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空気少年は幻視(み)られたい  作者: 砂山鉄史
10.カタストロフ
51/54

10-3

 宙樹(ひろき)は地下室に続く階段を緩慢な足取りで下りていく。

 一歩一歩もったいぶるように。

 あるいは涎を垂らす犬の前で餌をチラつかせるように。

 宙樹は手ぐすね引いて待ち構えるブギーマンカルトの信者達を焦らすように、ゆっくりと階段を下りていく。


 地下室から無数の囁き声が聞こえてくる。

 宙樹の登場を、否、ブギーマンの降臨を待つ人々の声が聞こえてくる。


『相変わらず虫の羽音みたいに耳障りな声だな』


 宙樹の頭の中に不快な雑音(ノイズ)が走った。


「……他人(ひと)のことを言えた義理なんですか?」


 宙樹が苦々しげな表情で呟く。


『もう、いいだろ。全て終わりにしてしまえ。あの男も、取り巻きの虫けらどもも、全員殺してしまえ』


 再び雑音が走る。


『お前の中には人殺しの王がいる。世界中の人間をたった一本のナイフで殺し尽くす殺人王権の持ち主がいる。おれを喚んだのはお前だ。そして、お前の喚び声におれは応えた。遠慮は必要ない。存分に人殺しの王権を振るえばいい』


 宙樹の全身が震える。額に汗が浮かぶ。暑いのに、寒い。近いのに、遠い。どこまでも高く、ひたすら低い。宙樹は自分の肉体と魂が分離したような錯覚を覚える。


「お願いだから静かにして下さいよ……」


 宙樹は力なく懇願する。


『お前は母親の前でおれの名前を叫んだ。そして、母親は死んだ。今更、何を躊躇している。母親の死を望んだ報いとして、父親まで死なせたんだぞ。それに、数え切れないほどの女におれの象徴(ナイフ)を突き立ててきただろ。もう、手遅れだ。お前は決して戻れない。オレを——人殺しの王であるブギーマンの宿主をやめることなどできない。そんなことは許されない』


 宙樹の頭の中で「王」の声がどんどん大きくなっていく。

 

『あの小娘もここにきているのだろう? いい機会だ。さっさと殺してしまう。そして、そのまま芸術家気取りの俗物も、俗物に媚びへつらう女も、周りを飛び交う羽虫どもも、全て殺してしまおう。黒き死の病は解き放たれた。今や世界は死に満たされている。もう、生の時代は終わった。死が大鎌を振るう収穫の季節が到来したのだ』


 宙樹は震える腕をズボンのポケットに突っ込む。ポケットの中のナイフを強く握り締める。

 雑音に意識を乗っ取られないように、お守りのナイフをギュッと握り締める。

 百円均一で買えるような安っぽい折刃式のカッターナイフだったが、それでも何もないよりはマシだった。

 宙樹には放っておいたら漂い出してしまう自分の心を繋ぎ止めるための楔が必要だった。


『そんなことをしても無駄だと何度も言ってるだろ。ナイフはおれの象徴だ。おれに力を与えることがあってもお前を守ることはない。もう諦めろ』


 雑音が、母親の死を望んだ罪の意識が、内なる声になって宙樹を責め立てる。

 宙樹はナイフを握りながら自分の足音に意識を集中させる。そうやって、なんとか内なる声をやり過ごそうと試みる。


『無駄だ。無駄だ。もう終わりだ。本当は理解しているのだろ? この地下室こそが全ての終わる場所だと。ここがお前の運命の最終到着地点なのだ。ギロチンの刃は既にお前の頭の上で輝いている。これまでのように誤魔化しはきかない。おれを受け入れろ』


 頭が割れるように痛い。気が遠くなりそうだ。食いしばった歯がギリギリ音を立てる。

 宙樹は頭痛に耐えながら地下室に続く階段をのたのたと下りていく。

 地下室には沢山の影が蠢いていた。

 蠢く影に中央にもう一人の「王」がいた。

 影を従える「王」、あるいは「芸術家気取りの俗物」が。


 宙樹は部屋の中央に鉄製のベッドが置かれていることに気付いた。

 ベッドの側で「王」が静かに微笑んでいる。瞳に昏い光を宿しながら。

 

