昔結婚していた相手が忘れられない話
10歳の誕生日、目前。
他国へ嫁に出された。
夫となるお相手は、近隣国の王弟ラジェドン様。彼の国は一際強く、豊かな資源を誇っていた。
両国の友好を示す為、結ばれた婚姻。
……そんな話、当時の私ですら信じていなかった。
ラジェドン様の兄は、自身の地位を脅かす優秀な弟を疎んでいた。
婚姻による恩恵も、子も……。ラジェドン様に与えたくなかった国王は、彼の結婚相手に名ばかりの姫を選んだ。
後ろ盾もなく、幼かった私を。
何より。
国王には陰謀があり、その駒に私は打って付けだった。
国王はラジェドン様を消し去るために、正当な理由を欲していた。そこで他国から嫁いだ姫が死ねば、ケジメと称して彼を葬れると思いついたようだ。
嫁いだ当時、ラジェドン様は18歳だった。大きな体格と威厳ある風格の彼に、初対面の私はすっかり気圧されてしまった。
けれど、その恐怖を拭ってくれたのもラジェドン様だった。彼が跪いて私の手をとり、微笑みかけてくれた瞬間。不思議と緊張が解けていった。同時に思考が止まり、目が釘付けになった。
初めてお会いしたその日から。
私の心はとっくに、ラジェドン様に奪われていたのかもしれない。
形式上夫婦になったとは言え、私は押し付けられた子守同然。故に、彼と会える機会は少ないだろうと思っていた。
実際は私を気にかけ、毎日のように会いに来てくださったのに。
『ようこそ、よく来てくれたね』
『旦那様なんて呼ばなくていいよ。私のことは兄だとでも思って』
『これから、怖いことがあったり、それに巻き込まれたりするかもしれない。でも安心して。私が姫を守るから』
『今日も楽しかった?』
『もうここは安全じゃない。守りきれなくて、ごめん。……どうか生きぬいて。……これでお別れだ』
1年ほどで婚姻生活は終わってしまった。
命を狙われていることも。ラジェドン様の逢瀬が国王への牽制行為であることも。この時には理解していた。
それにも限界が来てしまったのだ。
ラジェドン様との別れが悲しかった。気を許したのも、信頼を寄せたのも、ラジェドン様が初めてだった。同情や、加護。ひいては国王の策略を阻止する為だけだったとしても。
私は間違いなくラジェドン様に救われ、幸福というものを教えてもらった。
別れの日。ラジェドン様はいつものように膝をつき、私に視線を合わせてくださった。別れの言葉を交わしつつ、頭に乗せられた大きな手。それが頬におりてきて、ただただ見つめ合った。
私の行く末を案じる不安げなラジェドン様の顔は、胸の痛みとともに、記憶に強く刻みつけられた。
自国に返されてすぐ、ラジェドン様が反乱を起こしたと聞いた。
国王側が逃げ回ったため、勝敗がつくのに時間がかかり、決着がついたのは3年後のことだった。
内乱が終わると同時にラジェドン様が正式な国王として認められ、即位した。
しかし息つく暇もなく、今度は近隣諸国と戦が始まってしまった。内乱終わりで疲弊した若い新国王になら勝てると、近隣諸国たちはそう踏んだのだ。
……その近隣の国々の中に、自国も含まれていた。
自国に返された後。私は数人の侍女と共に城から離れた塔で、協力しあいながら質素に暮していた。嫁ぐ前も似た環境下にいたので、困ることは特になかった。
父には正妃の他に複数の側妃、妾がいた。母はその内の1人に過ぎず、早くに亡くなった。母も後ろ盾もなく、私はこうして名ばかりの姫となった。
不遇な境遇に苦しんだこともあったが、そのお陰でラジェドン様に出会え、立場上敵対関係にある今も、心置きなく彼の無事を祈ることができている。
父に対して情が一欠片でもあったら、こうはいかなかっただろう。つくづく希薄な父娘関係で良かったと、私は思った。
しかし年月が経つにつれ、ラジェドン様のように自国の存在が、私の中で大きくなっていった。
侍女たちと他愛のない会話で笑い、街の鐘や民たちの声が、時折風に乗って聞こえてくる。
塔の上から見る自国の景色も、とても美しくて⋯⋯。
自国も、自国の民にも傷ついてほしくない。けれどラジェドン様にも無事でいてほしい。
自国かラジェドン様か⋯⋯。
私はこの問いに、ひどく苛まれるようになった。
ーもういっそ、自ら消えてしまいたいー
