6-3
宙樹と美朱は並んで砂浜を歩いていた。
美朱は砂に埋もれた木の枝を拾うと、鼻歌まじりにそれを振り回す。
宙樹はそれを黙って横目で見つめている。
吹き抜けていく潮風に乗って、美朱のワンピースの裾がふわりと広がった。
陽の光がチリチリと肌を焼く。宙樹の額をひとすじの汗が伝う。
ふと、海の方に視線をやると、水平線近くに白い船が見えた。あれは何の船だろう。
この海岸はまあまあ有名な海水浴場で、夏になると大勢の人でごったがえすが、ここ数年は新型ウイルの影響で海開きできない状況が続いていた。
「思ったよりも陽射しが強いね。帽子を持ってくればよかった」
美朱はそう言うと、手庇をしながら目を細めた。
「そうですね。まだ五月なのにすっかり夏の風情だ……」
宙樹が答える。
「そうだ、写真撮らないと」
美朱はハンドバッグからスマホを取り出し、ところかまわずシャッターを切り始めた。
「先輩、ちょっといい?」
後輩が手招きをしてくる。
「どうしたんですか?」
「スキありっ!」
美朱はそう言うと宙樹にスマホを向けてシャッターを切った。
「わ、やめてくださいよ!」
「あはは、記念撮影だから」
後輩の屈託ない笑顔を見ていると、ささいなことで腹を立てるのが馬鹿らしくなってきた。
美朱は写真撮影に飽きたのか、スニーカーと靴下を脱ぐと、裸足で海の方へ駆けていった。
ワンピースの裾を持ち上げ、素足を海水にそろそと浸す。犬が自分の尻尾を追うようにその場で一回転すると、笑い声を響かせながら水をバシャバシャと蹴りあげる。
「宙樹先輩もおいで。水が冷たくて気持ちいいよ!」
「おれは遠慮しておきますよ」
「いいから、おいでってば!」
また、美朱が手招きをする。
宙樹は誘われるまま裸足になると、素足を海水におずおずと浸していく。
美朱の言うとおりだ。陽射しで火照った肌に海水の冷たさが心地よかった。
しばらく、ふたりは足を小波にさらしていた。潮騒だけが耳に届く。宙樹はこの世界で自分と美朱のふたりっきりになったような錯覚を覚えた。
「はー、お腹減ったなぁ……」
お腹のあたりを手でおさえながら美朱が言った。
「そういえば、とっくにお昼の時間を過ぎていますね……」
宙樹がスマホで時間を確認する。もう、午後の一時近くだった。
「さすがにビーチパラソルのレンタルはやってないよね……」
当然だが、海の家の類いは営業していない。
「駅の近くにベンチがありました。そこで食べましょう」
「うん!」
ふたりは海水浴場の入り口まで戻ると、近くにあった水道で足を丁寧に洗い、ハンドタオルで拭った。
靴下を履くのが面倒だった。素足をスニーカーにとおして、駅の方に向かう。
遠くから聞こえる汽笛が二人を送り出すようだった。
※
目的のベンチは木陰の下にあり、休息には好都合だった。
駅舎の前の自販機でお茶を買い、宙樹は用意してきた弁当を広げる。
三段組の大きな弁当箱には、海苔で巻いたおにぎり――具材はシャケとおかかと梅干だ――、玉子焼きと鶏の唐揚げ、ウインナーと野菜のケチャップ炒めに菜の花の辛子和えが詰まっていた。
「わー、美味しそう!」
「特に珍しいものじゃないですよ」
「だから、そういうのが一番難しいんだって!」
美朱は両手をあわせ「いただきます」と言うやいなや、猛然と宙樹の手作り弁当の制圧にかかった。
「そんなにがっつかなくても……」
「ふごっ! ふごごごごっふごっご!!」
「いや、何を言ってるか分かりませんから! あと、食べながら喋るの禁止。行儀悪いですよ」
頬をリスのように膨らませた美朱がコクコクと頷く。
