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空気少年は幻視(み)られたい  作者: 砂山鉄史
7.鮮血の花嫁の伝説
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7-5

 ほしあおいの頭の中には無数の羽虫が棲みついている。

 今日も朝から羽虫どもがブンブンブンブン唸りを上げていた。

 家を出てからもそれは変わらなかった。


 うるさい。

 うるさい!

 うるさい……!!


 とてもじゃないが平静な気分ではいられなかった。


 だから――。


 妹の美朱みあかに手を上げてしまったのかもしれない。


 翠川みどりかわ絵梨花えりかに指定されたビルに向かう途中。

 葵は慚愧の念に囚われ続けていた。



 ※



 朝食の席でのことだった。

 トーストを齧りながらスマホをいじる制服姿の妹に葵は理由もなく苛立ちを覚えた。


 いや、そうじゃない。

 理由なんて探せば幾らでも見つかった。


 例えば、食事中にスマホをいじる行儀の悪さ。

 例えば、対面の姉をまるで空気か何かのように無視したその態度。

 例えば、自分の立場をまるで理解してない最近のふざけた口ぶり。

 例えば、ここ数日ずっと続いている片頭痛。

 例えば、思ったとおりに進まない仕事と無能の後輩。

 例えば、いつまで経っても収束する気配のないウイルス禍。

 例えば、遠い異国で始まった侵略戦争。


 ストレスの種は世界中にあまねく存在していた。


「美朱!」


 気付くと、非難するような声で妹の名前を叫んでいた。

 突然、大きな声で名前を呼ばれた妹は、一瞬、呆気に取られたような表情を見せたが、慌てて笑顔を作ると「何?」と聞き返してきた。


 その取り繕った態度が葵の苛立ちを更に助長した。


「食事中だよ! スマホをいじるのをやめな!」

「どうしたの急に?」


 何なんだ、そのヘラヘラとした態度は。

 私は怒っているんだぞ!

 葵は自分の頭の中で夥しい数の羽虫がブンブンと飛び回るのを感じた。


「うるさいって言ってるでしょ!!!」


 思い切りテーブルを叩く。

 食器が弾み、マグカップからコーヒーがこぼれた。


「ちょ、おねーちゃん!?」


 妹はまだスマホを手放そうとしない。

 ふざけるな。お前が使っているそのスマホの代金と使用料は誰が払っていると思っているんだ。


「よこしなさい!」


 葵がテーブル越しに妹のスマホを取り上げようとする。


「やめてよ!」


 妹に抵抗された。


「おねーちゃん、やめて!!」


 妹に拒絶された。

 妹が私に逆らった。

 妹が私の管理下から逃れようとしている。


 葵の中で何かが爆発して、頭の中が真っ白になった。


「痛い! 痛いっ!! そんなに引っ張ったら髪の毛が抜けちゃうよ!!!」


 羽虫は相変わらず葵の頭の中でブンブンと飛び回っている。

 どうすれば、この煩わしい害虫を黙らせることができるのか。

 どうすれば、この煩わしい害虫を殺し尽くすことができるのか。


「ひどい。どうしてこんなことするの……?」


 ダイニングの床に転がった妹がボールのように丸くなっていた。

 葵は丸くなった妹をサッカー選手のように必死になって蹴りつけていた。

 爪が食い込むほどきつく握った掌をひらくと、そこから髪の毛がハラハラと舞い落ちた。妹の髪の毛だった。


 妹の啜り泣く声が葵を正気に戻しかけた。

 不意に、妹から奪ったスマホの画面に視線がいく。


 妹は食事をしながらLINEをやっていたようだ。

 相手の名前を目にした瞬間、冷静になりかけていた葵の中で再び何かが大きな音をたてて爆発した。


「お前は私を舐めているのか!?」


 一際強く床に転がった妹を蹴りつける。

 妹が「ウゲェ」と潰れたカエルのような声を上げる。

 その声がなんだかおかしくて。

 葵はケラケラと笑い出してしまう。


「はははははは!! 私がクソのような労働で苦労している間にお前は男遊びかよ!! はははははは!! いつから、そんな大層なご身分になった!? はははははは!! 面白すぎるだろ!!!」


 LINEの相手は空嶋(からしま)宙樹(ひろき)

 数日前、警察に呼ばれて妹を迎えに行った公園で見かけた少年だ。


「何が彼氏なんていないだよこの嘘吐き女が!! 海もこいつと行ったみたいだなぁ? 私には女友達と一緒に行くって言ってなかったっけ? ガキの頃からの虚言癖がまだ治らないみたいだなぁ!? お前のイカれた発言に振り回される家族の迷惑をもう少し考えろ!!!」


