーネス伯爵家の令嬢である私は、毎度のことながら控えめに会場の隅へ身を置く。華やかな場の中心に立てば目立つのは明白だが、それは私の望むところではない。それよりは、視界の端に人々の動きをとらえながらじっと観察しているほうが性に合う。
――もっとも、今宵ばかりはそうもいかないらしい。
「婚約が破棄になるだとか……」
「いや、セドリック殿下はあのミルフィ嬢と――」
そんな囁きが耳に届いてくるのだから、私も否応なく意識せざるを得ない。あまり気分のいいものではないが、それが社交界というものだ。
「……みんな、好き勝手に盛り上がっているわね」
胸元に手を当て、私は小さく深呼吸をする。今夜のドレスは銀糸が淡く光る落ち着いた色合いを選んだ。華美な装飾こそ少ないが、その分、生地の上質さが微妙に際立つ。場に溶け込みすぎず、しかしまったく埋没するほど地味でもない――今の私にはそれがちょうどいい。
――というのも、私は今宵、正式に第一皇子セドリック殿下から婚約破棄を言い渡される予定だからだ。
第一皇子の婚約者という立場は私にとって半ば“押し付けられた”ものだったけれど、周囲からは「王太子妃候補」としてそれなりの注目を浴びてきた。
しかしここ最近、セドリック殿下が寄り添うのは“可憐で愛らしい”と評判のミルフィ・ローレライ嬢だ。彼女との親密な噂は絶えず出回り、周知の事実となっている。
貴族たちの間でも「いずれ婚約破棄が公になるだろう」と囁かれており、すでに私自身も覚悟はできている。もともとセドリック殿下に対して強い恋慕を抱いていたわけではないとはいえ、こうも公然と“破棄”を宣言されようとしているのは、心中穏やかとは言い難い。
――しかし驚きや悲しみはあまりない。むしろ、彼らが今宵繰り広げるであろう“茶番”を、どこか冷めた視点で観察しようと決めていた。
私は、実は“前世”の記憶を持っている。今の世界からすると異世界――もっと科学技術が発展した、企業が動かす社会――で経営企画に携わり、数多くの危機管理や組織立て直しに取り組んできた経験がある。その経験を今世で活かす形で、密かに商会を伸ばしていたのだが……昨今の政治情勢とも重なり、王家に睨まれているような状況だった。
ファーネス伯爵家には代々受け継がれてきた商会がある。名目こそ"伯爵家の副業"だが、実際は王都をはじめ全国に支店を置き、地域商人との共同出資も盛んな大きな組織だ。
私は前世の経営企画の知見を活かし、会計システムの改革や在庫管理の見直し、都市部への販路拡大などを徹底した結果、"ファーネス商会"は急成長を遂げた。王都の商人たちからは「伯爵令嬢の手腕がすごい」と噂されるほどだ。
しかし、保守的な貴族層の中にはそれを快く思わない者も多い。近年財政が傾きかけている王室のメンツを保つため、第一皇子セドリックは私を排除しようと画策している――私はそんな情報を密かに得ていた。ミルフィ嬢の甘い言葉に溺れるセドリック殿下は、彼女の入れ知恵もあって、私への攻撃材料を着々と用意しているらしい。
「……さて、幕が上がるのはもうすぐね」
華麗な音楽が鳴り響き、夜会の始まりを告げるファンファーレが高らかになる。大広間の中央では、舞踏曲が始まり多くの貴族がペアを組み、優雅に回り始めた。
私は相変わらず、壁際に留まって様子を窺う。きっと程なくしてセドリック殿下やミルフィが、私の存在をちらちらと気にし始めるだろう。今日は向こうが“仕掛けてくる”――私はそう踏んで、じっと静観を決め込んでいた。
視線を動かせば、セドリック殿下の姿が見える。燃えるような深紅の礼装をまとい、ミルフィ嬢をエスコートしながら堂々と歩いていた。彼女は小動物のように愛らしい瞳を潤ませ、殿下の腕に寄り添っている。
それは周囲に対して「二人は既に特別な関係」というメッセージを示すのに十分だった。
「……まあ、こんな展開になるだろうと思っていたけれど」
思わず呟いた途端、セドリック殿下が大きく手を掲げた。
大広間に集う貴族たちの視線が一気にそこへ注がれ、ざわつきが止まる。どうやら夜会の場を使って、大演説でもするつもりらしい。彼はいつもの高慢な立ち姿をさらに強調するように、背筋を伸ばして声を張り上げた。
「皆の者、耳を貸してほしい!」
それまで優雅に流れていた舞曲の音色が、一瞬にして緊張感を帯びる。貴族たちの意識は第一皇子セドリックと、その隣で楚々と震えるミルフィ嬢に集中していた。
まるで“悲劇”か“感動的な告白”でも行われるかのような雰囲気。しかし、私は知っている。今から始まるのは、私を陥れるための“筋書き”だということを。
「本日ここに集う貴族諸卿に重大な報せがある。――私の婚約者であるファーネス伯爵家の令嬢、エヴリン・ファーネス。彼女が営む『ファーネス商会』には、国家を揺るがす"闇取引"の疑惑があるのだ!」
セドリック殿下が高らかに告発を口にした瞬間、大広間は大きくどよめいた。まさか王太子が伯爵令嬢を名指しして糾弾するとは、想像していなかったのだろう。
私は襟元を正しつつ、静かに目を細めた。驚いたふりをする必要はない。既定路線だったからこそ、落ち着いて返せる。
「わたくし……エヴリン様を心から尊敬しておりました。けれど、真実を知ってしまったのです」
ミルフィが涙ぐんだ瞳で、悲壮感たっぷりに声を震わせる。いかにも“か弱い令嬢”が裏切られたという印象を周囲に与えようとしているのが見え透いていた。
貴族の中でも、セドリック殿下に近い保守派の面々が即座に同調し、ミルフィ嬢への同情の声を上げ始めた。「あんな優しいミルフィ嬢を泣かせるなんて……」という囁きは、彼女の美貌と健気さを知る者たちの間で広がっていく。一方で、他の貴族たちは、この突然の告発に戸惑いの表情を浮かべていた。
「ファーネス商会は違法な組織と手を組んで、闇の資金を動かしていると聞きました。王宮の印まで偽造して国王陛下を欺こうとする、恐ろしい取引です……」
その言葉に合わせるように、セドリック殿下が吠えるように続ける。
「この場で断じておく! ファーネス商会が王国を混乱に陥れる所業を働いているのは明白だ。よって、私はこの場をもって――エヴリン・ファーネスとの婚約を破棄する!」
