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夕方――。
宙樹がマンションのキッチンで夕飯の準備をしていると、スマホの着信音が鳴った。
彼に電話をかけてくる人間は少ない。アドレス帳に登録してある番号といえば、去年まで世話になっていた遠縁の親戚と、現在の後見人である篤志家、あとは騒々しい後輩の少女ぐらいのものだ。
宙樹はスマホを取り上げ着信番号を確認する。後輩の少女――星美朱からだった。
何の用事だろう? また、料理のアドバイスが欲しいとでも言ってくるつもりだろうか。
「はい」
「……あ、宙樹先輩?」
「そうですよ。他に誰がいるんですか?」
「先輩さ。今、時間ある? ちょっと見て欲しいモノがあるんだけど……」
「どうしたんですか急に? おれにも都合がありますよ」
宙樹はそう言いながら、調理台の方をチラりと見た。
そこには、小麦粉で薄化粧を施された豚ロースの切身が、次の行程を今か今かと待ち構えている。
今日の夕飯はトンカツだった。
「いいから、ちょっと出て来てよ。電話じゃ話にくいんだ」
「そんな強引な……」
「いいからっ!」
スマホ越しに聞こえてきたのは、有無も言わさぬ調子の声。
美朱の思わぬ剣幕に、宙樹は困惑したような表情を作る。
「……ひょっとして、トラブルですか?」
「ねぇ、先輩。信じて貰えないかもしれないけど、私、本当に我慢しようと思ったんだよ?」
「星さん? どうしたんですか?」
「でも、やっぱり無理だったみたい。人間てそう簡単には変われないんだね。これじゃ、また、おねーちゃんに迷惑かけちゃう……。私、どうすればいいのかなぁ……」
「星さん、大丈夫ですか? 少し落ち着いて下さい」
さっきから、後輩の言葉が要領を得ない。明らかに様子がおかしい。
「おねーちゃんや友達には相談できないし、宙樹先輩ぐらいしかお願いできる人がいなくて……」
やはり放っておくわけにはいかなそうだ。
「分かりました。これから向かいます。場所を教えてください」
美朱が伝えてきた場所は、あの公園だった。
五月の頭にふたりが出会った、あの小さな公園――。
※
「星さん!」
公園で美朱を見つけた宙樹が駆け寄る。
「あ、先輩」
ぼんやりとした顔で自分の名前を呼ぶ後輩に、宙樹は胸がざわつくのを感じた。
「何があったんですか?」
「あれを見て」
美朱はそう言うと、公園の一角にある茂みの方を指差した。
宙樹は訝しげな表情をしながら、後輩の示した方に視線を送る。
「……ぐっ!?」
宙樹の喉から呻き声が漏れた。
そこに、人間が倒れていたからだ。
草木の間からはみ出た頭をこちら側に向けて、薄暗くなった空を仰ぐように寝転がっている。女性のようだ。多分、まだ年若い女性。瞬き始めた一番星に祈りを捧げるように手を組んでいるが、その瞳にもう光はない。それは、この世界から永遠に喪われてしまった。
開いた口から覗いた舌は黒く変色しており、グロテスクな怪物のように見えた。
宙樹は心臓が飛び跳ねるのを感じた。自分の心臓が、体を突き破ってどこかへ行ってしまいそうだった。宙樹は深呼吸を繰り返して、何とか平静を保とうとする。
「私がやったわけじゃないよ?」
「分かってますよ……」
宙樹は女性を観察する。人間としての尊厳を剥ぎ取られ、モノに還元された女性の体を観察する。
そして、女性の開け放たれた胸に、ナイフが刺さっているのを発見する。
それは、何の変哲もないカッターナイフだ。文房具屋か百円均一ショップで買えそうな、折刃式のカッターナイフ。その柄が、青白い胸元から延びていた。
『おいおい、どうなってるんだこいつは』
どこからともなく、羽虫の翅が擦れるような声が聞こえてくる。
「……宙樹先輩?」
「いえ、何でもありません」
宙樹は怪訝な顔の後輩を安心させるために微笑もうとするが、きこちない表情を顔に貼りつかせることしか出来ない。
「星さんは、どうしてこの公園に?」
「理由は、ないよ……。ただ何となく」
彼女は、ただの気紛れでこの公園に足を運び、ただの偶然で死体の第一発見者になったのか。
そんな、悪夢めいた偶然があるというのか。
いや。
世界は時々、人間に対して洒落では済まない悪戯を仕掛けてくる。
あり得ない話ではないのだ。
「警察に通報は?」
「まだしてないよ。宙樹先輩が来てからした方がいいかなと思って……」
宙樹は後輩の言葉に短く嘆息すると、ズボンのポケットからスマホを取り出して、110番号通報をした。