 葵の言葉に、妹が顔を上げた。

 睨みつけるような表情を向けてくる。

 その表情が腹立たしくて、葵は手にしていたスマホを妹の顔めがけて投げつけた。

 妹が悲鳴を上げる。

 雪のように白い肌が裂け、ぷくりと血の玉が膨らむ。

 深紅の露はやがて紅い線となり、柔らかな肌を走り抜ける。

 細い肌から、紅い雫がポタリポタリと滴り落ちて、ダイニングの床に小さな小さな血の池を作る。


 その艶かしさに、葵はゾッと身震いした。

 この女は、こうやって人間の心を惑わし、人生を破壊し尽くすのだ。


 葵は急に妹のそばから逃げ出したくなった。


「もういい。仕事に行くね。お弁当、忘れないで。あと、マスクもちゃんと付けてね」


 今日は翠川(みどりかわ)絵梨花(えりか)との約束があった。

 のんびりしている場合ではない。急がないと時間に遅れる。


 葵の言葉に妹は何も言わない。

 ただ、俯いて床を眺めているだけだ。


 怪我をした妹を放置したまま、葵はマンションを出た。



 ※



 翠川が指定した場所は、電車で一時間ほどの場所にあるオフィスビルだった。

 なかなか小綺麗なビルだった。少なくとも葵が勤める出版社のビルよりは。


 これから、ブギーマンカルトが行う集会への取材を行う。

 先方からの了解は既に得てある。

 自分達は世間からあらぬ誤解を受けている。

 その誤解を払拭するような記事を書いて欲しい。

 翠川からそう頼まれている。


 誤解も何も、カルトに対する世間の評価なんてあんなものだろう。

 自分の書く記事でその評価が覆るとは到底思えなかったが、そのことを素直に伝える義理も自分にはないと判断した。


 とりあえず、読者と編集長にウケる記事を書くことが優先だ。

 もし、翠川が文句を言ってきても適当に受け流しておけばいいだろう。


 この取材がうまくいけば、冬のボーナスに期待を持てる。

 

 そうだ。

 ボーナスが増えたら、美朱にお小遣いを沢山あげよう。今朝、怒鳴り散らしたうえに、殴り飛ばしてしまったことへのお詫びだ。スマホは壊れていないだろうか? 壊れていたら新しいモノを買ってあげないと。


 そうやって、妹への愛情を示そう。

 大丈夫。妹は私に懐いている。きっと赦してくれる筈だ。

 これまでだって、そうだった。

 だから、今回もきっと大丈夫。


 それにしても、美朱から流れる紅い血は綺麗だったなぁ……。


 朝のことを思い出して、葵はうっとりとした表情を浮かべた。

 泣き顔も、恐怖で怯えたような顔も。

 妹の全て美しい。

 妹の全てが愛しい。

 妹の全てが尊い。


 全部、私のモノだ。

 誰にも、分けてなんかやらない。

 裏切り者の両親にも、あの空嶋とかいう、辛気臭い眼鏡の男にも。


 ——あの女。

 私をこの集会に誘ったあの女。

 (ユメ)()るような顔をした女。妹と同じ種類の「目」を持った女。

 私を……私の人生を狂わせた女と同じ、幻視者の目を持った女……。


 そいつのことを考えると、心の奥底からドス黒い憎しみが沸く。

 妹のようにアイツを殴ったら、きっと胸がすっきりするだろう。

 妹のように綺麗な紅い血を流すだろうか。

 アイツをナイフで切り刻んだらどうなるだろうか。

 アイツと同じように美朱をナイフで切り刻んだら……。


 ブギーマンは女が最も美しい瞬間(とき)に顕れてその命を刈り取る。そんな話があった。

 美朱も、あの女も、きっと、ブギーマンに狙われる側の女だろう。

 それに比べて自分は……。

 葵は恐ろしいほど惨めな気分になる。気が狂いそうなほど惨めな気分になる。

 頭の中の羽虫どもが一斉に羽ばたき、永遠とも感じる、まるで拷問のような偏頭痛を葵にもたらす。


 どうして!

 どうして私ばかりこんな目に!!


 気が付くと、目的の部屋の前に到着していた。

 インターホンを鳴らすが、誰も出ない。繰り返し鳴らしてみるが、反応はない。

 玄関をノックしてみても、中から誰も出てくる気配がなかった。


 試しにドアノブに手を伸ばす。予想に反して、簡単に回ってしまった。

 葵は「不用心ね……」と呟きながら、恐る恐る、ドアを開ける。


「お邪魔しまーす……」


 念のため、一言断って部屋に入る。


「何、この臭い……」


 部屋の中に嫌な臭気が充満していた。

 これは……血の、臭い?


 葵はそろりそろりと部屋の奥に進んでいく。

 誘蛾灯に誘われる蛾のように。

 そこに向かったが最期、どのような末路が待ち受けているかも気にせずに進んでいく。


「ああ……」


 葵は嘆息した。


 十畳ほどある畳敷きの部屋の中央。

 そこに、女が寝転がっていた。


 アレは、美朱? 私の、妹?

 違う。そうじゃない。

 アレは、あの女だ。

 アレは、翠川絵梨花だ。

 

 翠川の胸元には深々とナイフが突き刺さり、深紅の花を咲かせていた。

 ウエディングドレスのような白いワンピースと紅い血。そのコントラストがあまりに美しくて。

 葵には鮮血の花嫁が現実に顕れたとしか思えなかった。

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