噂で囁かれていた婚約破棄が、ついに第一皇子の口から宣言された。その瞬間、会場中が凍りつくように静まり返った。
誰もが私の反応を窺っているのがわかる。きっと「泣き崩れるか」「愕然とするか」「動揺して取り乱すか」を期待しているのだろう。けれど私はただ静かに息を整え、微かに微笑んで、深々と一礼した。
「……承知いたしました」
ざわめきがいっそう大きくなる。あまりにあっさりと受け入れた私の様子に、驚きと不信の入り混じった視線が降り注いだ。セドリック殿下もミルフィも、予想外のリアクションに戸惑ったように目を見合わせている。
当然だろう。彼らは「嘆きと絶望に暮れるエヴリンをさらに踏みにじる」ための段取りを用意していたはずだから。
「……ファーネス商会の闇取引は、近く王宮内の審問所にて究明される。お前の罪が晴れることはありえまいが、最後の機会として弁明の場は与えてやる。――それまでに身を正しておくがいい」
セドリック殿下が吐き捨てるように言い放ち、ミルフィも悲しげな目元で私を見つめる。だが私の胸には、さほど痛みも屈辱も湧いてこなかった。むしろ心中では、この場が“出発点”なのだと冷静に捉えている。
彼らが今まさに「こんな証拠を握っている」と見せびらかし、周囲に印象づけようとしている捏造書類がどれほど杜撰なものか――私はすでに裏付けを取っている。あとは王宮の審問所で、彼らの嘘と不正を逆手にとるだけだ。
「セドリック殿下、そしてミルフィ嬢――お気持ちはわかりました。どうぞ、納得のいくまで“真実”を追究してください。私としても、きちんと事実を証明いたしますので」
私が落ち着いた口調で言葉を返すと、一部の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。中には、何か裏があるのではと察する賢い者もいれば、第一皇子の威光やミルフィの愛らしさに心を奪われる者もいる。貴族たちの間で、様々な憶測が飛び交い始めていた。
夜会はそのまま奇妙な熱気に包まれて続いた。セドリック殿下とミルフィは得意気に貴族たちと談笑しながら「ファーネス伯爵令嬢がどれだけの悪事を働いていたか」と吹聴して回っている。私は必要最小限の挨拶だけ済ませると、再び壁際へと身を引いた。
「――思ったよりずっと、見え透いたやり口ね」
私の遠縁にあたる公爵令嬢が心配そうな顔で近づき、小声で訊ねてくる。
「エヴリン様……大丈夫なの? あまりにも理不尽な仕打ちだわ……」
「ええ、心配しないで。すべて想定内。ここで騒ぎを起こすより、審問所でまとめて反撃したほうが効果的だから」
その言葉に彼女はホッとしたように微笑んで、「何かできることがあれば言ってね」と小さく囁いて離れていった。
そう――この夜会で確かめたかったのは、彼らが本当にどれほどの捏造を仕込んでいるか、どの程度の協力者を得ているか、そしてどれだけの“政治的背景”があるのかということ。私にとっては、ここで恥をかかされることよりも、情報を得るほうがずっと重要だったのだ。
ファーネス伯爵家の当主である父は、王宮の内情に疎くはないものの、基本的に「商会は娘に任せよう」と私を信頼してくれている。一方、王宮全体を統べる国王陛下は近年ご高齢で公務を縮小しており、実質的に政務の多くを第一皇子に委ねている状態。
ところが、このまま王太子が公務を独占してしまうと、王国の財政や外交は悪化していくばかり――すでに重税で王都の商人が悲鳴を上げているし、国境付近の防備にも予算が回せない状況だ。にもかかわらず、セドリック殿下は"民衆の不安を和らげる"と称して一時的な減税を行い、その穴埋めとして貴族や商会から無理な献上金を求めたり、"国威発揚"の名目で無駄な祝祭を開いたりと、場当たり的な政策を繰り返している。
そんな中で、私が立ち上げた"会計管理システム"や"在庫網の見える化"は、王室の財政にも少なからず影響を及ぼしていた。もしこのシステムが本格的に稼働すれば、これまで隠蔽されてきた横領や裏金が露見してしまう可能性がある――そう警戒したセドリック殿下が、私を排除しようとしているという噂も耳にしていた。
(なんにせよ、私の存在が彼らにとって邪魔ということには変わりない……)
夜会の最中、私はそんなことを思いながらグラスの中の果実酒を軽く傾ける。玉座に君臨する国王陛下は、夜会には顔を出していない。体調が優れないのか、あるいは意図的に姿を見せていないのか。どちらにせよ王宮の実権は今やセドリック殿下に傾き、“王妃”もまた病床に伏せがちだと聞く。これでは第一皇子の専横を止める人が少ないわけだ。
「ふん……エヴリンめ。いい気にならないことだな」
「ミルフィ嬢のおかげで、あの高慢な伯爵令嬢も失脚か」
ちらほらと私を嘲る声が聞こえてくるが、気にする気はない。どうせ彼らは、勝ち馬に乗っておこぼれを狙っているだけの輩だ。
私は見守るだけ見守ったあと、タイミングを見計らって夜会場を後にした。セドリック殿下とミルフィが“勝ち誇った”顔でいるうちに退場するほうが、彼らには都合がいいだろうし、私も長居して騒ぎを起こす必要はない。
侍女を伴って大広間を出ると、夜会の熱気は廊下を抜けるうちに徐々に遠ざかっていく。大理石の床を踏みしめるたびに、ヒールの音が冷ややかに響いた。
広い回廊に出ると、石畳の上を滑るように月光が差し込んでいる。私はちらりと外の夜空を見上げた。
――「今夜は序章に過ぎない」
そう胸の中で呟き、馬車に乗り込む。
いつか彼らが知るだろう。偽りの証拠を振りかざした者こそが、自らの足元を崩されることになるのだと。
--------------------------------
夜会から帰還した私は、邸の執事や侍女が出迎えるホールを抜けて、そのまま自室へ向かった。
鏡台の前でドレスを脱ぎ捨て、丁寧に髪をほどく。疲れは感じるが、気を抜けばすぐに意識が雑念に絡め取られそうだ。私は眠る前に、どうしてもやらなければならないことがあった。
「今から書斎にこもります。トリスタンが来る予定があるから、通してちょうだい」
執事にそう告げると、彼は会釈して「かしこまりました」と短く応じる。どうやら、私の言う“トリスタン”がすでに到着しているらしい。