 まるで地獄みたいだな。

 地下室で蠢く無数の影と薄暗いを浮かべる「王」の姿を見て、宙樹はそう思う。

 世界中で蔓延する新型ウイルスは沢山の人を殺してあの世に送った。

 きっと、そのせいで、地獄が定員を超えてしまったのだ。

 地獄から死者があふれ出している。あの影はきっとウイルスに殺された人達の成れの果てなんだ。

 宙樹はうまく回らなくなった頭でそんなことを考える。

 

 地下室に降り立った宙樹の周りで夥しい数の影が蠢動する。

 宙樹の全身に怖気が走る。

 纏わり付いてくる影を振り払いたいのに体を思うように動かせない。

 あいつが。牟田口(むたぐち)がこっちを見ている。

 昏い目で自分のことをじっと見つめている。

 まるで、悪い(ユメ)()ているような目だった。

 宙樹は慌てて牟田口から視線を逸らす。

 視線を逸らした先に鉄製のベッドがあった。

 そこには美朱(みあか)が横たわっていた。

 

 ああ、やっぱりな。


 驚きはなかった。

 二階で聞き憶えのある声を耳にした時から、こうなることは予想していた。

 あるいは。

 もっと前からいつかこうなると思っていたのかもしれない。


 牟田口(アイツ)の考えそうなことですね。


 宙樹は「ふへっ」と気の抜けた声を上げると、引き攣ったような薄笑いを浮かべた。

 美朱に「卑屈っぽい」と注意された笑い方だ。

 自分でも直した方がいいと思ったが、すっかり体に染み付いた笑い方を、今更矯正することはできなかった。

 そのことが、なんだか酷く哀しいことに思えた。


 黒いドレスを着た女性が宙樹のことを見上げている。

 女性は紐を持っていた。


 おれの目の前で(ほし)さんを絞め殺す、というわけですか。本当に悪趣味な人だなぁ……。


 ドレスの女性は動かない。ずっと宙樹を見つめている。

 まるで足を地面に縫い付けられたかのように微動だにしない。


「さぁ、始めてください。ブギーマンも見てますよ」


 牟田口が諭すような優しい口調で言った。


「は、はい!」


 黒いドレスの女性がビクンと痙攣しながら答える。

 女性は操り人形のようなぎこちない動きでベッドに近付くと、白い紐を美朱の首にゆっくりと巻いていく。

 宙樹はぼんやりとそれを眺めている。

 何も考えたくなかった。考えることをやめたかった。

 宙樹の人生は苦難の連続で、もう思考停止することでしか自分の心を守れなくなっていた。



 ※



 男の顔が歓喜で歪む。

 今この時を持って都市伝説の殺人鬼(ブギーマン)は完成を迎える。

「ささやかな日常」や「人並みの幸福」に未練を残していた宙樹の精神(たましい)が、ようやっと彼岸に至る。


 そのための「儀式」に宙樹の心が耐えられるかは賭けだ。しかし、宙樹ならきっとやってくれる。男はそのことを強く確信する。あの少年は、数十年、いや、一生に一度出逢えるかどうかの逸材だ。


