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「……離して」
美朱はそう言うと、宙樹の腕を振り解く。
後輩の態度に宙樹は困惑する。
美朱が宙樹の目を真っ直ぐに見つめる。
宙樹はその視線から目を逸らせない。
二人は無言のまま見つめ合う。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
それを合図に美朱が口を開く。
美朱は語る。自分達が実は今よりもずっと幼い頃に何度も出会っていたことを。自分の悪戯が原因で宙樹の父親が死んだことを。だから、自分はもう宙樹とは一緒にいられないことを。
宙樹は後輩の言葉を聞いて、自分の突拍子もない考えが正しかったことを理解する。
だが、それは、彼にとってもうどうでもいいことだった。
宙樹は美朱の罪を否定しようとする。それは、ただの事故だ。誰も悪くない。偶然が引き起こした、不幸な事故なんだ。そう、罪悪感で震える後輩に伝えたかった。なのに言葉は出てこない。理由は簡単だった。何故なら、宙樹も美朱と同じだからだ。
幼い頃、自分に暴力を振るう母親を憎み、あの忌まわしい都市伝説の殺人鬼の名を叫び、助けを乞うた。そして、母親は死んだ。ブギーマンは関係ない。ただの通り魔の犯行だ。犯人は捕まり、然るべき裁きを受けた。けれど、宙樹には自分が母親を殺したとしか思えなかった。父親を喪ったのも、ブギーマンに母親の死を望んだ代償。やはり、宙樹にはそうとしか思えなかった。
ただの妄想。
ただの思い込み。
そんなことは宙樹にも分かっていた。だが、一度頭に根を張った悪い考えを取り除くのは、決して容易なことではなかった。
宙樹はいつの間にか自分の編み出した物語に雁字搦めにされていた。
物語に憑かれた人間に届く言葉なんてありはしない。
宙樹は身を持ってそれを理解していた。
だから、今の美朱に何を言っても無駄なのだ。
多分——。いや、きっと。
人間は自分から望んで物語に身を捧げようとする。
人間はみんな、生まれつき、物語という虚無への供物でしかない。
自分も、美朱も、ブギーマンカルトの信者達も、殺人鬼の花嫁になることを選んだ女達も。
みんな生贄になることで、自分の罪から逃げようとしたのかもしれない。宙樹はそんなふうに考える。
宙樹と美朱は悲しいくらいよく似ていたのだ。
だからこそ、互いに惹かれあった。
水面に映った自分の姿に見惚れて足を滑らせた、溺れかけの無様で哀れな二匹の子羊——。
「……ねぇ、宙樹先輩。あの映画、観た? 『俺たちに明日はない』と『小さな恋のメロディ』」
罪の告白を終わらせた美朱が不意に思い出したように宙樹に尋ねた。
「……すみません。まだです」
「そっか……」
宙樹の返事に美朱が残念そうに呟く。
「すみません……」
「いいの。気になっていたことを確認できたから、それで充分」
美朱が微笑む。宙樹を慰めるような表情だった。
「宙樹先輩なら私のクライドになってくれるかと思ってたけど、やっぱりダメだったね……」
宙樹には美朱が何を言ってるのか理解できなかった。
しばらく、二人で黙って洋館のほうを見ていた。
あたりはすっかり暗くなっていた。
夜空は薄く雲で覆われていたが、洋館の窓から漏れた明かりがあたりを微かに照らしていた。
その仄かな光の中に人影が浮かぶ。
「おねーちゃん……」
美朱は姉の葵がこっちに向かって来ることに気付いた。
「宙樹先輩、私、行くね。おねーちゃんが待ってるから。あのトロッコは一人じゃ漕げないの」
「……」
美朱の言葉に宙樹は沈黙で答えることしかできなかった。
どんな言葉を返せばいいのか分からなかったからだ。
「もう、そんな泣きそうな顔しないで。前にも言ったよね? 私達は笑顔でいよう、って。そうじゃないと、幸福が逃げていくから、って。忘れちゃったの?」
忘れる筈がなかった。宙樹は後輩のその言葉に救われたのだから。
けれど、宙樹は疑問を抱かずにはいられなかった。
