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6話「踏み出せぬ勇気に、微かな幸福を。」

 


 自宅のドアを開ける。それだけのことに緊張を覚えるのは、初めてセレネを家に入れた先週以来のことだ。同じような黄昏、無意識に浅くなる呼吸。

 未練がましく背後を見遣ると、少し離れた物陰からミスティが覗いていて、親指を立てているのが見えた。他人事だと思って気楽なものね。早く帰ってほしい。

 しかし、こうして突っ立っていても何も解決しないのも事実。それどころか、しびれを切らしたミスティが突飛な行動で背中を押してくるかもしれない。それだけは避けたかった。

 腹を決め、鍵を開けてドアノブを捻る。

「た、ただいま」

 棒読みのセリフみたいになってしまった。上擦らなかっただけマシ。そう思うことにする。

 廊下の向こうに私の声が溶け、すぐ、ぱたぱたと駆けてくる足音。

「エリカ様、おかえりなさ……っ!」

 奥から姿を見せたのは当然セレネだった。しかし彼女は私を見るや、息を呑み、一歩を引き、口元を両手で覆って、完全に硬直した。見開かれた大きな満月に、私の姿が映し出される。

 その反応は何を示すのか。判断に困りつつも、とにかくトートバッグに詰め込まれた食材を差し出す。

「た、頼まれたものはちゃんと全部買って来たわよ」

 セレネは油の切れた機械みたいにぎこちない動作で手を伸ばし、受け取った。

「あ、ありがとうございます……えと、エリカ様にお願いなどしてしまって、本当に申し訳ございませんでした……」

「いいのよ。むしろ、それくらいの気軽さで接してくれる方がありがたいもの」

「そ、そう、ですか……」

「ええ……」

 ぎこちないのは、彼女だけではなかった。よくわからない空気に、乾いた笑いが漏れ、互いに沈黙。私の背中には、未だ開けっ放しの玄関。子供の声が聞こえる。居たたまれない、固い時間が流れていく。

 ……どうしたらいいのよ、これ。

 もはや、ミスティを頼ることは出来ない。向こうが私を送り出したのだから、助けに来ることもないだろう。

 私をあれこれ着替えさせながら言っていた言葉が蘇る。

『今日はとりあえず、魅力を引き出す服を見繕ってあげるからさ。好きだって言っちゃえばいいよ。エリカがちゃんとおしゃれして、真摯に告白すればイチコロだよっ!』

 何がイチコロよ。そんな簡単に言えるわけないじゃないの。大体、まだ一緒に暮らし始めて一週間。互いのこともよく知らない。

 どこか気まずい沈黙の中、彼にコーディネートしてもらった自分の格好を見る。

 ワイシャツとは少し違う、黒い薄手のシャツ。その丈は短く、おへそが見えるほど。胸元もかなり明いていて、自分の胸の谷間に銀色のネックレスが光っている。黒いシャツのその上に、さらに黒いジャケット。ジーンズも元々着ていたものではない、擦り切れたような穴が開けられている(ダメージ加工というらしい)ものだ。

 さすがにミスティの行きつけだけあって、どんなファッションも選り取り見取りといったところだった。こんな奇抜過ぎる服装の数々も、上手に組み合わせたら意外と違和感はないのが不思議なところ。

 黒の配分が多いし、可愛いという感じではない。男性でも普通に着られそうなファッションだ。軽薄そうというか、悪そうというか。私が街でこんな格好の若い子を見かけたら、未成年なのにタバコの一つでも持っているんじゃないか、素行が悪いのではないかと疑いを持つところだ。

 ただ、どうやらこれが私に似合う服装なんだそうで、曰く、「本当はかなり切れ者で仲間思いなんだけど、自分にしか興味ない、勝手な存在に見せたがってる感がいいよね」とのこと。店員と揃ってうんうんと頷かれたけれど、私にはさっぱり意味がわからなかった。