 男は過去に宙樹とよく似た性質の少女に出逢っていた。が、結局、彼女は宙樹のようにはならなかった。

 名前は……そう、千鳥(ちどり)と言ったか。

 千鳥には宙樹の贄になってもらった。宙樹が成長するための糧になって貰った。

「協力者」に絞め殺される直前、千鳥は自分の人生を嘆くような言葉を吐いた。


「私は誰からも顧みられなかった!! 家でも学校でもずっと一人ぼっちだったのにどうして!?」

 確かこのような内容だった筈だ。


 本人が言うように千鳥は孤独な少女だった。

 無色透明の空気のような存在で、学校の教室では誰からも無視されていた。

 教師ですら千鳥のことを気にしなかったようだ。

 どうしてそんなことになったのか千鳥自身にも分からなかった。

 ただ、生まれつき存在感が薄かった。それだけのようだ。

 千鳥自身が周囲とのコミュニケーションを諦めたことも、存在の透明さを加速させたのかもしれない。

 それでも、時々、自分のことを見つけてくれる人間がいる。千鳥は少しだけ嬉しそうな顔でそう言っていた。


 事故で両親を失った千鳥を引き取り、十年以上面倒を見たのも、空気少女から「器」の可能性を見出してのことだったが、最後まで彼女の手に王の証(ナイフ)が馴染むことはなかった。

 男は失望し、もうとっくの前に少女ではなくなった女を「処理」することに決めた。


 ただ殺すのでは勿体ない。後継者の礎になって貰おう。この時、既にに千鳥の後釜は決まっていた。

 真なる人殺しの王を降誕させるための供物になるなら、女に長々と投資した甲斐があったというものだ。

 男はそう考え、女の肉体を後継者——宙樹に差し出したのだ。


 宙樹は期待通りの振る舞いで男を満足させた。

 千鳥の死体が別の女の死体として報道されたのには驚いたが、それも後に間違いだと訂正された。

 

 星美朱の死を乗り越えブギーマンとして覚醒した宙樹は、自分に天上の作品を描くための霊感を授けてくれるだろう。男はそれを強く確信する。


 宙樹の瞳から既に光が消えていた。

 ベッドに拘束された「花嫁」の姿を見て心が砕けてしまったのだろうか?

「儀式」はこれからだというのに。もっと、しっかりして欲しい。「器」としての自覚をしっかり持って欲しい。そのような精神性だから女にうつつを抜かすことになるのだ。


 しかし、それでも、光を失った宙樹の目は良いモノだと思えた。

 少年には絶望がよく似合う。男は常日頃からそんなことを考えていたからだ。


 あの、空気のように透明な少年は何も持たない空っぽの存在だ。

 タブラ・ラサ——白いキャンパスと同じだ。あの少年こそ、誰からも顧みられることのない路傍の石のような少年こそ、都市伝説の殺人鬼を宿すにふさわしい完璧な「器」なのだ。


 男は、紐を手にしたまま微動だにしない女に優しく声を掛ける。

 声を掛けられた女は、操り人間のようにぎこちない動きで生贄の少女の首に紐を巻き始める。

 宙樹の表情がさらに透明になっていく。

 男の表情がますます歪んだモノになっていく。

 それは、一切の光を飲み込む闇のように黒い笑い顔だった。

 それは、悪い(ユメ)のような、地上に顕現した地獄そのもののような笑い顔だった。



 ※



 階段からどこかで見たような顔の少年が下りてくる。

 (あおい)はそれをぼんやりとした表情で見つめていたが、途中で興味を失ったのか、ベッドで眠る美朱ほうに視線向ける。


 美朱は苦しそうな表情で寝息を立てていた。

 美朱の額に浮かぶ汗を、灰邑義丹(はいむらぎたん)の助手である勅使河原伊織(てしがわらいおり)がハンカチでそっと拭き取った。

 その様子をぼんやりと眺めていた(あおい)はあることに気付いた。

 勅使河原が陶然とした笑顔を浮かべていることに。


 それは、美朱がかつてよく見せた表情と同じだった。自分の人生をメチャクチャにした妹がよく浮かべていた(ユメ)()るような笑顔。


 葵は黒いドレスを着た女の表情を伺う。こいつも同じだ。溶けたバターのようにドロドロした笑顔を浮かべていた。そういえば、翠川絵梨花(みどりかわえりか)も似たような表情で死んでいた。胸に赤い血の花を咲かせながら。翠川はブギーマンに選ばれた鮮血の花嫁だった。