ついそんな考えが過ってしまった時
『駄目よ』
その答えが瞬時に出てきたことに、私自身驚いた。
『だって私、ラジェドン様にまたお会いしたい』
不安に苛まれた私は、自分がどうしたいのかを見失っていた。この時になって、ようやくそれを自覚できた。
戦の勝敗がどうなるのかは分からない。
けれどここで私が諦めたら、もう2度とラジェドン様に会えないことは分かる。だから⋯⋯
例え再会の場所が、どちらかが立つ処刑台だったとしても……。
互いが生きている限り会える可能性が残されている今。答えが分かるその日まで、私は自らを放り出さないと決めた。
ーー2年経ち、戦が終わった。結果はラジェドン様側の勝利。私たちの国は敗戦国となった。
父である国王は処刑された。正妃とその息子2人とともに。
正妃の息子達は、長らく父の側近を務めていた。だから父同様、処罰が早かったのだろう。
次は自分たちの番だと、身辺整理をしていた時。
ラジェドン様の国の属国になったこと。1番年長の義兄が国王に就くことを知った。
義兄との関わりはほとんど無かったが、人伝にその人柄や優秀さは聞いていた。だから、今より国は良くなるだろうと安堵した。
私を含め、義妹義弟たちの多くは城を出されており、義兄はそんな私達を王宮へ呼び戻してくれた。
そこから義妹弟たちと勉学やマナーを学びながら、国王となった義兄と共に再興に尽力する、忙しない日々が過ぎていった。
18歳になった私は、他国も集まるパーティに顔を出す機会が増えていた。
自国もだいぶ落ち着いた。
私の年齢などを鑑みれば、嫁ぐ頃合いであるのは自分がよく分かっていた。
義兄は自国の為に尽力し、いつだって矢面に立ち、私たち義妹義弟と国を守ってくれた。
優秀だが言葉足らずで、少し不器用で、義妹義弟思いの義兄。
義兄が選んだ相手ならば、私は嫁ぐ気でいるのだが……。
「国王……。私ならどなたでも構いませんよ?」
今回のパーティーでも鋭い瞳を光らせ、品定めしている義兄に、呆れ気味な視線を投げる。
「………お兄様と呼べ。誰とでもという訳にいくか。まぁ、早いとこ嫁には行ってもらうつもりだがな」
縁が多い内に苦労の少ないところに私を嫁がせようと、私のために義兄は吟味してくれているようなのだ。
その時、パーティ会場の入り口がざわついた。
「来られたな」
義兄のその言葉で察し、頭を下げ、玉座までの道をあけた。
大丈夫だと思っていた。思っていたのに……。
いざこの瞬間が訪れたのだと思えば、心臓が苦しいくらい跳ね、スカートの裾を握る手に力が入っていた。
「頭をあげよ。今日はよく集まってくれた。今夜はこのパーティーを楽しんでくれ」
記憶の中よりも、ずっと硬く、重い。威厳を感じる声。けれど紛れもなく、彼の声だった。
私は玉座に座るラジェドン様を遠目からだが、食い入るように見つめた。
袖元から足元までゆったりとした衣服。シンプルだが、上等な布地であるのが離れていても分かる。後ろへ撫でつけられた、肩より少し長めの、ボリュームのある赤髪。マントと王冠を身に着け、光るような目は、本物の獅子のようだ。
あれから8年。26歳になり玉座に腰をおろす彼は、王としての風格を纏い、そこに君臨していた。
彼だ。生きている彼だ。もう一度この目で見ることができた。
喜びで満たされる⋯⋯その筈だった。けれど実際は、喜びは一瞬で縮み、劣等感と後悔に似た複雑な気持ちに支配された。
会ってしまったことで、どれほど彼が遠い存在なのか。現実を突きつけられた気がしたのだ。
ラジェドン様は8年前よりもたくましくなり、立派な国王として君臨していた。⋯⋯私の想像をはるかに超えて。
歳を重ね、大人の仲間入りをし、彼に近づけたと思っていた自分が恥ずかしい。
私はいつから失念し、思い上がり、勘違いしていたのか。彼の傍にいられたのは、全ては策略婚と、幼さなかった故なのに。
「さて、挨拶に行くか」
義兄のその声で、私は我に返った。
「ん? どうかし……」
義兄は私の顔を見て、言葉を止めた。
その瞬間、しまったと思った。
義兄は賢く聡い人だ。少しでも違和感を感じれば、答えを導き出してしまう。
取り繕う時間なんてなかった。