 いえ、それはそれとして、私にも気になることはある。それをセレネに問うことは、ちょうど今の空気を払拭するのに最適なことのように思えた。

「セレネ。あなたから見てこの格好、変じゃないかしら?」

 トートの持ち手を弄んでいたセレネはハッとして、慌てて答えをくれた。

「すごくお似合いです! かっこよくて、一瞬見惚れてしまったほどで……」

「そ、そう。ならよかったわ」

 お世辞混じりの無難な回答にホッと息を吐く。平坦な感想が淀みなく出てくるというのは、特別悪い印象ではなかったという反証のようで安心する。ミスティはがっかりするでしょうけどね。

 後ろ手に玄関を閉め、息を細く吐いた。

「ふぅー……」

「ぁ……エリカ様……?」

 と、何故かセレネは顔を真っ赤にして、トートバッグを取り落とした。幸い中身がこぼれることはなかったけれど、セレネは瞳を潤ませ、眉尻を下げ、再び完全な硬直状態に陥っていた。そう、まるで暴漢に押し入られたみたいに。これから何かされてしまうのだと、確信にも似た不安を抱えているみたいに。

 夕陽も顔を隠し、暗くなり始めた部屋。二人きりの完全な密室。頬を染め、小さく震える少女。

 ――ぞわりとした快感が、背筋をひと撫でした。

 服装のせいか。嗜虐心をくすぐるセレネの態度のせいか。シチュエーションのせいか。多分、全部だ。

 私の中の悪魔が誘う。虐めてやろう、と。

「……」

 あえて無言で鍵を閉める。その小さな音にも彼女はビクリと反応し、じりじりと後退る。

「エリカ様……いけません……」

 胸の前でぎゅっと拳を握り、逃げるように後退していく。セレネはもはや完全に、雰囲気に呑まれてしまっている。頭の中では様々な想像が駆け巡っているのだろう。

 それをただ黙って追う。逃げる彼女と同じ速度で歩を進める。彼女に逃げ場などない。私の思い通りに出来る。酷薄な笑みは自然に出ていた。

「ねえセレネ。どうして逃げるのかしら?」

「そ、それは……」

 荒くなるセレネの息遣いだけが響く。一定の距離を保つ彼女はしかし、リビングに置かれたソファにぶつかり、そのまま背中から倒れ込んだ。乱れた髪と乱れた息。流れそうな涙を滲ませ、見上げる形で私を見る。その目には、覚悟と諦めが映っていた。

 そんな姿を見せられると、もっと虐めたくなる。

 のしかかるように身を寄せ、前髪を押し退ける。彼女は身を強張らせて固く目を閉じた。吐息が触れ合うほどの距離で囁く。

「どうしてそんなに緊張しているのか言ってみなさい。聞いてあげる」

 緊張状態のままの彼女は唇をわななかせ、消え入るような声を絞り出す。

「ぇ、エリカ様が……」

「私が?」

「エリカ様が……わたしを……んっ!」

 ぎっ、とソファが軋みを立てた。

 聞いてあげるなんて嘘。続きは言わせない。首筋に指を這わせ、目を逸らす彼女の顎を持ち上げる。無理矢理目線を合わせる。

「こうして欲しかったんでしょう? 虐めて欲しかったんでしょう? この格好の私を見た時から」

「ち、ちが……ぁ」

「ふふ、あなたも嘘吐きね」

 シミ一つない美しい肌を撫で、鎖骨に触れる。触れるか触れないか。細く刺激される度、彼女は震え、甘い声を漏らした。

「今日の私は、あなたの中の何かのイメージとピタリと合致した。思わず、現実と妄想の区別がつかなくなるほどに」

「っあ……そんなっ、妄想、なんて……! ゃ、ダメです……っ!」

「ふうん……?」

 表面上嫌がるそぶりを見せるセレネを見ても、嗜虐心がそれ以上刺激されることはなく。逆に、どこか冷めていく自分を感じた。

 このまま、悪ふざけの延長で続けてしまっていいのだろうか。制御出来ないほど気持ちが昂ってしまえば、彼女に対して何をするかわからない。私の「好き」は、そういう「好き」なのだから。

