1-8 柔らかっ!
俺の生命維持にお金は必要ないとは言うものの、今日手に入るはずだったものが先延ばしになってしまったことには、さすがに少しガッカリした。
とは言え今更、やっぱり即金でお願いしますとも言い辛いし、まあ仕方ないか。
その後レティシアさんの方の手続きはすぐに終わり、何枚かの硬貨を受け取った彼女が、ととっと小走りで俺の方へ近寄ってきた。
「お待たせしました。それじゃあ次は宿選びですね」
「それなんだけど、実は俺は……」
「さ、行きましょう!」
まったく所持金がないんだ、と言い終える前に、レティシアさんが俺の手を取って歩き出した。
おおおっ。女の子の手の感触っ! 小っさ! 柔らかっ!
生まれて初めて味わうその感動に、俺は思わず言葉を失う。
そして手を引かれるまま冒険者ギルドの建物を出て、そこから少し歩いたところで、レティシアさんから小さな革袋を手渡された。
ちゃりり、と金属の触れ合う音がする。間違いなくお金だ。
「……これ、使ってください」
「いや。気持ちはありがたいけど、そこまでしてもらうわけには……」
「これはしばらくの間お貸しするだけです。さっきの地亜龍が換金できたら返してください。その時、もしよければお礼に食事でもご馳走してもらえれば、……う、嬉しい、……です」
俺が断りかけると、レティシアさんはそれを遮るように早口でそう言った。記憶をなくして途方に暮れているはずの俺を、一文無しで放り出すわけには行かないって事なんだろう。本当に良い人だなぁ。
こうまで言われて断るのもそれはそれで失礼だよな。せっかくの厚意だし、甘えておくとしよう。それに、お金を返してお礼をするって名目でまた彼女に会うことができるのも、正直言って魅力的だ。
そんなちょっとした下心も込みで、俺は丁重に礼を言って革袋を受け取った。
それからレティシアさんのお勧めの宿を紹介してもらい、もう即決でそこに部屋を取ることにした。
宿の女将さんと話すと、この宿は素泊まりで一泊250ディルと言うことらしい。地亜龍の換金が早くて10日後だから、最低10泊はしないといけないだろう。そうすると2500ディルか。
それ以外にも食事や入浴洗濯用のお湯、その他諸々がそれぞれ別料金になっているようだけど、そんなのは別に必要ないな。
「じゃあ、素泊まりで10日にするよ」
「あいよ。今前払いしてくれるんなら朝食もつけて2500ディルに負けとくけど、どうだい?」
「ああ。それなら今全額……」
「アレンさん、ここは私に任せてください!」
女将さんの提案に、どうせ10日間泊まるつもりだし、素泊まりと同じ値段で朝食も付いてくるのならお得かなと思ってお金を払いかけると、そこにレティシアさんが気合いの入った表情で割り込んできて女将さんと値段交渉を始めた。
そこから数分間、女将さんとレティシアさんの間で熾烈な攻防が繰り広げられる。
「ああもう、わぁーったよ。じゃあ朝夕食事付き、お湯は使い放題で飲み水もサービス、5日目にシーツ交換ってことで10日分前払いで3000ディルだ。もうこれ以上は負からないからね!」
「はい。ありがとうございます!」
「まったく。久々に顔を見せてお客まで連れて来てくれたかと思ったら、とんだ大損になっちまったよ」
「えへへ。ごめんなさい」
レティシアさんが悪戯っぽくちょっと舌を出して謝ると、女将さんも表情を緩めて、まあいいけどね、と笑った。
どうやら二人はそこそこ気の置けない仲らしい。値引き交渉中は二人とも凄い剣幕で、いつ掴み合いのケンカに発展するかとヒヤヒヤしながら見てたから、ひと安心だ。
それとレティシアさんの表情が今、もう抜群に可愛かったな!
「それじゃあアレンさん、次は晩ご飯を食べに行きましょう!」
「あれっ? でも今、この宿が夕食付きだって……」
「……あ!」
「そうだね。さっきはあんだけ欲張ったんだ、これでウチで食わないなんて言ったら承知しないよ。……ああ、それと、ウチは夕食は宿泊客以外お断りだから」
「ええっ。そんなぁ……」
女将さんがニヤリと笑って言い、レティシアさんは何故だか肩を落とす。
言われるまでもなく、レティシアさんが俺のために頑張って獲得してくれた夕食だ。ここで食べないって選択肢はないよ。
心なしか少し元気のなくなったように見えるレティシアさんに重ねてお礼を言い、暗くなる前に下宿に帰るという彼女を見送った。
「へええ。あのティッシがねぇ……」
同じくそれを見送った宿の女将さんが、嬉しそうにそんなことを呟いていたんだけど、あれは何だったんだろう?
◇
宿の夕食は、その他諸々と合わせて1日50ディルの料金の中に含まれているとは思えないくらい、美味しくて量も十分だった。
て言うか、これがこの世界に来て初めての食事だ。今の俺は栄養補給の必要のない身体だけど、こうして美味しいものを食べると何だか元気になったような気がしてくる。
いくら食べなくても生きていけるとは言っても、やっぱり食事は必要なんだと再認識させられた。
それから部屋に入り、これもせっかくなのでお湯を貰って身体を拭いた。顔や髪は結構汚れていたけど、服の下は綺麗なもんだ。不思議なことに擦ってみても垢が出ないし、体臭も気になるほどじゃない。
どう少なく見積っても、目覚めてから1ヵ月以上は身体を洗ってないはずなんだけどな。ひょっとして、この世界の人はみんなこうなんだろうか?
あとは所持金を確認しておく。レティシアさんのいる前で中身を数えるのは失礼かと思って見てなかったんだけど、革袋から出してみると、なんと1000ディル大銀貨が12枚もある。
さっき女将さんに10日分の宿代として3000ディルを支払った後だから、最初は1万5000ディル入ってたってことだ。
レティシアさんに聞いた話では、この1万5000ディルという金額は、ルビーニアの平均的な庶民が家族で1ヵ月暮らしていける額なんだそうだ。
これはつまり日本でいえば、15万円か20万円くらいに相当するだろう。普通に大金だ。少なくとも、俺みたいな素性の知れない初対面の人間に、ポンと渡せる額じゃない。どんだけ親切なんだレティシアさん。
そう考えていくと、ふと、本当に地亜龍1匹の売却額で返せるのかどうか心配になってきた。
だって、もしバケモノ1匹倒しただけで10万円も20万円も貰えるとしたら、それは幾らなんでも儲かりすぎだろう。良くてせいぜい2、3万円くらいじゃないか?
だとすれば、明日から少しずつでも仕事をしてお金を稼いでいった方がいいだろう。
でも仕事か…… 特にこれと言って、手に職があるわけでもないしなぁ。
……冒険者、やってみるか。