「沢山あるから、ゆっくり食べてください」
宙樹はそう言うと、紙皿に弁当箱の中身を取り分け、自分も食べ始めた。
二人は、黙々と食事を続ける。
ほどなくして、弁当箱の中身が空になった。
「ごちそうさま! すごく美味しかったよ、先輩!」
「ありがとうございます」
「これで、もう心残りはないかなー」
「いやいや、オーバー過ぎますよ」
宙樹は苦笑いを浮かべながら、昼食の片付けを始める。
「この後はどうしますか?」
美朱の提案で腹ごなしを兼ねて周囲の散策をすることになった。
一応、観光地の筈だったが、人通りは極端に少ない。営業している土産物屋も多くなかった。
どことなく、うらぶれた印象だったが、宙樹はこの物寂しい雰囲気が嫌いではなかった。
美朱は閑散とした観光地が珍しいのか、またスマホを取り出して、ひっきりなしにシャッターを切っていた。
しばらく歩くと小さな美術館が見えた。意外なことに開館中だった。
「せっかくだから、入ってみますか?」
「うん」
学生割引で入館料を払い、冷房の効いた館内で展示物を適当に眺めていく。ふたりに美術品の知識は殆どなかったが、二階の大ホールに鎮座する巨大なキャンバスの油彩画には圧倒された。
キャンバスの中で、無数の人間が炎に呑まれ苦しそうな表情でもがいている。苦しむ人々を狙って、影のように黒く、異様に背の高い人物が、鉈を思わせる大きく武骨な刃物を構えていた。
画のタイトルは『ハーヴェスター』。作者名は灰邑義丹。説明には地元の画家と書いてあった。
「ハーヴェスター……『収穫者』って意味かな?」
「……」
「先輩、どうかしたの?」
「え……?」
「何か、ぼんやりしてる」
「えーと、迫力のある画なので、つい見入ってしまって……」
「まぁ、確かに凄いけど、私はあまり好きじゃないかな。何か怖いし……」
美朱の大きな瞳が揺らめく。本当に怯えているように見えた。
「……出ましょうか?」
「そうだね」
美術館の外はまだ明るかったが、スマホで時間を確認するともう五時近かった。
「もうこんな時間ですか。そろそろ帰らないと」
「あーあ、楽しい時間はすぐに終わっちゃうね……」
「本当に」
「もう少し、遊んでいこうか?」
「駄目ですよ。遅くなる前に帰ります」
美朱の誘いに乗りたい気持ちもあったが、宙樹は渋る後輩をうながし駅に戻ることを選んだ。
改札口を潜ると、目的の電車がホームに滑り込んでくるところだった。
「先輩、ありがとう。今日はめちゃくちゃ楽しかった」
美朱が座席に腰をおろしながら今日の礼を言う。
「どういたしまして。おれも楽しかったですよ」
宙樹が美朱の礼に答える。
「ねぇ、先輩。やっぱり、このままふたりでどこか遠くに行かない?」
「どうしたんですか? 藪から棒に」
後輩の急な申し出に、宙樹は訝しげな表情を作る。
「逃避行だよ。怖い病気のことも、おかしな殺人犯のことも、遠い国の戦争のことも、全部忘れてどこかに逃げるの」
「逃げるって、おれたちはこれから家に帰るところなんですよ」
「そんなこと関係ないよ。ふたりでどこまでも逃げようよ。過去も未来も、いい事も悪い事も、色々なしがらみを振り払ってさ。行く先々でお金や物を盗んで暮らすの。ボニーとクライドみたくなれたら、最高だと思わない?」
ボニーとクライド。宙樹には聞き覚えのない名前だった。
「誰ですか? その人たちは」
宙樹の疑問に美朱は目を丸くした。
「えー、知らないのー? 先輩にはがっかりだわー」
美朱はそう言いながら、肩を落としてうなだれる。
後輩の反応に、宙樹は何だか申し訳ない気持ちになった。