義兄の瞳が訝しげなものから、驚きに変わった。
「……いま、思い出した。人質に送られたのはこの国だったのか!? だからそんな顔をっ」
「え?」
「え?」
私達は顔を見合わせた。
8年前の当時、義兄は既に城を出されていた。私の件は直接誰かから聞いたわけではなく、その頃、噂で耳にしたらしい。義兄でなければそんな些細なことなど、きっと覚えていなかっただろう。
父が亡くなり、城の中枢で働いていた者も一新された。義兄が知らないのなら、そもそも私が嫁いだ関係資料など、自国には残ってないのかもしれない。
「あの、こく……、お義兄様、私」
私は義兄にラジェドン様と、名ばかりの婚姻関係だったことを告げた。
「そう……だったのか。なぜ言わなかったんだ。来る前に教えておいてくれたら……」
義兄が言葉を飲み込んだ。
私がよほど情けない顔をしていたのかもしれない。
義兄がどこまで私の過去を知っているか、確認しなかったのはわざとだった。余計なことを話して、ラジェドン様に会える機会を失ってしまうのが怖かったのだ。
義兄はどうしたもんかとばかりに、1つため息を吐いた。
「挨拶……するか? 来なかったことにして、お前は下がってもいいぞ?」
その言葉に私は下げていた視線を上げた。
「いえ。1年ほどですが、ラジェドン国王様にはとてもお世話になったんです!
だからお義兄様が宜しければ、お礼も兼ねて、ぜひ一緒にご挨拶させてください」
二度と会えないと覚悟した彼の姿を見ることができれば満足だった。直接言葉は交わせなくとも良いと思っていた。
本当に。本当にそう直前までは思っていたのだ。
けれどいざ目の前にその機会が吊り下げられれば、さきほどの落ち込みも忘れ、馬のごとく私は食らいついてしまっていた。
ラジェドン様のこととなると、舞い上がり、欲深くなる自分に気づきながらも、抑えることができなかった。
緊張と、喜びによる興奮を宥めながら、列に並び、その時が来た。
「今夜はお招きいただきありがとうございます。バジェン国、王マリユと、妹のナリューシャです」
「ナリューシャです。その節は大変お世話になりました」
下げていた頭を上げれば、ラジェドン様と瞳が合った。
期待した。その口から発せられる言葉を。
ラジェドン様の瞳が私を捉え、一瞬、開いた気がしたからだ。
しかし、瞬きした瞬間。
ラジェドン様に何ら変わった様子はなかった。
「そうか、息災のようで何より。今夜は楽しんでくれ」
それ以上の言葉はなく、終わってしまった。
落胆した。酷く。
欲張るべきではなかった。
彼と話さなければ。彼の目に映らなければ。
彼にとって自分は大した存在ではなかったと、気づかずにに済んだのに。
勝手に期待して、勝手に落ち込んで。
一目見て落ち込んでしまったあの時点で、辞めておけばよかったのだ。私はまた消え入りたくなるほど、恥ずかしくなった。
打ちのめされた気分から抜け出せず、義兄に一言って、私はバルコニーに出た。
まだラジェドン様への挨拶の列は続いている。フロアで談笑してるのは、やっと列から解放された者ばかり。みな社交に忙しそうだ。
おかげでバルコニーは、私一人しかいなかった。
誰にも気兼ねすることない空間で、やっと重たい息を吐き出せた。
戦が終わった後も、会いに来てはくださらなかった。
それがきっと全ての答えだったのだ。目を逸らしていただけで⋯⋯。
互いの国がまだ不安定で、復興の最中だから。ラジェドン様はご多忙だから⋯⋯忘れられている訳ではない。私は彼にとって、どうでもいい存在ではない。と、自分に言い聞かせていたことを惨めに思った。ラジェドン様に会わなかったからこそ持てていた希望が、今日ポッキリと折れてしまった。
手すりに寄りかかりながら、夜空を見上げ、感傷ににふけっていると
「ナリューシャ様」
ふいに名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねた。
声の主はいつの間にか、私の近くに立っていた。
「ラジェドン様から言伝を預かって参りました。
思い出話をされたいとのことで、お部屋でお待ちいただきたいと。私がご案内致します」
先程ラジェドン様の側に控えていた臣下が頭を下げ、私を促した。