書斎に足を踏み入れると、そこには宰相の息子にして私の協力者であるトリスタン・バルフォアが待っていた。
落ち着いた物腰と知的な雰囲気を漂わせる彼は、王宮内でも一目置かれる存在だ。宰相府の補佐として官吏の監督業務にも携わっているだけあって、公的文書の偽造や王宮印の扱いに詳しい。今回の件では、私にとって欠かせない協力者だ。
「――エヴリン様。夜会のほうは予定どおり、婚約破棄の宣言がなされたようですね」
そう言いながら、トリスタンは静かな視線を向けてくる。
「ええ、セドリック殿下は自信満々で捏造書類をちらつかせるつもりのようだわ。ミルフィ嬢も含めて、これで一気に私を断罪しようとしている。……あなたには改めて感謝しているの。私が気づかないところで官吏が印章を使いまわしている証拠を掴んでくれたのでしょう?」
トリスタンは軽く息をついて頷く。
「はい。宰相府のほうで調査したところ、やはり王宮印の管理簿に怪しい空白日や身分証明の不一致がありました。さらに、ミルフィ嬢の護衛を務める役人が深夜に印章保管室へ出入りしていた記録もあります」
「なるほど。あまりにも露骨な行動ね。さすがにそこまで荒い手口を使うのは想定外だったけれど、こちらとしては証拠を集めやすくなって助かったわ」
私はそう言いながら、机上に広げられた帳簿の一角を指し示す。
そこには、私自身が運営する“ファーネス商会”の会計データをまとめた独自のシステムによる記録がある。前世の知見を活かし、取引日・時刻・発注元・在庫数・倉庫ロケーションなどを徹底的に細かくデータ化しているのだ。一般の商会であれば、日付や金額を大雑把にしか書かない。けれど私の商会は違う。
さらに、王宮と関わりのある公的許可証の発行日や押印日も、できる限り照会している。これも、前世でのERPシステムの構築や監査経験があったからこそ実現できたことだった。
「トリスタン、あらためて確認しましょう。この書簡と、セドリック殿下が用意している捏造書類の突き合わせはほぼ準備できているのね?」
「もちろんです。あちらが審問所で提示したら、こちらは日付や押印者を照会するだけで不正が暴露されるでしょう。……もっとも、あちらも王太子派の官吏を動かして上手くごまかそうと画策している気配がありますが」
私は軽く肩をすくめる。
「ごまかそうにも、実際の会計記録に整合性がない以上、言い逃れは難しいと思うわ。――あとは、第一皇子がどうしてこんな危険な手段に出たか、その背後関係も注目されるでしょうね。ミルフィ嬢に唆されているのかもしれないけれど、あの人はいま、財政状況の悪化で首が回らないのかしら?」
王宮財政の混乱は、私もある程度把握している。国王陛下が高齢で公務を半ば放棄し、王太子であるセドリック殿下が王家の金庫を自由に使っているという話だ。飽くなき虚栄心と貴族たちへの"取り入り"に散財している一方、軍備やインフラ整備には予算が回っていない。
それでも王族である以上、まったくお金が無くなることはないのだろうが、国家の信用度が下がれば、大きな綻びを生むのは時間の問題だ。そんな中、私の"ファーネス商会"が台頭してきた。もし私が第二皇子ハインリヒ殿下に近い立場になれば、セドリック殿下の権力基盤が揺らぐ。
――だからこそ、私を早めに失脚させてしまおうというわけだ。もしくは、私の商会を王室の完全な支配下に置きたいのか。
「第一皇子としては、真っ先に"王家への献金"を強要するか、あるいは闇取引の罪をなすりつけてファーネス伯爵家を屈服させる狙いがあるのだと思います。いずれにせよ、王太子としての立場を大きく失うリスクを背負ってでもやろうとするのは、背に腹は代えられぬ状況なのでしょう。ミルフィ嬢も、そこを巧みに利用して殿下を操っているように見えます」
トリスタンが低く言う。
「……だとしても、あまりにも浅はかだわ。まあ、あちらが捏造を突きつけてくるなら、それを逆手にとって盛大に返すだけよ」
私たちは顔を見合わせ、決意を新たにする。
結局、セドリック殿下が"捏造"という極端な手段に走る理由は、王家の財政状況のひっ迫と、第一皇子としての自尊心にあるのだろう。何が何でも地位を守り抜きたい――そんな焦りがあるからこそ、彼はミルフィの甘言に乗せられ、汚い手を使ってでも私を排除しようとしている。
この国にとって、本来なら財務改革や外交再調整など優先すべき課題は山積みだというのに、殿下は私的な意地と虚栄に囚われている。だからこそ、私も退くわけにはいかない。ファーネス商会を守るだけでなく、この国がさらなる悪政に染まるのを黙って見過ごすわけにはいかないのだ。
やがてトリスタンは夜の明ける前に宰相府へと戻っていった。私は少しだけ仮眠をとり、朝に備える。
前世で培った“経営企画”の知識――それは、単に数字を扱うだけではなく“局面を見極め、相手の裏を読む戦略的思考”でもあった。ここはまさに、その力量を問われる場面だろう。
軽い眠りの中で、私はうっすらと前世のオフィス風景を思い出していた。深夜まで続く会議、山積みの資料、締め切りに追われる日々。それでも諦めずに分析を重ね、戦略を練り、チームを導いた記憶が鮮明に蘇る。あの時も、数字の裏に隠された真実を見抜き、相手の意図を読み解くことで、幾度となく危機を乗り越えてきた。
今回の状況も、本質は変わらない。相手の弱点を見極め、証拠を固め、そして決定的な一手を打つ。前世で培った経験は、この異世界でも必ず活きるはずだ。私は静かに目を閉じた。
--------------------------------
夜会から二日後、私のもとに“王宮からの召喚状”が届けられた。
宰相府の名義で正式に「審問所への出頭要請」が記されており、日時や場所が細かく書き込まれている。まさしくセドリック殿下が夜会で宣言したとおり、「ファーネス商会への闇取引の疑惑を調べる審問」が近々開かれるらしい。
父の伯爵もそれを知って苦い顔をしていたが、私は落ち着いて「想定の範囲内です」と伝えた。
――その日の昼下がり、私は馬車で王都中心部の店舗を視察したあと、念のため王宮近くへ足を運んだ。外堀を固めつつ、どこまで王宮が混乱しているか、自分の目で見ておきたかったのだ。
