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満開だった桜が散って、半月ほどたった五月の上旬。
すっかり生ぬるくなった空気が、すえた死の臭いを運んできた。
そうでなくても、流行病の感染拡大による死亡者増加のニュースと、病から少し遅れて跋扈することになった連続殺人鬼の話題で、巷間には薄い膜のように死の気配が拡がっていた。
『まるでおれたちの時代がやってきたみたいじゃないか』
じっとりとした初夏の風に乗って、金属を爪で引っ掻くような声が聞こえてきた。
空嶋宙樹は、その声をつとめて無視することにした。
声に応えるかわりに、彼はスンスンと鼻を鳴らす。
死の臭いは、いつだって少し黴臭い。
宙樹には、何か考えごとがあったり、物思いに沈みたくなると、近所の公園にやってくる習慣があった。
今日も、平日の真っ昼間だというのに、高校の制服(いまどき珍しい、黒の学ランだ)のまま、こうやって公園のベンチに腰をかけている。
小さな公園だった。
遊具も最低限のものしか置いてない。
小さな滑り台に、錆びの目立つブランコ、猫の額ほどのせまい砂場、あとはベンチのそばにあるペンキのはげかけたシーソーぐらいだ。
シーソーでは、小学校にあがる前ぐらいの子供たちが、楽しそうな声をあげながら遊んでいた。
男の子と女の子の二人だ。顔立ちがどことなく似ている。きょうだいだろうか?
『あのふたりに興味があるのか? おれはかまわないぞ』
キーキーと軋むような、耳障りな声が囁きかけてくる。
「うるさい、黙ってろ」
無視するつもりだったのに、うっかり声をあげてしまった。
シーソーを漕いでいた男の子と女の子が、何ごとかと宙樹の方に顔を向ける。
宙樹は内心で「しまった」と思いながら、遊具で遊ぶ子供たちに笑顔を作り、手をふってみせた。
子供たちはキョトンとした表情で顔を見合わせると、小首をかしげ、シーソー遊びを再開した。
『まるで、路傍の石ころだな。だれもお前の存在をかえりみない』
せせら笑うような声が聞こえる。
宙樹は苦虫を口いっぱいに押し込まれたような渋面を作ると、目をつむり、うつむいた。
粘度の高い嫌な風が、宙樹の頬を撫でていく。
まるで、死神に触られたような、心のざわつく感触に身震いをする。
『死神か……。おれたちだって、似たようなもんだろ』
声の主は、どれだけ無視されても、宙樹に語りかけることをやめない。
それは、宙樹にしか聞こえない、宙樹だけの声だった。聞くたびに胸が悪くなる声。いつまでたってもなれることのない声。
頭の中にぽっかりと口を空けた、底なしの穴から届く声……。
宙樹はシーソーを漕ぐ子供たちの嬌声だけを拾い、自分に語りかけてくる声を打ち消そうと試みる。
『そんなことをしても無駄さ。だれも自分の影からは逃げられない』
誰も自分の影からは逃げられない。
それは、やがて迎える死の運命と同じ、この世界の根源的な「真理」であり、絶対的な「法則」だと宙樹は考える。
死。
この世界には、当たり前のように、死が蔓延している。
病気、事故、戦争、ナイフ……様々な貌をして。
ナイフ……。そう、ナイフだ!
天啓の訪れを感じた宙樹は、ズボンのポケットから愛用のナイフを急いで取り出した。
文房具店などで簡単に買えるありふれたデザインの折刃式のカッターナイフだ。
チキチキと小気味のいい音をたてながら、少しずつ刃を伸ばしていく。
真昼の陽光を照り返すナイフの刃先を眺めているうちに、心が落ち着いてきた。あの、鬱陶しい声も静かになった。
死。
その言葉が、宙樹の頭のかたすみに、炭酸水の泡のように浮かんでくる。
自分の後ろを、いつまでも、飽きることなくつけまわす影と同じだ。決して、だれも、それからは逃れ得ない。
宙樹は鼻をスンスンと鳴らす。繰り返し鳴らす。病原菌のように大気中を漂う死の臭いを嗅ぎ取る。それは、黴の臭いによく似ている。
弛緩した五月の風に乗って、子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
宙樹はナイフを握る手に力をこめる。