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「この灰邑義丹って画家、人気あるのかな? この前行った美術館に、すごく大きな油絵が飾られていた人だよね? 何か、特集展示が始まってるみたいだけど……」
駅前の掲示板に貼られたポスターを見ていた美朱が言った。
ポスターに使われている画は『ハーヴェスター』と題された油絵。
手足の異様に長い人影が、業火の中でもがく人々を刈り取ろうと、巨大な鉈を構える姿を描いた作品だった。
「相変わらず悪趣味な画だよね。どこに需要があるんだか」
「どうでもいいでしょ。そんな画家の話は」
宙樹は自販機のボタンを押しながら答える。
「星さんも何か飲みますか?」
「えーと、ドクペがあったらお願い」
「あるわけないでしょそんなもの。午後ティーでいいですね?」
後輩の返答を聞かず宙樹はレモンティーのボタンを押した。
「はい、午後ティーのレモン。ストレートもありますよ」
「ドクペじゃないの? せめてメッコールにして欲しかったな」
「ドクペよりもレアになってるじゃないですか!? 黙ってこの午後ティーを飲んでください!」
宙樹は、不満そうな顔をした後輩に、無理矢理、レモンティーのミニペットを押し付けた。
「あ、お金」
「おれのおごりですよ」
「へぇ、気前いいんだね」
「別に、そんなんじゃありませんよ」
五月の終わりの太陽がジリジリと肌を刺す。
夏の到来を予感させる気温だったが、実際には、まだ梅雨入りすらしてない。
「気温がバグり散らしてますよね。まだ、五月なのにもうこんなに暑い……」
「やっぱり、海に来て正解だったでしょ?」
美朱からいたずらっぽい笑顔を向けられて、宙樹の心臓が跳ねる。
ついでに、先程、抱きしめられた時の感触がまざまざと蘇り、胸の鼓動が早くなる。
「宙樹先輩?」
思わず、その場にへたり込んでしまった宙樹に、美朱が気遣うような声をかける。
「何でもないです。ご心配なさらず……」
「そう? ならいいけど」
どうして、この後輩は、こうも平然としていられるのか。
こっちは、内心の動揺を隠すのに必死だというのに。
「このあと、どうする?」
「そうですね……。ひとまず、昼ご飯でも食べますか?」
新型ウイルスの影響で客足が遠のいているが、一応、観光地だ。
食堂のひとつやふたつは営業しているだろう。
二人はそう当りをつけて駅前の大通りを歩き出す。
「あ、猫だ!」
美朱が指差すと、青い首輪を付けた黒猫は「にゃー」と小さく鳴き、鈴の音と一緒に路地の暗がりに消えた。
「逃げちゃった。残念」
人影のない大通りを二人で進む。
ほどなくして、小奇麗な土産物屋兼休憩所が見つかった。
「ここにしますか?」
「そうだね。私はしらす丼にしようかな。絶対に美味しいやつだよこれ!」
店先に飾られた食事メニューの写真を見ながら美朱がはしゃいだ声を上げる。
「いいですね。おれも同じものにしますよ」
「うん! 早く入ろう!」
美朱が宙樹の手を掴み、急かすように引っ張っる。
「そんなに慌てなくても、しらす丼は逃げませんよ」
宙樹は、火照った体を冷やす、美朱の雪のように冷たい肌の感触を心地良く感じた。
※
「これ、買っていこうかな」
宙樹が食事の会計を済ませていると、美朱がレジに土産物を持ってきた。
「何ですか、それは?」
美朱が持ってきたのは、デフォルメされた半魚人のキーホルダーだった。
ビビットなグリーンの体色と横に伸びたピンク色の唇。頭の上に赤いタコのような生き物が鎮座している。
「この海岸のマスコットキャラらしいよ。えーと、名前はフカキドン。頭の上のタコはダゴ子ちゃんで、フカキドンのガールフレンド兼ご主人様なんだって」
「はぁ……」
美朱は気に入ったようだが、宙樹にはイマイチ理解できないセンスだった。
「あとはどうしようかなぁ……。うわ、灰邑義丹のポストカードがある。そういえば、ここ出身の画家だったっけ」
美朱は、灰邑の画がプリントされたポストカードに触れた指先を、空中でブンブンと数回振った。
その仕草は、まるで、黴菌を振り払うかのようだった。
「そのキーホルダー、プレゼントしますよ」
「いいの!?」
「はい」
「わーい、ありがとう!!」
そういうと、美朱はフカキドンのキーホルダーをふたつ持ってきた。
キーホルダーは全く同じデザインのものだった。
「どうして、同じものを二個?」
「ひとつは私の。で、もうひとつは宙樹先輩用。先輩用は私が買ってプレゼントします!」
「いえ。おれは遠慮しておきます。何か、呪われそうなデザインですし」
「私が!! プレゼント!! するの!!」