王宮の正門前には、普段以上に多くの近衛兵が立っている。噂によれば、内部でも「第一皇子の独断専行が目立つ」「国王陛下の命令がはっきりしない」など、さまざまな不満がくすぶっているという。
門の手前で馬車を降り、遠巻きに観察していると、不意に見慣れた姿が視界に入った。第二皇子ハインリヒ殿下だ。
第一皇子セドリックの弟にあたる彼は、王宮内でも徐々に発言力を高めていると噂になっていた。真面目で実直な気性と評判だが、派手に政治の表舞台へ出ることは少ないらしい。
そんな彼が、私に気づいたのか、門のところで足を止める。傍付きの書記官らしき人物と何やら話していたが、促すように視線をこちらに向けてきた。
――私は少し迷った末、近くの衛兵に声をかけて「第二皇子殿下にご挨拶できるか」と尋ねる。突然のことなので断られるかもしれない。が、意外にもすんなり通してもらえた。
そして、ハインリヒ殿下のほうも、私が現れた意図を察したのか、落ち着いた面持ちで立ち止まってくれている。
「……エヴリン・ファーネス嬢、ですね。夜会での出来事は聞いております」
少し低めの声。殿下は私の姿を正面から捉えると、静かに目を伏せるようにして言う。
「兄上があなたを糾弾なさったとか。しかし、私はまだ事の真相を見極めたいと思っている。……あなたがどのような意図で動いているかも、確かめたいのです」
私は胸の内でほんの少し緊張する。第二皇子ハインリヒは、セドリック殿下とは異なるアプローチで国政を見ているという噂がある。私が前世の知識を応用して“商業の合理化”を図っているという話は、彼の耳にも入っているだろう。
半歩踏み出し、私は静かに礼を取る。
「初めまして……改めて、ご挨拶申し上げます。ファーネス伯爵家のエヴリンと申します。……審問所の件、殿下には何かお伝えすべきことがあるでしょうか?」
ハインリヒ殿下は周囲に人がいないことを確かめてから、声を落として言葉を継いだ。
「正直に言いますと、私個人は兄上のやり方に疑問を抱いております。あなたの商会が急激に台頭しているという話は耳にしていましたが、違法行為を働いているという証拠は見当たらない。むしろ王都の商人たちからは“エヴリン嬢の手腕は本物だ”と賞賛する声が多いくらいです。――しかし、だからこそ兄上は危機感を募らせている」
その言い方から察するに、ハインリヒ殿下もセドリック殿下の暴走を止められずにいるらしい。王妃が長く病床に伏せており、国王陛下も執務を縮小している今、第一皇子に意見できる人はごくわずか。宰相も年配で、慎重すぎるあまり殿下を放任している節がある――そんな背景も聞こえてきている。
私は軽く息をつく。
「――もし本当に、私たちファーネス商会が“闇取引”をしているなら、審問所で証拠が示されるでしょう。でも、それが捏造であるなら、逆に私たちは堂々と真実を明かすまでです。……殿下は、どちらを信じてくださるのでしょうか?」
ハインリヒ殿下は少しのあいだ言葉を発しなかった。優しげな青い瞳は、どこか戸惑いを秘めている。しかし、やがて苦渋の表情を浮かべながら静かに答える。
「今はまだ断定できません。ただ――私は、この国の財政や民衆の困窮をどうにかしたいと思っている。もしあなたが、その改善に役立つ知恵をもたらしてくれるのなら……」
そこで殿下は言葉を切り、あたりを警戒するように周囲を見回す。人々の視線が増え始めたのを感じたのかもしれない。
「いずれまた、正式に話を伺いたい。――今は私にも、兄上を正面から批判できるだけの後ろ盾が足りないのです。保守派の貴族たちは強固な結束をもって王太子を支持していますから……」
そう言い残すと、殿下は足早に衛兵たちのもとへ戻っていく。かくして、私はわずかな言葉を交わしただけで立ち去らざるを得なかった。
だが、今の短いやり取りでも十分に感じられた。第二皇子ハインリヒ殿下は、このままセドリック殿下の独走を容認していない。 しかし、彼はまだ実権を握っていない立場ゆえ、下手に兄を批判すれば、自分が王宮から追放されかねない。
ならば――私が“捏造”を暴き、第一皇子の不正を証明できれば、ハインリヒ殿下は動き出すかもしれない。
そうなれば、この国の政治は大きく転換する余地があるはずだ。これを機に保守派を一掃し不正やあらゆる歪みを直せば、王宮財政を立て直すことだって決して不可能ではない。
けれど、そのためには私自身が審問所で勝利しなくてはならない。偽りの罪に問われ、逆に潰されるわけにはいかないのだ。
(……仕掛けは、こちらに十分にある。あとは審問所で、どれだけ上手く組み立て反論できるか――)
私は心中でそう呟きながら、王宮を後にした。背後では近衛兵がまだ厳戒態勢を敷いている。あの門の向こうでセドリック殿下が何を画策しているのかはわからないが、時間の問題で真実が白日の下に晒されると信じている。
――先に仕掛けたのは彼ら。私はそれを逆手に取るだけだ。
--------------------------------
王宮の“特別審問所”で審問が行われるまで、さらに数日を要するとの連絡があった。そこで私たちは、その間に入念な準備を整えることにした。
とはいえ、まったく落ち着ける状況ではない。王都の貴族社会では「エヴリン・ファーネスが闇取引疑惑で法廷に立つ」「第一皇子が決定的な証拠を握っているらしい」などの噂が飛び交い、商会の顧客たちも一時は動揺した。
私としては、ここであわてて弁明をしても逆効果だと判断し、公式なコメントは避けていた。替わりに、信頼する幹部たちを通じて「事態を見守ってほしい。いずれ潔白を証明する」と伝えるにとどめる。
そんなある日、私が伯爵家の書斎で資料を整理していると、父であるファーネス伯爵が珍しく重苦しい表情で訪ねてきた。
「エヴリン……どうやら保守派の有力者がこぞってセドリック殿下を支持しているようだ。王太子への忠誠を誓わないと、うちの商会が潰されるかもしれないなどと脅しをかけてきた」
私は顔を上げ、父の疲れた様子に心が痛んだ。
「ごめんなさい、お父様。私のせいで迷惑をかけてしまって……」