「え? ですが……。い、行くならお義兄様に声をかけてからでも宜しいですか?」
「はい勿論。ご一緒致します」
義兄に話すと、疑わしげに眉をひそめられた。私も同じ気持ちだった。覚えてないと言われてもおかしくない程、あっさりとした挨拶で済んだのだから。
「私も妹とご一緒してよろしいですか?」
「申し訳ありませんが、ご遠慮ください。王はナリューシャ様と少しでも長く、お話されたいようですので。ご心配には及びません。お2人は本当に仲が良く、ラジェドン様はナリューシャ様を本当の妹君のように可愛がられておられましたから」
妹という単語が私に突き刺さる。
義兄も何やら胸を抑えながら「ナリューシャの兄は私だけだぞ!」と、言葉が漏れていた。
「そういうことですから、ナリューシャ様。どうぞこちらへ」
私と義兄が心を痛め、軽く放心している中、臣下の彼はササッと私を別室へ通した。
「さっ、おかけになってお待ち下さい。侍女がいま、お飲み物をご用意しますから」
「はい……」
「どうぞ、ナリューシャ様」
侍女が手渡してくれた紅茶。ではなく、私は侍女の方へ勢いよく顔を向けた。
8年経っているが分かった。私の世話をしてくれていた侍女だと。
「あぁ、良かった。生きていたのね」
「ふふっ。ナリューシャ様ったら、昔一人でこちらに来た時も泣かなかったのに、涙ぐまないでくださいな」
そう言って、彼女はハンカチを私の目にあててくれた。
お互い別れてからあったことを話し込んだ。数時間は経っていたかもしれない。ほどよい眠気を感じ始めていたから。
ノックの音が鳴った。
「すまない、遅くなった! ナリューシャ姫はまだ起きてるか?」
その声の調子が。その喋り方が。あの当時のままで。
「ラジェドン兄様!!」
思わず勢いよく立ち上がって、反応してしまった。
思ったより声が大きくて、自分でもはしたないと思い、慌てて口を抑えた。全て遅かったが。
「プッ、ふふ。あぁ、良かった。建前かと思っていたが、本当に姫は元気そうだ」
今まで話していた侍女がさがり、ラジェドン様が私の隣りに座った。
「はぁ~……。良かった。またお互い生きている内に会えて」
「私も……。ずっとお会いしたかった」
先ほどのパーティとは違い、緩んだ雰囲気とその表情が8年前の記憶と被り、私の視界が滲む。
「姫と離れたあと、なんとか王になれたと思ったら、今度は戦が始まって……。後悔してたんだ。
君を守るために国に返したのに、もっと危ない場所へ送ってしまったんじゃないかって」
当時を思い出されたのか、ラジェドン様は疲れた顔で、力なく笑った。
「そんなことありません! 私が今ここに居られるのは、ラジェドン様が正しかったからです。
……ずっと、心配しておりました。怪我をされてないか、追い詰められていないか。
あげく、父達が戦争をふっかけてしまい……申し訳ありません。
あの人の娘の分際で何を、と思われるかもしれませんが、私またラジェドン様にお会いしたくて……。
だから、本当にいま幸せで……ラジェドン様、生きてて良かった」
改めて、目の前に彼がいるのだと思うと、言葉が詰まるほど感情が昂ってしまった。
意外そうな表情で聞いていたラジェドン様が、クシャリと笑った。
「ナリューシャ姫、そんな風に思ってくれていたの? 私は思った以上に、君に好かれてたんだなぁ」
「ずっと思っていました! 離れてからもずっと!! それに私の気持ちは毎日のように……お伝えしていた……はず……です……」
「ふふ、そうだったね。だけど、君は幼かったから……。私なんてすぐ忘れられてしまうと思ってたよ」
当時の私の年齢ならば、そう捉えられて仕方ないと分かっている。
しかし思い返すのも恥ずかしいが、当時の私はことあるごとに、ラジェドン様に好きだと言っていたのでつい、「むー」と不服の声が漏れ出てしまった。
「変わらず慕ってくれていたなんて、嬉しいなぁ。姫と過ごした日々は、私にとってかけがえのないものだったから。またこうやって話せて、本当に良かった」
そう言って、ラジェドン様は私の頭を撫でた。懐かしい手つきに、やはり今でも彼には私が妹のように映っているのだと察した。
それでも頬が熱くなる。
自分だけが彼を意識していると思うと恥ずかしく、つい視線が下がる。
