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「空気少年」は視られない。
この「空気少年」というのは、空嶋宙樹のことを指す。
宙樹は、生まれつき存在感の薄い少年だった。
身長も体重も平均。勉強も運動神経も平均。
容姿にも特筆すべき部分がない。
強いて言うなら、黒いセルフレームの眼鏡が個性になるのかもしれないが、それすらも、量販店に行けばいくらでも見かけるありふれたデザインのものだった。
友人の数も極端に少なく、片手の指で数えられる程度。
その友人たちですら、頻繁に宙樹の存在を忘れる。
朝の教室や廊下ですれ違ったときに声をかけると、一瞬、道端の石に話しかけられた、とでも言いたげな表情を見せるのだ。
そんな友人たちの反応に宙樹は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
彼は、もう、他人の記憶に残る努力を放棄していた。
幼い頃からそうだった。
他人の認識の外側に在り続け、路傍の石ころのように、ただ捨て置かれるだけの存在。
だれにも顧みられない、まるで、無色透明な空気のような存在。
それが、空気少年・空嶋宙樹だった。
※
そんな空気少年の生活に変化が起きた。
変化のきっかけはある少女との出会いだ。
少女の名前は星美朱。
彼女に声をかけられたのは、一週間ほど前のことだった。
満開だった桜が散って半月ほど経った五月上旬。
宙樹が近所の公園で、物思いにふけっていると。
「あの……大丈夫ですか?」
宙樹の顔をのぞき込みながら声をかけてきた美朱の表情は、他人を心から気遣う人間の表情に見えた。
「へっ……? うへあっ!?」
そんな表情を自分に向ける女性と縁遠い人生を送っていた宙樹は、挙動不審にならざるを得なかった。
「あ、めっちゃ面白い顔と声!」
美朱は特に気にしたふうでもなく、屈託のない笑顔を見せながら言った。
「いや、別に普通ですけど!?」
宙樹はあたふたとした調子で美朱の言葉を否定する。
「鳩が豆鉄砲食らったみたいな表情だよ! 面白い!」
美朱はそう言うと、あははと、楽しそうに笑った。
「具合が悪そうだったから声をかけてみたけど、大丈夫そうだね。……って、何でカッターなんて持ってるの?」
形の良い眉をわずかにひそめ美朱が聞く。
その視線は宙樹の手元に注がれていた。
折刃式のカッターナイフをきつく握りしめた手に。
「あばばばばばばばっっっ!! こ、これは何でもないんですぅー!! 別にカッターの刃先を見てると落ち着くとか、そんな変な趣味があるワケじゃないんですぅー!! おれは善良で常識的な一般市民なんですぅーー!!!」
気の動転した宙樹は、聞かれてないことまで早口でまくしたてる。
全身から脂汗が吹き出し、目が宙を泳ぎまくっている。
「カッターの刃を見てると落ち着くの?」
宙樹は水飲み鳥のように勢いよく頭を上下にふる。
美朱の表情は、何か考え込んでいるように見えた。
「おまじないの一種なんだろうね。分かるな、そうゆうの……」
美朱はそう言いながら、真っ直ぐに宙樹の目を見る。
黒目がちのアーモンド形をした大きな瞳。じっと見つめていると、そのまま吸い込まれそうな錯覚を覚える、ブラックホールめいた瞳。
宙樹はどう言葉を返せばいいか分からない。自分の鼓動が速くなるのを感じた。
二人の間を五月の生ぬるい風が通りすぎていく。
空気が黴臭い。宙樹はくしゃみをしそうになったが、何とか我慢した。
遊具で遊ぶ子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
その声を聞いて、美朱が口を開いた。
「……カッター、そろそろしまいなよ。さすがに、子供の前でチラつかせるのはヤバイでしょ?」
「そ、そうですね……」
宙樹はチキチキと小気味のいい音をたてながらナイフの刃を収め、スボンのポケットにしまった。
「その学ラン、どこかで見たことがあると思ったら、私と同じ学校なんだね」
そう言う美朱の着ている制服に宙樹は見覚えがあった。
ありふれたデザインの濃紺のセーラー服と、ベージュのカーディガンの組み合わせ。
宙樹が通う都亜留高校の女子生徒の制服だった。
「私は今年入学した一年生だけど、あなたは?」
「おれは二年生です。一応、先輩になりますね」
「え、そうなの!? 勝手に同い年かと思ってた……じゃなかった、思ってました」
「……別にタメ口でもかまいませんよ」
「先輩は誰にでも丁寧語なの?」
「その方が楽なんですよ。あと、おれの名前は空嶋宙樹です」
「えーと、私は星美朱。よろしくね、空嶋先輩!」
「……何をよろしくするんですか?」
「さぁ?」
美朱は首をかしげてそう言った。
屈託のない笑顔を浮かべている。
宙樹は動揺を隠すことができなかった。
誰にも視られるはずのない「空気少年」の姿をはっきりと認識する少女の存在に。
「私、空嶋先輩とはまあまあ長い付き合いになると思うな!」
後輩の少女は、瞳をキラキラと輝かせながらそう言った。