「いや、謝る必要はない。お前はファーネス商会をここまで伸ばしてくれた。そして私は、お前のしてきたことが誇りでもある。王太子がどう騒ごうと、ファーネス伯爵家はお前を信じる」
父の言葉に、胸が熱くなる。私は小さく微笑み、意を決して応じる。
「ありがとうございます。……必ず、審問所で全てをひっくり返してみせます」
父は何度か頷いてから、思い出したように小さく付け加える。
「どうやら陛下も、今回の騒動は看過できないようで、審問所に“立会人”を置くように指示なさったらしい。兄王子を止められないにしても、最低限の手続きを踏む必要はあると判断したそうだ」
「陛下自らのご意向……? ということは、国王陛下が何かしら動いてくださる可能性があるのね」
「ああ。しかし、陛下ご自身はお体がすぐれない。代わりに、ある程度信頼できる方を“立会人”として指名するのではないか、という話だ。……詳しいことはまだわからんが」
なるほど。第一皇子が王国の事実上の執政者といっても、最終的には国王陛下が黙っていないということか。王太子として余計な不正を露呈してしまえば、陛下の逆鱗に触れかねない。
そうなれば、セドリック殿下の地位も危うくなるだろう。やはり彼がこの審問で決着をつけようと焦るのは、そういう背景もあるからに違いない。
その夜、私は執事から「第二皇子ハインリヒ殿下が密かにご面会を求めておられます」と告げられた。どうやら殿下が極秘に伯爵邸を訪れたらしく、周囲に知られないように私と直接言葉を交わしたいという。
夜会の一件以来の再会になる。私は少々驚いたが、急いで応接室へと向かった。
応接室のドアを開けると、そこには控えめな外套を羽織ったハインリヒ殿下が一人きりで待っていた。
「夜分に失礼する。……今はあまり表立って動けないので、こうして密かに来るしかなかった」
殿下は苦笑ぎみに言い、私を見つめる。その瞳にはわずかな焦燥と葛藤の色が浮かんでいるように見えた。
「いえ、こちらこそ驚きましたが……よくお越しくださいました。今日は何か特別なお話が?」
私は静かに問いかける。殿下は一呼吸置いてから、少し低い声で切り出す。
「近々行われる“審問”で、もしあなたが無実を証明できたとしたら――私は王家の名のもとに、あなたとファーネス伯爵家を正式に保護したいと考えている。……つまり、今のような“危うい立場”ではなく、はっきりと私の陣営に迎え入れたいのだ」
あまりにも直裁的な提案だった。私は目を見張る。
「それは……私と殿下が手を組む、ということですか?」
「そういうことになる。兄上がもし今回の件で失脚すれば、私が次の王太子となる可能性は高い。保守派貴族からの抵抗はあるだろうが、いずれ世論も動くだろう。――そのときに、あなたの商業的知識が大きな力になるはずだ」
ハインリヒ殿下は、そこまで言うと視線を伏せた。
「私だって、兄上を安易に陥れたいわけじゃない。けれど、国家財政はすでに危機的状況だ。兄上はかつてのように誇り高い人物だったが、今は虚勢と焦りに支配されている。もしこのまま王位を継いでしまえば、国全体が取り返しのつかない破綻を迎えるかもしれない」
苦悩をにじませる殿下の言葉を聞きながら、私も重い気持ちになる。かつては――十代の頃、セドリック殿下に淡い憧れを抱いていた時期もあった。第一皇子としての気高さや、豪胆な物言いが魅力的だったのだ。
だが今となっては、その面影はほとんど消えてしまったらしい。焦りと嫉妬、そして周囲の悪意に飲まれ、彼は自ら破滅の道を歩んでいる。
「……私としても、もし殿下がこの国を正しい方向へ導こうと考えておられるのなら、そのお力になりたいと思います。ファーネス商会をこのまま潰されるわけにはいきませんし、私の持っている商才と経営手腕を活かしたいですから」
殿下が僅かに首を傾げる。
「商才と経営手腕、か。確かにあなたは先日の夜会でも、どことなく普通の貴族令嬢とは違う雰囲気を漂わせていたが……」
「はい。幼い頃から商人たちと交わり、異国の商法も学んできました。具体的には、会計制度や物流管理、融資や出資の効率化などです。私がファーネス商会で実践しているやり方は、普通の貴族にはなかなか馴染まないものかと」
私は淡々と説明した。これまでの経験と実績を語るだけで十分だろう。
ハインリヒ殿下は静かに目を伏せたまま、言葉を選ぶように続ける。
「わかった。……ともかく、私は兄上の捏造が暴かれることを望んでいる。そしてあなたが無事にそれを乗り越えられるならば、私は公にあなたを支持する。保守派を説得するには、まだいろいろ手間がかかるだろうが、王家があなたを後押しすれば、そう簡単に干渉されないはずだ」
それは事実上の“婚約”の打診にも近い提案だろう。第一皇子との縁談が消えた今、“次の王太子候補”であるハインリヒ殿下と結びつくならば、私が王太子妃になる可能性が浮上する――その展開を、保守派がどう捉えるかは別として、王家の力を味方につけられるのは大きい。
一方で、あまりにも急な話ではある。セドリックとの婚約が破棄されてから数日しか経っていないのに、もう第二皇子との“政略婚”が取り沙汰されるだなんて、社交界の噂はますます過熱するだろう。
しかし、殿下の表情を見れば、その表面には迷いの色が浮かんでいる。つまり“これしかない”と腹をくくったわけではない。おそらくギリギリまで慎重だったのだろう。それでも動かざるを得ないほど、国の窮状が深刻なのかもしれない。
「本格的な話は、審問所が終わってからでもよろしいでしょうか。私が無実を証明できたら、そのとき改めてご相談させてください。今はまず、その審問を乗り切ることが最優先ですので」
私がそう返すと、殿下は安堵したように口元を緩めた。
「そうだな。私も今は、兄上がどんな手段を用いてくるのか把握しきれていない。保守派の動きも不穏だ。……だが、あなたには期待しているよ、エヴリン。必ず生き残ってほしい」
殿下が立ち上がり、夜の闇を振り払うように軽く外套の裾を翻す。私もソファから腰を上げ、深く一礼した。
こうして密やかな面会は終わったが、私の胸にわずかな光明が宿った。