「ん? あー、すまない。ナリューシャ姫はもう大人なのにな」
からかい混じりの軽い口調で、パッと離された手。
やはり露骨に顔に出てしまっていたらしい。私は八つ当たりと照れ隠しで、ジトッとラジェドン様を睨んでしまった。
「いじわる……。いいんです、どうせラジェドン様からしたら、まだまだお子様でしょうから」
拗ねるような口調は、本物の子どもさながらだ。
ラジェドン様に再会したことで、振る舞いすらもあの頃に返ってしまったようだ。
「…………いや、んー。ちょっと待ってくれ」
ラジェドン様はどうしたのか、手のひらで自身の目を覆うと、しばらく沈黙してしまった。
「……ナリューシャ姫、それって外せるか?」
ようやく顔を上げたラジェドン様に、そう訊ねられた。
「髪飾りですか? えぇ」
不思議なこと仰ると思いながら、言われた通りそれを取る。せっかく、結い上げてもらったが、もうパーティーに戻る予定はなかったので構わなかった。
髪飾りを外せば、結ってあった髪がサラサラと解けた。
今まで結っていたのが嘘のように、跡が残っていない、自慢の真っ直ぐの濃紺の髪。
ラジェドン様は忙しく、部屋を訪れるのが夜になることも多かった。寝る前の結われていない私の髪を、手ぐしで梳かしながらよく褒めてくれたことを思い出していた。
「……髪に触れてもいい?」
「? 先程、頭も撫でられたじゃないですか。今更聞かなくてもいいですよ」
ラジェドン様の指が髪に入り、撫でるように数度、髪を耳にかけられた。
「今もすごく綺麗だね。とてもさわり心地がいい」
「ふふ。そうでしょう?」
私が自慢気に言うと、髪を触っていたラジェドン様の手が私の頬に添えられた。
「ラジェドン様?」
じっとこちらを見る瞳。明らかに先程とは表情も空気も違う。
「ナリューシャ姫。昔と同じように……好きだと言ってくれないか」
「え゛っ!? ですが、あの時とは年が違いますしっ! それに!」
私は慌てて、理由を続けようとした。
けれど、眉が下がったラジェドン様の顔を見て、言葉が詰まる。
グラグラと気持ちが葛藤した結果、羞恥心よりも、彼の願いに応えられる嬉しさが勝った。
「ラ、ラジェドン様………だ、だいすき」
自分が思っていた以上に、掠れて小さくなった声。
顔が熱くなりすぎて、言ったあとすぐ、顔を背けてしまった。
意地で兄様はつけなかったが、あの頃はすんなり言えた台詞に、こんなに苦しめられるとは思わなかった。
好きである気持ちは変わっていない。むしろ増した気がする。けれど、ラジェドン様にどう思われるのか、変な顔になってないか。
余計な心配がブワッと内側から沸き起こり、私の中で渦巻いていた。
こんな醜態見なかったことにしてくれないかなと、考える余裕が持てる程には時間が経った。
そろりとラジェドン様を確認すれば、まるで固まっているようだった。
「ラジェドン………様?」
心配になり、ラジェドン様に顔を向き直すと、やっと瞳が合った。
「あ、いや! すまない。不躾に触ってしまって。ハハッ」
ラジェドン様は、両手のひらを私に向けた格好のまま、向かいの席へと移動した。
「え? どうされたんですか?」
「え?」
「いえ、なぜそちらの席に?」
「いや、年頃の女性に対して、肩が触れ合うほどの距離は如何かと思って」
「今まで座ってらっしゃったじゃないですか」
「……誰だそんな配慮に欠けた男はっ!」
誤魔化すように、わざとらしく笑うラジェドン様に、つい胡乱げな目を向けてしまう。
「………はぁ。すまない。そんな問いただすような目で見つめないでくれ。その……姫を女性として意識してしまったんだ……。本当にすまない」
ラジェドン様は罪悪感たっぷりの顔を手で覆い、下を向き、背を丸めた。
「どうして謝るんですか!?」
「そりゃ、妹のように大切に思っていた君を、邪な目で見てしまうなんて……私は兄失格だ」
「ラジェドン様は本当のお兄様じゃありません! だからいいじゃないですかっ!」
「いや、兄として慕ってくれていた姫の信頼を裏切る行為だ。私はなんて」