鬼気迫る後輩の表情に宙樹は生命の危機を感じた。
「はい。ありがたく頂戴します」
「よろしい!」
宙樹は、後輩からの施しをおとなしく受けることに決めた。
「えへへ。お揃いのキーホルダーだね。早速、リュックに付けちゃおう」
美朱の嬉しそうな顔を見て、宙樹は自分の胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「先輩も付けて!」
少し――いや、だいぶ恥ずかしかった。けれど、宙樹は、後輩のリクエストに黙って従うことにした。
小さな紙袋からキーホルダーを取り出す。少しだけ迷って、リュックのファスナーに付ける。
「どうですか?」
「サイコウ!」
美朱が満面の笑顔を浮かべる。
その笑顔が、まるで太陽のように眩しくて。
宙樹は、自分の存在が、空気のように軽く、影のように薄ぺっらい自分の存在が、光の彼方に消えていくような錯覚を覚えた。
「さーてと、次はどこに行こうかなっと。宙樹先輩、リクエストある?」
「おれのことは気にしなくていいですよ。星さんの行きたい所に行きましょう」
「うわー、今日の宙樹先輩、メチャクチャ優しいなぁ。お昼ご飯を奢ってくれたうえにキーホルダーまで買ってくれたし」
「おれはいつでも優しいですよ?」
「うん、そうだね。知ってる」
軽口に真剣な反応されて、宙樹は顔を赤くして口ごもる。
「先輩、顔が真っ赤だよ。ダコ子ちゃんみたい!」
「ええー……」
この後輩には振り回されっぱなしだ。
でも、それが楽しい。
振り回されるのが、心地良い。
この後輩は、おれのことを視てくれる。
誰からも顧みられることのなかった空気人間のおれを。
路傍の石ころにすぎないこのおれを
幻のように曖昧で、生きているのか死んでいるのかもはっきりしないおれという存在を、しっかり、今この瞬間にピン止めしてくれる。
ああ――。
おれは、彼女に。
星美朱という人間に幻視られたい。
『おいおい。勘弁してくれよ相棒』
声が。
宙樹の頭の中に空いた昏い穴から声が聞こえた。
「星さん、何か話をして下さい」
「え、急にどうしたの?」
美朱が面食らったような顔になる。
「何でもいいんです。世間話でも、映画の話でも。星さんの声をもっと聞かせてください。おれ、星さんの声が好きなんです」
「え、え、えー、な、何それ!! い、いきなりそんなこと言われたら恥ずかしくなっちゃうよ……」
顔を赤くする後輩に、宙樹はできる限り自然な笑顔を作って「さあ」と促した。
『そんなことをしても無駄だぞ』
頭に中から軋むような声が忠告する。
「あ、そうだ。映画の話といえば、この前話したボニーとクライドのやつは観た? 『俺たちに明日はない』ってタイトルなんだけど」
「あれは映画の話だったんですか?」
「ボニーとクライドは実在の犯罪者だよ。その二人の出会いと別れを描いた映画が『俺たちに明日はない』なの」
「へぇ、そうだったんですか」
「うん。えーと、じゃあ、宙樹先輩に宿題を出します。次に会う時までに、『俺たちに明日はない』と『小さな恋のメロディ』を観ておくこと!」
「次はいつ会えますか? おれは、明日にでも星さんに会いたいです。毎日、星さんに会いたいです」
宙樹の言葉に、美朱の顔が紅潮した。まるで林檎みたいだった。
「えええええ!! ちょ、さっきから何なの!? 宙樹先輩がそんなこと言うなんて……」
珍しく狼狽える後輩の姿が面白くて、宙樹はつい噴き出してしまった。
「もう、笑わないでよ!」
「ははは。すみません。面白い顔だったのでつい」
「女の子に向かって面白い顔とか言うの禁止!!」
「痛い! 痛いですよ! そんなポカポカ叩かないで下さい」
「ダメ! 絶対に許さない!」
「あはははは! 痛い! 痛いですって!」
気の早い初夏の太陽が、少年と少女を照らす。
海風が、二人の間を吹き抜ける。
世界中から、二人の声を除いて全ての音が消え失せた。潮騒も、ここまで届くことはない。
宙樹と美朱は、完璧に、完膚なきまでに完成された、ふたりだけの世界に佇んでいた。
このふたりの完全な世界に、もう、いかなる存在も干渉することはできなかった。
ナイフも、病原菌も、殺人も。
業火の中で人々の命を刈り取る黒い人影も。
何処かで起きている、他人事のような戦争も。
ありとあらゆる困難と災厄が消え去り、宙樹と美朱はその人生の中で初めて心からの安らぎを獲得した。
『くだらない。そんなモノは錯覚だ。いつかは醒める一瞬の幻想にしかすぎない。楽しみにしているぞ。お前が、幻想のあとの現実を目の当たりにしてもなお、その砂糖菓子のように甘い毒を愛し続けられるかをな』
遠くて近い場所で昏い声が囁いた。




