1-1 あれ? 死んでない?
はあぁーあ。今日も疲れた……
毎日残業で家に帰るのは夜中近く。風呂に入って寝たらまたすぐ出勤、場合によっちゃ休日も潰れる。
いくら給料はそこそこいいとは言っても、これじゃあ録り溜めたアニメを見る持間も、枕元に積み上げた小説を読む暇もない。まったく、何のために働いてるんだか。
駅を出て、家への近道を通る。街灯も少なく人通りのない細い道を歩いていると、珍しく向こう側からも歩いてくる人影があった。ずいぶんと大柄な男だ。
もうすぐ日付も変わろうかって時間に一人でこんな裏道を歩いてるなんて、不審極まりない。自分の事は棚に上げて言うけれども。
まさか路上強盗の類じゃないだろうな? ちょっと怖くはあったけど、家はもう目と鼻の先だ。ここまで来てわざわざ引き返して別の道を通るなんて選択肢はない。できる限り道の端に寄って、何事もなく擦れ違えることを祈ろう。
大柄な男には少しも急いでいるような様子はなく、悠然と狭い道のど真ん中を歩いてくる。
酔っ払いってわけでもないみたいだし、暗くてよく見えないけど顔は白人風の髭面だ。なんかヤバそうな感じ。やっぱり引き返そうかな?
「……やっと会えたな」
あと3メートルほどにまで近付いたとき、男がいきなりそう言って突っ込んできた。足が動かない。ドンッと鈍い衝撃。胸が熱い。……と思ったら手足が急に冷えてきて、力が入らない。
男が俺から身を離すと俺はガクッとその場に膝をつき、横向きに倒れた。なにか温かいものでシャツが濡れている。……だけど酷く寒い。どんどん視界が暗くなっていく。
最後に見上げた男の手には、大きなナイフが握られていた。
◇◆◇
「……あれ? 死んでない?」
意識が戻ると、俺は暗闇の中で仰向けに倒れていた。
一瞬、ここは病院かとも思ったけど、俺が寝ているのはベッドじゃなくて固い地面の上だ。
それにあの男の手にあったのは、刃渡りが30センチはあろうかってくらいの大型ナイフだった。あんなもので胸を刺されて死なないはずがない。
そうだよ、いきなりナイフで刺されたんだよ。
傷口は一体どうなってんだ?
恐る恐る胸に触れてみるけど、それらしき傷はない。て言うかそもそも痛くない。
服も血で濡れている様子はないし…… あれっ? 何だ、このゴツゴツしたものは。
……おおう、なんて事だ。腹筋が割れてるじゃないか!
あちこち触って確認してみると、そこにあるのは長年の運動不足と不規則な生活、偏った栄養によって培われた弛んだ身体じゃなく、キレッキレの筋肉に包まれた肉体だった。
いったい何があったら、三十路のメタボが突然こんな均整の取れた体型になるんだ?
不思議に思いながらもゆっくりと体を起こしてみる。やっぱりどこにも痛みはない。
立ち上がるとちょっと足元が覚束ない感じがしたけど、これはたぶん馴染んだ重量配分が変わったせいだろう。身体の重心がかなり高くなっているのを感じる。
じっと目を凝らしてみると、朧気に周囲の様子を見て取ることができるようになった。全くの暗闇ってわけでもないようだ。
だけどこれは…… まるで古墳か何かの石室みたいだ。床は概ね平らだけど、巨大な石を組み上げた壁や天井には凹凸が多い。
割と広い部屋の一角には、上へと続く階段が見えた。となるとここは地下室だろうか? 道路で刺されて目覚めたら体型が変わってて地下室にいる、か。……わけがわからんな。
ともあれ、ここでじっとしていてもしょうがないので、階段を上ってみることにした。
よく見てみると着ている服も変わってるな。柔道着みたいな厚手の布地で、要所要所に硬い革のプロテクターが…… って、服じゃなくて鎧の類じゃないのか、これ? またひとつ謎が深まったぞ。
トントントンと軽い足取りで石の階段を上る。比喩だけじゃなくて実際に滅茶苦茶身体が軽い。
上の階もどうやら下と同じような石室らしいけど、コツコツと歩き回る足音が聞こえる。どうやら誰かいるみたいだ。これでいろいろ謎が解き明かされそうだとちょっと安心する。
「あのー、すみませーん」
キシャシャキシャッ! ギギギッ、ギシャギイィィッ!!
俺の軽い挨拶の声に返ってきたのは、奥歯の浮きそうなけたたましい擦過音だった。
思わず足を止めて、音の方向に目を凝らす。そこに見えたのは、RVサイズの巨大な蠍だ。しかもそれが3匹。おまけにすごい勢いでこっちへ向かってくる。
なにこれ。……なにこれ?
「ぐわあああああぁぁぁあっ!?」
咄嗟に逃げることもできずに突っ立っていると、先頭の一匹の鋏に捕まってしまった。
バケモノ蠍はその鋏で俺を口へ運び、がぶりと右足に齧り付く。痛い痛い痛い! ……痛いけどあれっ? 食い千切られたりはしていない。血も出てないな。この鎧みたいな服のお陰だろうか。
痛いのは痛いけれど、そう簡単には食われないと分かったことで、少し冷静になって周囲を見る余裕ができた。
この状況から脱するには、まず俺の腰をガッチリ挟んでいるデカい鋏をどうにかしないといけない。
まるで巨大なワニにでも噛みつかれているみたいなこの状況が力押しでどうにかなるとも思えないけど、とりあえず鋏の先端の方を手で掴んでグッと押し広げてみる。
するとバキャッと鈍い音がして、鋏が中ほどから砕けてしまった。なんだよ、意外と脆いんじゃないか。見掛け倒しだな。
半分ほどになっても依然として俺の腰を掴んだままの鋏を、拳で殴りつける。甲殻は見た目には分厚くて硬そうなんだけど、俺の手打ちのパンチで面白いように砕けていく。ただ、中から出てくるぐちゃぐちゃの粘液が非常に気持ち悪い。
そうして地道に鋏を砕いて、もう少しで脱出できるかと思った時、背中に衝撃と鋭い痛みが走った。嫌な予感。……蠍と言えば、毒針なんじゃ?
急いで残りの鋏を砕き、身をよじってそこから逃れる。見るとやっぱり毒針だった。背中がジンジン痛む。だけど動けないってほどじゃない。
……こん畜生、やりやがったな!?
◇
そこから先のことは、正直あんまり覚えていない。
ただふと我に返ると俺は、砕けてそこら中に散らばった甲殻の破片と粘液の中に、呆然と立ち尽くしていた。
何なんだよ、いったい何がどうなってるんだよ、これ。
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