幸福なんてモノはこの世界のどこを探せば見つかるんですかね? そんなモノ、本当に存在するんですかね? と。
宙樹は自分の現在と過去、そしてこれから訪れるであろう未来を想い、苦しみを感じた。
自分のような親殺しの業を背負ったロクデナシが、この先、人並みの幸福を享受できるとは思えなかった。
美朱はどうなのだろうか。
あの狂人めいた姉と一緒にいて、幸福な未来などに辿り着くことができるのだろうか。
「おねーちゃんのことが放っておけないんだ。誰だって、ひとりぼっちは寂しいから……」
そう言って、美朱が笑う。
宙樹はその笑顔を見て思う。
もう、本当に何を言っても無駄なのだと。
宙樹は後輩の浮かべた表情をよく知っていた。
それは、宙樹自身がよく浮かべる表情だった。
なにもかも諦めた人間が浮かべる、どこまでも透き通った笑顔。
自分を殺して、この世界の大気と一体化した空気人間だけが見せる、果てしなく純粋で透明な笑顔だった。
「そうですね……。誰だって、空気は寂しいんですよね。存在を無視されて、いなかったことにされて。決して誰からも顧みられない石ころみたいな人生なんて、本当は誰にも我慢できる筈ないんですよ……」
宙樹は自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
そして思い出す。自分の「先輩」——畑千鳥のことを。
芸術家気取りのサイコパスに弄ばれたもう一人の空気人間のことを。
彼女の今際の際の言葉を今でもはっきり思い出すことができた。たった今、自分に言い聞かせるように紡いだ言葉がそうだった。
牟田口と出会ったとき、宙樹には何もなかった。両親を失い、親戚の保護も打ち切り間際だった宙樹には、もう何も残されていなかった。少年はすべてを諦めていた。親殺しの罪悪感で心を痛め、その痛みから解放されたくて考えるのやめていた。目を瞑って、耳を塞いで、あらゆる情報をシャットアウトした。少年は世界から切り離され透明になることを選んだ。透明になれば痛みを感じずに生きていけると思ったからだ。そして、そこを牟田口に付け込まれた。
少年の拙い生存性略は狂った大人の食い物にされて終わった。
畑と宙樹は何も変わらなかった。二人は牟田口というヒトの形をした伽藍に捧げられた供物でしかなかったのだ。
そして、その牟田口もまた、「自分に霊感を与える人殺しの王」という悪い幻に囚われた物語の生贄であり、ガチョウの羽を頭に刺し薄っぺらい影を従えた王様気取りの道化に過ぎなかった。
これは一体なんなんだ?
神様とかいうペテン師が仕掛けた心ない嫌がらせなのか?
「ふへっ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、気の抜けた笑い声がこぼれた。
「ダメだよ、その笑い方。卑屈っぽく見えるって言ったじゃん」
「そんなこと言われても、今更、直せませんよ。どんなにみっともなくても、どんなに情けなくても、人間は自分をやめるわけにはいかないんですから」
「……そうだね。自分をやめることなんてできるわけないんだよね……。目を瞑ったところで、そこにあるモノをなかったことにはできないんだ。結局、私は死ぬまで幻を視続けるしかないんだ」
美朱が葵のほうに顔を向けながら言った。
宙樹には姉を見る美朱の視線が悲しいくらい透明に感じられた。
夜風が吹き抜けていく。
夜空を覆っていた雲が払われ、月明かりが少年と少女を照らす。
「さようなら」
宙樹が言う。
「さようなら」
美朱が言う。
そして、少しだけ、無言のまま見つめ合う。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
それを合図に、美朱が姉を迎えるため洋館のほうに駆け出した。
美朱は一度も宙樹を振り返らなかった。
宙樹は姉妹の姿を束の間見守ると、二人とは逆の方向に歩き出した。
宙樹もまた美朱を振り返ることはなかった。
こうして、ギリギリまで接近した空気少年と幻視少女の人生は、決して重なることなく再び遠く離れていった。