『ブギーマンは女が最も美しいときにその命を奪いに来る』

 葵はブギーマンにまつわる言い伝えの一つを思い出す。


 ブギーマンに死を贈られた女。胸に深紅の花を咲かせる権利を得た女。

 どうして、私は特別な女になれない。

 どうして、私以外の女ばかり特別扱いを受ける。

 どうして、私だけが身を粉にして頭のおかしい妹の面倒を見続けなくてはならない。


 不意に、高校時代の同級生の面影が脳裏を掠めた。

 葵がブギーマンを巡る連続猟奇殺人事件に関わるきっかけを作った女——畑千鳥(はたちどり)のことを。あいつもそうだ。あの、教室に転がる石ころのように影の薄い女も、選ばれる側の女だった。そのことが無性に腹立たしかった。


 許せない! 許せない!! 許せない!!! 全部許せない!!! 

 葵の中で黒い炎が燃え上がる。

 どうして、私だけ()()()()()!!!

 どうして、私だけいつも惨めなんだ!!!

 ああ、駄目だ。

 このまま妹を死なせてはいけない。

 私の人生を壊した女に特権的な死などくれてやるものか……!!


「あああああああああああっっっっっっっッッッッッッッ!!!!!!」


 葵は獣声を上げながら妹の首に紐を巻き付けている女に掴み掛かった。



 ※



 前野(まえの)大迫(おおさこ)は同僚が消息を絶った洋館の探索をしていた。

 前野は先刻からこの洋館でおかしな気配を感じ続けていた。

 長年の経験によって培われた刑事の直感がこの洋館に「何か」あると告げているのだ。


 洋館の門は開け放たれていた。インターホンを鳴らしても扉を叩いても住民は姿を現さない。

 試しに扉を引いてみたら簡単に開いてしまった。

 前野と大迫は顔を見合わせたが、次の瞬間には扉をくぐっていた。令状は取ってない。後々問題になるかもしれないが、緊急事態なのだから仕方がない。二人はそう思うことにした。


 前野は自身の直感に導かれるまま洋館の奥へと進んでいく。相棒の大迫はもう何も言ってこない。前野に追随するのみだった。

 

「この部屋は……」


 前野が足を踏み入れたのは倉庫に使われてると思しき大部屋だった。

 無数の棚があり、そこに荷物が押し込まれている。

 周囲の様子を伺うが人影は見当たらない。

 部屋はあまり整理されていなかった。棚からあふれた荷物が無造作に積み重なり、そのまま放置されていた。


 前野はじっくりと目を凝らして、注意深く部屋の観察を続ける。

 そして、そこに、おかしなモノを()た。

 それは、人間の腕、あるいは、足に見えた。

 人間の腕か足に見える「何か」が棚と棚の間から飛び出している。

 よくよく見るとすぐ近くに頭のような赤くて丸い物体も転がっていた。

 前野は誘われるように自分が()た「何か」に歩み寄る。

 まるで蝋燭に向かって羽ばたいていく蛾のように。

 己の身を焼く炎に焦がれる虫ケラのように。

 前野の喉から「ヒュウ」と掠れた音が鳴った。

 棚と棚の間に転がっていた「何か」。それは人間の死体だった。

 前野は「ああ……」と小さく声を漏らす。

 そして、星姉妹を追いかけてこの洋館に辿り着いた同僚の死体を見下ろす。

 死体の頭部に固まった血がベットリと付着していた。両手足は不自然な方向にねじ曲がっており、顔は赤黒く腫れ上がっている。

 近しい間柄の人間でなければ身元の判明は難しかったかもしれない。

 前野は傷ましさよりも先に同僚に振るわれたであろう暴力の凄惨に震えを覚えた。


「大迫、(かがみ)さんに連絡を……」


 死体を見下ろしたまま後輩刑事に声を掛ける。しかし返事はなかった。さっきまで一緒に行動していた筈なのに。前野は怪訝な表情を浮かべるが、次の瞬間、その目は大きく見開かれ、驚愕の表情に取って代わられた。


「……まさか!」


 最悪の予想が前野の脳裏をよぎったその時だ。

 突如、物陰から現れた黒い影が前野の後頭部に鈍器を振り下ろした。

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