王太子の暴走を阻止したいという思いが、第二皇子ハインリヒのなかには確かにある。だからこそ、彼は私の“ビジネスの才”に目を向けている。その点では、私も利用される立場だろう。けれど、私としては彼を利用することにもなる。お互いの利害が一致するのなら、この同盟は悪くないかもしれない。
(――まずは審問所での“勝利”が最優先ね。すべてはそこから)
夜空に消えるように去っていくハインリヒ殿下を見送りながら、私は静かに拳を握った。
--------------------------------
そして、いよいよ“審問当日”がやってきた。
特別審問所と呼ばれるその場所は、王宮の一画にある重厚な石造りの施設で、内部は簡素な法廷のように整えられている。
私は父やトリスタンらと連れ立ってそこへ向かった。入り口には武装した近衛兵がずらりと並び、内側には宰相府の官吏や貴族たちが固唾をのんで待機している。
審問官の卓には、国王陛下から派遣された“立会人”として大法官が座っていた。この人物は国王の信任が厚いとされる老齢の男性で、良識のある人物と評判だ。一方、第一皇子セドリックとミルフィ、その取り巻き官吏たちも既に席を占めていて、私を睨みつけるような視線を送ってくる。
中央の“証言台”らしき場所に進むと、審問官が書類を整えて開口する。
「これより、ファーネス商会に係る闇取引疑惑について審問を行う。――第一皇子セドリック殿下とミルフィ・ローレライ嬢、そちらの主張を伺おう」
合図とともに、セドリック殿下が堂々と立ち上がり、燃えるような瞳で私を見下ろす。
「王太子として、国に仇なす不正を見逃すわけにはいかぬ。――エヴリン・ファーネス、そしてファーネス商会は、違法組織と結託し闇資金を流していた。その証拠がこれだ!」
彼らの取り巻き官吏が、大量の書類を審問官のもとへ運ぶ。そこには“王宮印”が押された取引許可証や、ファーネス商会の裏帳簿を装った文書など、さまざまな書類が並んでいる。
周囲の貴族たちからどよめきが起こる。「まさかこれほどの量とは……」「ここまで詳細なら動かぬ証拠だろう」――そんな声が飛び交う。しかし私は、すでに冷静な面持ちを崩さない。
セドリック殿下はさらに声を荒らげる。
「ファーネス商会は王宮の公的印を不正に入手し、闇の組織と密約を交わしていた。この書類を見れば一目瞭然だ。――ミルフィ、続けろ」
合図を受けたミルフィは、儚げな表情でうつむき、震える声で語り出す。
「……わたくしは、エヴリン様を慕っておりました。でも、あまりに奇妙な噂が耳に入ってきて、こっそり確かめたのです。すると、この印章が押された手紙が……あまりに恐ろしゅうございましたわ」
彼女の涙ながらの訴えに、一部の傍聴席から「ミルフィ嬢がそこまで言うなら……」という同情が集まる。王宮をも欺こうとするファーネス商会――そんなイメージが醸成されていく。セドリック殿下はそれを確認するように顎を引き締めた。
「以上が我々の主張だ。審問官よ、ファーネス商会は断罪されるべきだろう」
審問官の視線がこちらに向く。沈黙の中で、私はゆったりと立ち上がり、用意していた書類を掲げた。
「――今の説明、大変興味深く拝聴いたしました。では、私どもの見解も述べさせていただきます」
その落ち着き払った態度に、一瞬、周囲がざわつく。
私は書類の束の一枚を取り出し、審問官に手渡しながら宣言する。
「まず、こちらをご覧ください。ファーネス商会の会計システムで管理している正式な帳簿です。ここには取引日時、数量、相手先、さらには私たちが導入した“倉庫在庫”の詳細や納品ルートが時刻付きで記録されています。――ご存じのとおり、このように細かい在庫管理を行っている商会は、現状そう多くはありません。もともと、私が海外の文献を独自に調べ、導入したシステムなのです」
書類をめくる審問官や書記官、そしてその後ろにいる大法官の老紳士たちが息を呑む。「こんなに詳細な帳簿をつけているのか」「日々の仕入れや納品の時間まで正確に……?」と驚いている声が上がる。
私はさらに畳みかけるように言葉を続けた。
「一方で、セドリック殿下が提示なさった取引書類には、いくつかの矛盾があります。例えば、この日付――王宮の事務が一切行われていないはずの休日に、なぜか公的印が押されている書簡があるのです。さらに、押印担当者とされる官吏の名前は、その日に出勤していない記録が別にある。……つまり、これらの書類は“押印日”と“署名者”が一致しない“捏造書類”の可能性が高いのです」
ざわめきが一気に広がる。セドリック殿下の顔色が変わるのが、私にもはっきりわかった。
しかし彼は引き下がらない。
「そ、それはたまたま臨時対応しただけではないのか? 書類の整理が間に合わなかったりして、日付がずれただけ……!」
――そこに割って入ったのは、トリスタン・バルフォアだった。彼は宰相府が管理する王宮印章管理簿を手にしている。
「残念ながら、“臨時対応”の記録が一切ありません。ましてや深夜に印章を持ち出した記録だけが何度も空欄になっている。この管理簿と照合すれば、あれらの文書が正規の手続きを経ていないことが明白なのです」
トリスタンが堂々と証拠を提示すると、会場はもう一段激しくどよめき、宰相府の官吏がすすり寄ってその真贋を確認し始める。
セドリック殿下やミルフィ、それに取り巻きの役人たちも動揺を隠せずにいる。明らかに想定外の反撃だという顔だ。
「……まだあります」
私は静かに言い添える。周囲の視線が、一点に集中するのを感じる。
「ファーネス商会が闇取引をしているどころか、逆に“第一皇子殿下が、闇資金に手を染めている可能性”があると示唆する記録を見つけました」
今度こそ、審問官は驚愕の表情を露わにする。セドリック殿下は「ば、ばかな!」と怒声を上げ、ミルフィも血の気が失せた顔で絶句していた。
私はさらなる書類を取り出す。そこには、私たちが独自に追跡した不審な口座の送金記録が克明に記されており、差出元がどうやら殿下の資金とつながっているらしいデータも含まれていた。
もちろん、私とトリスタンが連携し、わざと“彼らの捏造よりも巧妙な方法”を使って仕上げた“逆捏造”の可能性もある。...というか、それが事実だ。
だが、それを完全に見抜くのは難しいだろう。何より、セドリック殿下が王宮印を私的に流用していた“事実”がほぼ押さえられている以上、彼が反論できる余地は限りなく小さい。
