10-2
「灰邑先生、準備は整っております……」
黒いスーツを着た初老の男が恭しく一礼する。
男の背後では複数の人影が蠢いていた。
この影は全て今回の「儀式」の参加者達だった。
「うん」
灰邑義丹は鷹揚に頷くと鉄製のベッドのうえに少女を横たえる。
少女は美朱だった。
「彼を呼んできて」
灰邑が安全帯で美朱をベッドに拘束しながら初老の男に指示を出す。
男は一礼すると地上にあがる階段を上っていった。
「レストランの地下にこんな部屋があるなんて……」
周囲を見回しながら葵が呟く。
灰邑に案内された部屋は床も天井もコンクリートの打ちっぱなしで葵は酷く無機質な印象を受けた。
ここはレストランとして使われている洋館の地下室だった。
「すみませんね。もう少し待っていてください」
灰邑が薄笑いを浮かべながら葵に言う。
「ええ……」
葵は灰邑の言葉に短く答えるとベッドに拘束された妹の顔を覗き見た。
妹は苦しそうな表情をしていた。時々、小さく呻き声を上げる。笑い夢でも見ているのだろうか?
葵は妹の額に浮かんだ汗を指先でそっと拭き取った。
「灰邑先生、これを」
勅使河原伊織が灰邑に白い布のようなものを手渡す。
「それは?」
葵の疑問に答えるように灰邑が手渡されたものを広げてみせた。
勅使河原が灰邑に渡したのは白いローブだった。
「儀式は然るべき格好で執り行わないとね」
ローブに袖を通しながら灰邑が言う。
『おお……!』
地下室で蠢く無数の人影が歓喜の声を上げる。
「儀式……」
葵がぼんやりとした表情で灰邑の言葉を繰り返す。
そうだ。これからこの地下室でブギーマンカルトの儀式が執り行われる。
私はそれを取材するためにここにやって来たんだ。
儀式の生贄に選ばれた妹の美朱と一緒に。
「そろそろだ……」
「ブギーマンのナイフが今日も女を赤く染め上げるぞ……」
「人殺しの王を早くここに……!」
「黒き死の病は解き放たれた」
「世界はもうこんなにも死であふれている……!!」
人影が囁く。
「皆さん、落ち着いてください」
勅使河原が柔らかな声で興奮する儀式の参加者達を制する。
「今日はどなたが?」
「わ、私です……!」
勅使河原の問い掛けに影のひとつが答えた。
「前にどうぞ」
影が進み出る。
「これを」
勅使河原はそう言うと、ベッドの横に置かれた小さなテーブルから銀色の盆を取り上げ、前に進み出た影——三十代なかば程の黒いドレスを着た女性に差し出した。
盆の上には白い紐が載っていた。
女が震える指を盆に伸ばし、紐を摘み上げた。
「ああ……!」
紐を手にした女が歓喜の声を上げた。
「これで私もあのお方と。人殺しの王と重なることができるのですね……!!」
女は目に涙を溜めながら灰邑と勅使河原の顔を見る。
灰邑と勅使河原は笑顔で頷いてみせる。
葵はその様子をぼんやりとした表情で眺めている。
あの紐はなんに使うんだっけ?
葵はアルコールのせいで上手に回らない頭で考える。
ああ、そうだ。
葵は思い出す。
まず、あの紐で生贄の首を絞めるんだ。
勅使河原から説明された儀式の進め方を思い出す。
生贄をあの紐で絞め殺して、そのあとブギーマンがナイフで胸を突く。
でも、どうしてそんなまわりくどいことを?
ブギーマンは人殺しの王でナイフの達人だ。
この世界の全ての人間をたった一振りのナイフで殺し尽くす、絶対の殺人王権を神から賜った存在。
予め生贄を殺しておく必要なんてないのに……。
「葵さん、ありがとう」
やにわに灰邑が言った。
「あなたのおかげで最高の生贄を手に入れることができました。美朱さんを供物として捧げることで僕のブギーマンはやっと次の階梯に進むことができます」
灰邑が満面の笑顔を見せた。
「私からもお礼を言わせてください。あなた達ご姉妹の協力で灰邑先生は悲願を達成することができるのですから」
勅使河原はそう言うと葵に向かって微笑んでみせた。
まるで、幻でも視ているようなうっとりとした表情だった。
そんなお礼だなんて。
こちらこそ、厄介者の妹を始末していただけるのだからお互い様です。
葵の頬がピクピクと痙攣する。
笑ってみせようと思ったのに灰邑や勅使河原のようにうまく笑えない。
きっと、お酒のせいね。
葵はそう思うことにした。
「灰邑先生……」
地上にあがる階段の上から声が聞こえた。
「うん」
灰邑が頷く。
「さぁ、皆さん。儀式の時間です」
灰邑の言葉に影達が『おおおおお……!!!』と嘶いた。
紐を手にした黒いドレスの女がブルブルと全身を震わせる。
女の唇の端で唾が白く泡立っていた。
「ブギーマンの降臨です!」
灰邑はそう言うとローブの袖をサッと翻し、階段の前に跪いた。
勅使河原と参加者達も灰邑に続いて跪く。
黒いドレスの女と葵だけがその場に立ち尽くしていた。
階段から黒いスーツを着た初老の男が下りてきた。
男は勅使河原の横に並ぶと膝を床に付けた。
続けて、階段をゆっくりと下りる足音が地下室に響き渡る。
「ああ……」
葵はうっとりとした表情で呻き声を上げた。
階段を下りてきたのは見覚えのある少年だった。
※
覆面パトカーがサイレンを唸らせながら猛スピードで走る。
ハンドルを握っているのはK県警捜査一課の刑事・前野だった。
「手遅れにならないといいんだが……」
前野の言葉に助手席の大迫が「そうですね……」と同意を示す。
「オカルト趣味に染まった連中のやることだ。絶対にろくなもんじゃない……」
苦々しい表情で前野が言う。
「アイツとはまだ連絡がつかないのか?」
「ええ……」
スマホを操作していた大迫が眉を顰めながら答える。
今から遡ること二時間ほど前。
星葵の張り込みを担当していた刑事から、星葵が妹の美朱を連れてどこかへ出かけるようなので自分はこれから二人を尾行する、と連絡があった。
さらにその一時間後、星姉妹を尾行していた刑事から、二人が此乃町の外れにある古い洋館の中に入っていった、と連絡が来た。
調べてみると、件の洋館はある一流企業の上役の持ち物でその人物はブギーマンを始めとする都市伝説やオカルト趣味に傾倒していることが分かった。
更に、その人物が灰邑義丹=牟田口尚哉のパトロンであることが経済誌のwebインタビューから判明した。
K県捜査一課の主任・鑑草太は前野と大迫に至急応援に向かうよう指示を出した。
二人を向かわせたのは洋館の持ち主と灰邑=牟田口の繋がりにきな臭いものを感じた鑑の個人的な判断だった。
昨年12月の天川ミチル殺しに端を発するこの連続猟奇殺人事件は、あまりにも様子がおかしい。事件の裏に尋常ならざる「何か」があるのではないか。
鑑の長年の刑事としての勘がそう告げていた。
星姉妹を尾行していた刑事との連絡がつかなくなっている。
定期報告の時間になっても連絡が来ないのだ。
電話は不通、メールへの返信もない。
「ふむむむん……」
ハンドルを握る前野が低い声で呻く。
助手席の大迫は同僚の無事を祈った。が、同時に最悪の事態も考えていた。