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「うるさい、黙ってろ」
宙樹の言葉に美朱がギョッとしたような表情を見せる。
「え、ごめんなさい。ちょっと調子乗りすぎた……?」
そう言う美朱の声がわずかに震えていた。
怖がらせてしまったようだ。
「お、おれの方こそすみません! えーと、ですねぇ……これは独り言です! 別に怒ってるとかじゃないんで、気にしないでください!!」
慌てて取り繕うとするが、強引な言い訳しか出てこない。
「そうなの? だったら、気にしないでおくね!」
それでも、宙樹の言葉に安心したのか、美朱は表情をやわらげながら言った。
宙樹は、ひとまず、ほっと胸を撫でおろす。
「おれは、そろそろ戻りますね……」
宙樹が空っぽになったドカベンを水色のランチクロスで包みながら言う。
「……うん。私もこれ食べたら教室に戻る」
美朱はゆるゆると箸を持ちあげ、昼食を再開した。
そのまま、弁当箱の中身を機械的に口に運んでいく。
五月の黴臭い風が、少年と少女の間を通りすぎる。
宙樹は、ひとりで昼食を継続する後輩の姿を少しだけ振り返ると、屋上を後にした。
暗く、深い、穴の底に潜るように、階段を一段一段ゆっくりとおりていく。
そのとき、宙樹は自分の頭の片隅で何かが軋むような音を聞いた。
それは、彼だけを嘲笑う、彼だけの嗤い声だった。
※
放課後。
家の冷蔵庫が空っぽなのを思い出した宙樹は、最寄りのスーパーマーケットで買い物をしていた。
「やっぱり、まだ、棚に空きが目立ちますね……」
複数回にわたる大規模なワクチン接種の効果もあって、国内での流行病の感染は、ピーク時に比べると落ち着いてきたが、まだまだ予断を許さない状況だった。
繰り返される自粛要請や緊急事態宣言の影響で、国民の買いだめ傾向が強まっていた。
そこに、病禍による生産と流通へのダメージなどが重なって、商品の補充が追いつかないようだ。
さすがに何もないわけではないのだが、平時に比べると随分寂しい品揃えだった。
代わりに、普段はあまり見かけない珍しい商品が並んでいる。
とりあえず、売れそうなものは何でも売っていくスタイルなのだろう。
2000円以上する高級ピクルスの瓶を棚に戻しながら、宙樹はそんなことをぼんやりと考える。
「生鮮食品は普通に買えるんですよね……」
グラム138円の豚こまぎれ肉をカゴに入れながら小声でつぶやく。
空嶋家の冷蔵庫は小さなツードアタイプだ。
一応、冷凍室もあるが、あまり買いだめには向いていない。
なので、宙樹の買い物に対するスタンスは「必要なものは必要なときに買う」と、なる。
多少品薄状態になっていても、食料品が完全に枯渇しているわけではないし、外出を「禁止」されているわけでもない。予断を許さない状況であっても、宙樹の生活は少しずつ通常運行に戻りつつあった。
「あとはピーマンを買ってと……」
本日の夕飯は「なんちゃってゴーヤチャンプル」だ。
ゴーヤの下処理が面倒なので、代わりにピーマンを使って作る。宙樹が得意とする手抜きメニューのひとつだ。
宙樹は、高校から徒歩十五分ほどの場所にあるワンルームマンションで、一人暮らしをしている。
彼の両親は既に故人で、後見人の篤志家が生活に必要なお金と物を融通してくれていた。
もっとも、いろいろと面倒な条件付きの援助ではあったが……。
「あ、これうまそう」
デザート売り場で見つけたチョコレートケーキをカゴに入れて、レジで精算を済ませる。
マンションに帰ると、真っ先に石鹸で手を洗い、うがいをする。
結局、流行病に最も効果的な予防策がこれだった。
テレビを点け、制服から部屋着に着替える。
夕方の報道番組が、今日も飽きずに流行病や遠い異国での戦争に関する情報を垂れ流し続けている。
宙樹は狭い台所に立つと棚から包丁を取り出した。
しばらく、その刃先を黙って見つめる。
「……何をやってるんだか」
宙樹は自分の行動に呆れながら首を横にふる。
台所が黴臭い。換気扇を回す。
「それでは次のニュースです。先日、K県此乃町で発見された女性の変死体に関する新しい情報が公開されました」
テレビから、ニュースを読みあげる女性アナウンサーの声が流れてくる。
宙樹は包丁で食材を解体しながらそれを聞くともなく聞いている。
事故、戦争、疫病、殺人……。
この世界のありとあらゆる場所で死が遍在化している。
まるで、死神に監視されているみたいだ。
宙樹は、最近、そのことを以前よりもずっと強く感じている。