「これは……由々しき事態だ」
審問官が苦渋の表情で唸る。立会人の大法官が沈黙を破るように、厳かな口調で言う。
「真偽は慎重に調べねばならん。しかし、第一皇子殿下の関与が疑われる以上、これ以上の強引な断罪はできぬな」
会場が大きく揺らぎ、近衛兵が明らかにセドリック殿下を警戒するような動きを示す。
殿下は猛然と食ってかかる。「私を侮辱するな! 私は王太子だぞ! こんな帳簿一つで、何が証明できるというのか!」
しかし、トリスタンが冷静に言い放った。
「殿下がそのようにおっしゃるのであれば、さらに精密な調査を行いましょう。こちらにはまだ“王宮内で不正な金の動きがあった”と示す資料が複数あります。私も宰相府の命を受けて調べていますので、真実が明らかになるのは時間の問題です」
その言葉を受け、審問所内の空気がまるで嵐のように動き出す。保守派と思われる貴族たちが「そ、そんな馬鹿な!」「すべてエヴリン・ファーネスの策略ではないのか!」と喚くが、冷静に考えれば、王宮印の管理簿や出退記録を誤魔化すのは容易ではない。むしろ第一皇子サイドのほうが偽造に強く関与していたという事実が露呈しつつあるのだ。
「…………くそっ!」
セドリック殿下は悔しげに拳を握りしめ、ミルフィは嗚咽を漏らしながら「わたくしは……そのような事実、一切存じません……」と泣き崩れた。彼女も積極的に捏造に加わっていたはずだが、完全否認で自分の立場を守るつもりなのだろう。
審問官が大きな木槌を打ち鳴らす。
「静粛に! ……まずはこれらの書類の真偽を精査し、第一皇子殿下にも事情を聴く必要がある。ファーネス商会の罪状は、今のところ裏づけに乏しいと判断せざるを得ん。――近衛兵よ、殿下や関係者を厳重に監視するのだ」
一瞬、場内は大混乱に陥る。第一皇子を監視しろという審問官の指示に、兵たちは一瞬ためらうが、すぐに王国の法を優先して動きを開始した。そこへ大法官が重ねて宣言する。
「国王陛下もこの事態を深刻に受け止めておられる。王太子であろうとも、捏造が事実ならば処断は免れまい。……そなたら、覚悟しておけ」
その言葉を前に、セドリック殿下は顔面蒼白になり、怒りに震えながらもどうにもできない様子だった。周囲の貴族たちも「そこまでやるのか……」「まさか殿下が拘束される……?」と動揺を隠せない。
私は静かに息を吐き、証言台を下りる。しかし、私の心情は決して浮かれてはいなかった。
(――これから先、この国はどうなってしまうのだろうか……)
王太子が不正に手を染めた疑いで追及されるとなれば、王宮はしばらく大混乱に陥るだろう。保守派の貴族たちはセドリック殿下を擁護しようと必死になるだろうし、他方で第二皇子ハインリヒを推す声が高まるかもしれない。
その渦の中で、私もまた“第二皇子のパートナー”として祭り上げられる可能性がある。それは、私の望みでもあり、同時に重い責任でもあった。
「……ファーネス商会への疑いは、事実上ここで晴れたも同然。エヴリン嬢、ご無事で何よりです」
宰相府の一員がそう声をかけてきた。私は会釈するしかない。
いずれにせよ、“捏造”を“捏造”でひっくり返す形になった以上、私も決して綺麗な勝利とは言えない。しかし、この場ではそれしか手立てがなかった。結果として、第一皇子の不正が明るみに出た――もう後戻りはできない。
--------------------------------
審問所での大逆転から数日後、王太子セドリック殿下は“捏造公文書使用の疑い”で公式に身柄を拘束されることになった。もっとも、王族の身分ゆえ厳重な部屋での軟禁という形だが、それでも事実上の失脚に近い。
ミルフィ・ローレライ嬢も同様に取り調べを受け、王宮の離宮へと移送されている。彼女がどこまで自分の意思で捏造に加担していたかは不明だが、もはや同情する気にはなれない。私を“悪役”に仕立てあげるために彼女が演じた芝居は、あまりにも露骨だったから。
こうなると、次に焦点となるのは王位継承だ。国王陛下は高齢かつ体調が芳しくないといわれ、今回の不祥事に激怒したものの、自ら積極的に動ける状態にはないらしい。必然的に残る選択肢は“第二皇子ハインリヒ”を推す声が高まっていく。
ファーネス商会の汚名が晴れたこともあり、私の評価は急激に上昇し、加えて「第一皇子を告発した才媛」という騒がれ方をされている。正直、そんな称号はうんざりだが、これも立場が大きく変わってしまった証拠だ。
ある朝、伯爵邸の応接室で、第二皇子ハインリヒ殿下と向かい合っていた。先日、密かに打診された話を正式に詰める段階になったのだ。
殿下は王宮から書記官を伴っており、テーブルには“婚約条件”の草案が並んでいる。
「……あなたの商会が王都の経済を支えていること、そして将来的にさらに飛躍しそうだということは、私も国王陛下も認めています。陛下のお心が回復次第、あなたの功績も改めて評価されるでしょう。――だからこそ、ファーネス伯爵家と王家が縁を結ぶことは、国政を安定させる大きな一歩になると考えています」
私が差し出された書類をざっと眺めると、そこには“第二皇子とファーネス伯爵家令嬢エヴリンの婚約について”という表題とともに、さまざまな条項が列挙されていた。
たとえば、
ファーネス商会の経営はエヴリンが主体的に行うこと
王家は商会の財務に不当介入しないこと
国政の改革案について、エヴリンが関わる余地を保障すること
……などなど、私にとって有利な条件もきちんと盛り込まれている。保守派の貴族が見れば眉をひそめるかもしれないが、それだけハインリヒ殿下が“本気”で私に協力を仰いでいる証ともいえる。
私はペンを置き、殿下の瞳を見つめる。
「すみません。こんなに早く、ここまで具体的に話が進むとは思っていませんでした。私が第一皇子との婚約を破棄されたばかり、という事実を考えると……」
「もちろん、周囲はあらぬ噂を立てるだろう。だが、こうでもしなければ、保守派の抵抗を押し切れないのだ。兄上の失脚後、王宮内は混乱を極めている。私が仮に王太子に指名されたとしても、すんなり皆が従うとは限らない。――そこで、あなたとファーネス商会の力がどうしても必要なのだ」
