2-1
「最近、何かいいことあった?」
姉の言葉に美朱はバターナイフを動かす手を止めた。
「え、どうしたの? 急に」
「ここのところ、ずっといい笑顔してるからさ」
慈しむような姉の眼差しに美朱は少し照れ臭くなる。
「そ、そうかな?」
「そうだよ」
美朱は頬を赤くしてうつむくと、苺ジャムとバターを塗りたくったトーストにかじりつく。
「ひょっとして、彼氏とか?」
「ごぶぉあっ!?」
姉の口から飛び出した衝撃的なワードに美朱は盛大にむせた。
「ちょ、ちょ、ちょ、おねーちゃん! 何言ってるの!?」
「アンタぐらいの歳の女の子がさ、そんな表情を見せる理由と言えば、やっぱり男の子かなー、って」
「や、やめてよ、もう! そ、そんな、カレシとかいないからっ!」
「本当にー?」
姉は人の悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべている。
彼女は分かったうえで妹をからかっているのだ。
姉の葵には、妙に子供っぽいところがあった。
「本当だってば! お、おねーちゃんの方こそどうなの? もういい歳なんだから、カレシのひとりやふたりはいるんじゃないの?」
「へぇ、美朱はアタシが二股かけるような軽い女だと思ってるんだー?」
姉からの思わぬカウンターに美朱は、うぐぐと、うめき声をあげる。
「アタシには大本命の美朱がいるからね。彼氏とか欲しいとは思わないかなー」
この春、美朱の高校進学を機に、姉妹は親元を離れてふたり暮らしを始めた。
葵には昔から自身に美朱の庇護者であることを命じている節があったが、その傾向は姉妹で暮らすようになってからより強くなった。
「私もおねーちゃんがいてくれるから、別にカレシなんか欲しくないよ」
「うーん、愛いやつじゃのー」
葵がテーブルの向こうから手を伸ばし美朱の髪をかきまわす。
「もう、せっかくセットしたのにくずれちゃうよー」
美朱の髪型はショートのボブカットだった。
毎朝、それなりに時間をかけてセットする。
「その髪型、似合ってるね」
「ありがと。私も気に入ってるんだ」
中学生までは黒髪を腰まで伸ばしていたが、高校では心機一転して髪を短くした。
それは、過去の自分と決別するために必要な儀式だった。
儀式は滞りなく進み、美朱の御祓は済んだ。
済んだはずだったのだが……。
「ぼんやりしてないで、朝ごはん早く食べちゃいな。遅刻するよ」
「え? そ、そうだね」
美朱はトーストの残りをかじる。
葵はコーヒーを飲みながらスマホをいじり出した。
「東京の方、また感染者増えてきたんじゃない?」
葵が呆れたような調子で言う。
東京には姉妹の両親が住んでいた。
「ふーん……」
美朱が気のない返事をする。
「それじゃ、アタシはそろそろ出るね」
「今日は遅くなるの?」
「うーん、ちょっと分かんないねー。あまり遅くなるようならLINEするわ」
「了解ー。お仕事、頑張ってねー」
葵の仕事は雑誌のライター兼編集者だった。
新型ウイルスの感染拡大の影響で、一時期は在宅勤務を余儀なくされていたが、感染状況が多少落ち着いてきたこともあって、ここひと月は平時と同じように出社していた。
「お弁当、忘れずに持ってくんだよー」
「はーい」
「あと、マスクもちゃんとつけるんだよ。いいね?」
「……はーい」
葵は椅子の背にかけてあった薄手のジャケットを手にすると、玄関に向かった。
「カレシ、か……」
キッチン兼ダイニングでひとりきりになった美朱は、先刻の姉の言葉を反芻する。
一瞬、脳裏をかすめる姿があった。
それは、少し寂しげな表情をした少年の姿だ。
少し自信なさげで、少し泣き虫な、眼鏡をかけた年上の少年……。
「うーん……」
美朱は思案げな表情でうめき声を挙げる。
「やっぱりよく分かんない!」
ひとまず、そう結論づける。
美朱は食器を片付けると、ベージュのカーディガンと通学鞄を持ってマンションの部屋を出た。
※
外は穏やかに晴れ渡ってた。
社会が流行病でゆるやかに機能不全に陥っているとは思えないほど爽やかな陽気だ。
通りすがる人たちはみんなマスクを着けていた。
美朱は小さくため息をつく。
早く、いつもの風景に戻らないかな……。
ここのところ世界の様子がずっとおかしい。
いろいろなモノの箍が外れたまま、元に戻らない。
こんな不安定な世界では、また、視なくてもいいモノを視てしまう。
美朱はそのことが怖かった。
あるいは。
既に手遅れなのかもしれない。
美朱は心の片隅でそう思っている自分に気づく。