「待ってください! 私はラジェドン様を兄のように慕っていましたが、兄だと思ったことありません! 10歳であなたのお嫁さんになった時から、あなたを愛しています! 初恋なんです! 私にとってあなたは、いつだって旦那様でした!」
「え?」
「好きだと……毎日のように、言っていたじゃないですか……」
視界がグシャリと潤んで揺れた。
ラジェドン様を兄と呼んでいた。彼にそう提案されたから。妹のような扱いでも嬉しかった。けれど私は⋯⋯。私は、彼のお嫁さんになれたことが嬉しかった。私にとって彼はずっと大好きな旦那様だった。離れていても、時間が経っても⋯⋯。
憧れなんかじゃない。忘れたくない、忘れられたくなかった。
もうこの時には、私の心は決まっていた。
また義兄に詫びなければいけない。本当は
『結婚する相手は誰でも構わない。ラジェドン様以外の相手なら、誰でも同じだから』
そう思っていたのに、話していなかった。欲深い義妹で申し訳ないけれど、もう引き返すつもりは、さらさらなかった。
「嫁いだあの頃と変わらず、私はラジェドン様をお慕いしています。だから! どうぞ! 存分に!! 一人の女性としてみて下さい。私、頑張りますから!」
両手を握り、力を込めるポーズを決める私に、ラジェドン様は困惑していた。
「え? いや、ナリューシャ姫、何を頑張るって?」
「女性としてみてもらえたので、もう1度、お嫁さんにしてもらえるように、自分を磨き、積極的にアピールしていこうかと」
そう言うと、ラジェドン様は一気に慌てて私を止めた。
「だ、駄目だ、駄目!」
「え……、それはやはり私では釣り合いがとれないからですか? 好みではないからですか? それとも」
「そ、そうではなくて! 私は既に自分の気持ちに気づいて……る。君が好き……だ。もう、小さなナリューシャ姫じゃないのはよく分かった。あの頃と同じセリフなのに、君の一言で、えらく動揺してしまうんだ。だからもう、勘弁して欲しい」
「ラジェドン様……。本当ですか? じゃあ、いっぱい好きって言って動揺させていいですか?」
期待を込め、見つめる私に、ラジェドン様は苦笑いをした。
「い、今は許してもらえると助かる。そのかわり」
「かわりに?」
「姫がよかったら、もう一度私と」
息を呑み、ラジェドン様から告げられるその言葉を、私は聞き逃さまいと耳をそばだてた。
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「も、もう一度結婚する!?」
義兄が私とラジェドン様の顔を交互に何度も見返した。
そして、私の肩をそっと抱き、ラジェドン様から少し離れたところで、ひそひそ話しを始めた。
「脅されたのか!? それとも、昔から恋仲だったのか!? だったらやめておけ。幼い相手に手を出す奴なんて碌でもない! 困ってるなら今お兄様に言いなさいっ」
こんなにスラスラ喋ってくれる義兄は初めてだ。
いつの間にか義兄の隣に来ていたラジェドン様が、ポンッと義兄の肩を叩いた。
「マリユ国王。いや、公式の場でないのだから、お義兄様と呼びますね。ナリューシャのことを守ると、幸せにすると誓います。結婚を許してくれませんか?」
「ふふ、10歳の時もそう言って、私を守ってくださいましたね。お義兄様、内乱に巻き込まれないよう国へ返してくれたのも、こっちの国で守ってくれてたのも、ラジェドン様なんです。私は当時からラジェドン様をお慕いしていたけれど、妹や子供扱いしかされなかったわ。だから私の方から、ずっと想っていたと伝えたの。初恋が叶って、私とても幸せよ。パーティーにつれて来てくださってありがとう、お義兄様」
義兄は苦悶の表情を浮かべていた。
妹が好きな人と結ばれて嬉しい気持ちと、いざという時、ラジェドン様から私を守れるかを天秤にかけ、葛藤しているのだろう。おそらく。
私のことを真剣に考え、悩んでくれる義兄に頬が緩んだ。
「私を庇ってくれて、ありがとう」
ラジェドン様がこそっと、私に耳打ちされた。
「悲しいほどに事実なことは、私が1番良く分かってますから」
私とラジェドン様が二人の世界に浸るように、互いの顔を見合って、笑っていたからだろうか。
義兄は諦めたように、大きなため息をついた。
「ラジェドン国王。どうぞ、可愛い、可愛い私の妹を宜しくお願い致します」