殿下はさりげなく眉を下げ、困ったように微笑んだ。
「もしあなたが望むなら、もう少し期間を空けてからでも構わない。だが、今すぐにでも“伯爵令嬢エヴリンは王家と協力関係にある”と示したいんだ。そうしなければ、保守派に動かれる恐れがある。……いや、それどころか、兄上が復権しようと何か策を講じるかもしれない」
セドリック殿下がどこまで諦めているのか、まだ判断はつかない。彼は軟禁状態にあるものの、忠誠を尽くす取り巻きが外で暗躍すれば、一発逆転を狙う可能性もゼロではない。それを考えれば、私が“第二皇子派”についたと明確に打ち出すことは、さまざまなリスク回避につながるのだ。
「……わかりました。私の父もこの話を承諾していますし、私自身、殿下となら国を良い方向へ導けると信じています。保守派がなんと言おうと、もう後戻りはできませんね」
私がそう言うと、ハインリヒ殿下は明るい笑みを浮かべ、私の手をそっと取った。
「ありがとう。……これから先、王宮の政治に踏み込めば、さまざまな策略や攻撃に晒されるだろう。だが、あなたには商会を率いてきた経験と広い視野がある。国の仕組みを一緒に変えていこう」
私は小さく頷いた。これまでの全ての知見を、この国のために使う――それは、私にとっても新たな挑戦だ。もはやただの"伯爵令嬢"という立場ではなくなる。大きな責務と野心を抱えて、私は王宮の中心へと踏み込むことになるのだ。
--------------------------------
かくして、第二皇子ハインリヒとの婚約話は、驚くほど早い段階で公にされることとなった。王宮とファーネス伯爵家が連名で声明を出し、正式に“婚儀を前提としたご縁組を進める”と宣言したのだ。
すると、王都の人々はさらに大騒ぎになる。
「第一皇子の婚約者が、わずか数日で第二皇子に乗り換えた」
「いや、エヴリン嬢はむしろセドリック殿下にはめられた被害者だ」
「彼女の商会が国家を支えているなら、妥当な話かもしれない」
憶測と嫉妬と賛辞が渦を巻く中で、私の評判は急上昇した。ファーネス商会も株を上げ、“あの伯爵令嬢は国を救った功労者”と持ち上げられ、さらなるビジネス拡大を期待する声が後を絶たない。
もっとも、私自身はこの変化をクールに受け止めるしかなかった。派手な称賛は、いつ裏返るかわからない。成功を祝う声が大きいほど、失敗すれば手のひらを返される――それは前世でも味わったことだ。
「……近いうちに、ハインリヒ殿下と新体制の方針をまとめる予定です。王国の財務を抜本的に見直さないと、危機的状況を脱せないでしょう」
私がファーネス邸の執務室で幹部たちにそう告げると、皆そろって頷いた。
「エヴリン様の指導でここまで来たのです。殿下と協力して、より大きな改革をお願いします!」
前世仕込みの経営企画が、ここにきて本領を発揮する時が来たのだ。徴税制度の再構築、道路網や物流インフラの整備、貴族間の利害調整……課題は山ほどある。けれど、この国を良くしたいという意志があれば、きっと乗り越えられるだろう。
――セドリック殿下については、いまだ粘り強く自らの潔白を主張しているとの噂がある。しかし、審問所での証拠が揃っている以上、彼の復活は厳しいと思われる。保守派の中にも、既に彼を見限る動きが出始めているようだ。
かつて王宮を牛耳っていた王太子が、わずかの間で転落する――誰も予想しなかった早さだろう。私自身、これほど急展開になるとは思っていなかった。だが、現実はこうして動き出してしまったのだ。
(“転生者”として、ここまで強引に状況を変えてしまったことに、少しだけ罪悪感もある。でも、もう引き返せない。私はこの国を立て直す一翼を担わなければならない)
自室に戻った後、鏡の前で一人つぶやく。
前世で味わった“挫折”を思い出せば、今の状況はむしろ“好機”だ。自分の判断で組織を動かし、利益を増やし、多くの人の生活を変えていく――あの頃できなかった大きな夢を、今世でこそ実現できるかもしれない。
そう思うと、胸が熱くなると同時に、不安も膨らんだ。でも、もう意志は固い。むしろ怖れていては何も成せないのだ。
――ほどなくして、ハインリヒ殿下との“正式婚約”が取り決められ、私はさらに深く王宮に関わる立場へと変わっていく。
第一皇子の捏造が暴かれ、ファーネス商会の潔白が証明された。それにともない、私の人生は一変した。
伯爵令嬢としての地位はもとより、今や王宮内でも無視できない存在となり、保守派の貴族たちからも一目置かれる。もともと私を見下していた連中が、すり寄ってくる様は滑稽だが、これが権力闘争というものなのだろう。
私は王太子候補となったハインリヒ殿下を支えつつ、商会の事業拡大と国の財政改革を同時並行で進める日々を送ることになる。
――あの夜会で始まった“茶番”は、私の婚約破棄を派手に喧伝するための舞台だった。そのはずが、実際には彼らの捏造が暴露されて、第一皇子こそ失脚へ追い込まれる結果となった。
もちろん、私は前世の知識を最大限に使い、自分も“清廉な正義”だけではない“裏技”を用いたのは事実だ。いつか誰かがその綻びを見つけるかもしれないという不安はある。
けれど今はただ、私に協力してくれる人々の存在と、未来に向かって進める可能性を喜びたい。王太子の地位が空席になった今、次のリーダーを巡る動きはさらに激化するだろうが、私も初めて“王宮改革”のテーブルに着く権利を得たのだから。
「……やはり、この国を立て直すには、より合理的な仕組みが必要だわ。王室の財務体制も見直していかないと……」
書斎で帳簿をめくりながら、私は新たな構想を練っていた。
かつてERP導入プロジェクトで培った経験や、企業買収のノウハウだって、この国の財務改革や領地再編に通じるものがあるかもしれない。
すべては、まだ始まったばかり――
夜会の場で決定づけられた婚約破棄は、私にとっては敗北ではなく、新しい道の始まりだったのだ。
遠くから鐘の音が聞こえる。王都の朝を告げるその響きを聞きながら、私は意を決した。
――この国を変えてみせる。前世で果たせなかった夢を、今度こそ成し遂げるために。