私の妹という箇所だけ、強調するように言い放った義兄。義兄なりの兄としてのプライド⋯⋯なのだろうか。
私とラジェドン様は、もう1度顔を見合わせ、困ったように笑いあった。
❖❖❖❖❖
ナリューシャとマリユ国王を見送ったあと、私はその足で自室に戻った。
「国王陛下様、この後のご予定ですが」
「ああ、すまない。1時間ばかり休みたいんだ」
臣下にそう伝え、人払いし、部屋に1人。
書き物机の引き出しにある仕掛けを操作し、秘密の引き出しを開ける。そして中にあった1枚の紙を手に取った。
「もう1度、か………」
ナリューシャと自身の婚姻書を見つめ、私は呟いた。
婚姻書を見つけたのは、内乱が終わったあと。玉座についてからだ。まさか、残っているとは思わなかった。しかし、これでもう1度、彼女をこちらの国へ呼び戻すことができる。そう思っていた矢先。彼女の国たちと戦が起こった。
戦はこちらの勝利で終わったが、姫と離れてから何年も経ち、彼女の父親も奪ってしまった。
恨まれていない、忘れられていない。
そんな自信はなかった。
だからナリューシャをこちらに呼ぶことは諦め、彼女の無事を聞きいたあと、生かしておくよう伝えた。そして定期的に、彼女の国に派遣している部下に、ナリューシャの近況を報告してもらっていた。
兄に疎まれ、兄を支援する一派から狙われ。誰が敵か、味方か分からない。そんな中、ナリューシャは私の揺るぎない味方だった。彼女の存在はとても心強かった。
守りたいほど大切。その気持はナリューシャがいなければ、理解できていなかったかもしれない。
だからこそ、反乱を起こし、兄と戦ったのだ。
兄がナリューシャを亡き者にしようとしたから。それが反乱を起こす決め手となった。
彼女に会う自信がないと思いながらも、婚姻書はいつまでも捨てられず、時折眺めていた。
もし、ナリューシャが望まぬ結婚を強いられたら。
嫁いだ先で、ひどい扱いを受けたら。
これがあれば、迎えに行き、助けることができると思っていた。
兄も父も母も、もういない。元から、家族と感じたことはなかった。
ナリューシャだけが。たった1年間にも関わらず、特別で。家族というものを教えてくれた。
「8年も経っていたのに……。会った瞬間、あんなに嬉しそうな顔……。また見れるとは思わなかったな」
戦争以降初となる、数多の他国を招いてのパーティ。
パーティに彼女も参加すると知り、一目会うくらいなら許されるだろうかと、心待ちにしていた。
そして彼女の嬉しそうな、その顔を見た瞬間。
気持ちがどんどんと溢れ出た。
可愛い。愛おしい。私の……。私の特別な……。
断じて、幼い彼女にやましい気持ちはなかった。
けれど、固執はしていたと思う。ナリューシャは私のだという独占欲や執着はあって、今なお消えていない。その証拠が、捨てられず今も残っている婚姻書だろう。
大きくなった彼女の隣に座り、昔に戻った気分になった。彼女が未だに私を慕ってくれていたと分かり、喜びで心が弾んだ。
つい、昔と同じ調子で彼女に触れてしまった。するとナリューシャは、顔を赤くした。
花を愛でるような気持ちに、影が差した。
やましい気持ちを抱いた自分を認められず、確かめるために、彼女が幼い時によく言ってくれた『好き』という言葉を請うた。
それが決定打になってしまった。
彼女を邪な目で見ている者がいたら、兄代わりの自分が許さないと思っていたのに。
花を手折ろうとしている自分がいた。
許せないと思っていた相手に、自分がなっていた。
ナリューシャが罪悪感を拭ってくれていなければ、きっといまも酷い気分に苛まれていただろう。
長年私を忘れず、変わらず想ってくれていた彼女に心の中で感謝した。
これから新たに婚姻書を、書くことになるかも知れない……けれど。
少し悩んだが、古い婚姻書は捨てないと決めた。
これはナリューシャと、自分を繋ぐもの。
今この瞬間も。
離れていた時間も、ナリューシャと自分が夫婦であったと、家族だったと示すもの。
8年前のあの日から、ナリューシャと私の縁が続いていることを証明してくれるもの。
そう思うと、どうしようもなくただの紙が愛おしく思えて、ナリューシャを思い、口づけを落していた。
-完-