 しかし、セレネは違う。ちょっと空気に、私の雰囲気に流されているだけ。

「……ごめんなさい。悪ふざけが過ぎたわね」

「はぁっ……はぁ……っ、悪ふざ、け……?」

 彼女の上をどいて、手を。セレネは荒くなった呼吸を整えながら、私の助けを受けてどうにか身を起こす。

 眉尻の下がった微笑。

「本当にこのまま、えっちなことされちゃうのかと思いましたぁ……」

 図星。理性が口を閉ざしたままであったなら、歯止めをかけるものは何もない。

「まさか。あなたが嫌がることなんかしないわ」

「でも……ちょっと憧れちゃいます」

「何によ?」

 セレネは羞恥に頬を染めたまま、うつむいて指先をくるくると合わせる。

「あんな風に強引に、エリカ様のものにされちゃうことに、です」

「……」

 返す言葉を持たない。もしかして彼女は、私の気持ちを知っていてわざと言っているのではないかという疑いさえ抱いてしまう。

 憮然とする私に気づかぬまま、彼女は語る。

「もちろん、わたしとエリカ様は女同士ですし、生まれた身分も、今の身分も違いすぎて釣り合いませんけど……でも、そんな人がわたしを愛してくれて、世間の目とか、身分とか、しがらみを全部取っ払って攫ってくれたら、なんて」

「夢見がちなのね」

「恥ずかしいです……」

 出来るなら、私だってそうしたい。けれど、現実はそういうわけにはいかない。彼女を連れて、過酷な旅に出て。私は満足するかもしれない。もしかしたら、愛する人もそれだけで満足してくれるかもしれない。

 けれど、愛しているからこそ、相手が辛い思いをしているんじゃないかって不安を抱く。心配になる。

 障害の多い恋路は憧れの的になるけれど、やっぱり、周りから認められ、祝福されるような恋愛に越したことはないのだ。断崖の向こうの理想に手を伸ばそうとするより、手の届く範囲の幸せを見つける方が堅実で、何より、大事なものを失わなくて済む。現実的な幸せだ。

「もう……だからって、あんなに簡単に流されちゃダメよ?」

「そ、それは、エリカ様が美しくて、かっこいいのがいけないんです……」

 真っ赤な頬に手を当て、ちらちらとこちらに目を向ける。この一週間で見せなかった、憧れの異性でも見るような目。ミスティのコーディネート効果は抜群らしい。

 私の中で、ある欲求が芽を出した。それはみるみる内に膨らんでいき、あっという間に抑えが効かなくなるほど成長を遂げる。

 彼女の純真な目を見ていられず、視線を外した。

「セレネ。もし、私が遠くに逃げようって言ったら、あなたは着いてきてくれる?」

 聞こえてきたのは、思いの外明るい声音。

「ふふっ。エリカ様って、堂々としているように見えて、意外と怖がりですよね」

「ん……そうかしら」

 そんなこと、初めて言われたのだけれど。新人騎士時代の戦闘訓練の時には、思い切りの良さに定評があったものよ。

 この時、彼女がどうして質問に答えなかったのかなんてことを、愚かな私はまるで考えなかった。

「はい。いつもわたしのこと、他の人の気持ちを気にしてます。お優しい方ですけど、ご自身が本当に思ってることは、本当の本音は、押し殺してばかりに見えるんです」

 そうかもしれない。こと、セレネに対しては。こんなに好きなのに、ずっと好きなのに。昔憧れていただけの人、なんて真実を交えたそれっぽい嘘でごまかして。あくまでも主従関係なんだって、女同士で、結ばれちゃいけないんだって。そういう風に、自分を騙している。

 だから、やっぱり。

「……あんまり自覚がないわ」

 嘘を、吐いた。

 そういう風にしか、私は生きられない。一歩を踏み出す勇気がなくて、これ以上彼女の好意を失うことを怖がって。

 でも、それでいいのよ。私が欲しいのは平穏な生活。堅実な幸せ。想いを伝えなくたって、こうして一緒に暮らせるだけで、十分嬉しいことなのよ。

 セレネは私の内心を知ってか知らずか、くすくすと笑う。本当に楽しい時に見せる、控えめな笑顔。

「じゃあ、お夕飯の用意しちゃいますね。今日はビーフシチューでも作りますから、少し待っててくださいね」

 彼女はてきぱきと働き始める。何も出来ない私は邪魔にならないよう、部屋に引っ込んで時間外の執務に勤しむ。医療部隊の教官探しとか、資料の洗い直しとか、退屈にならない程度の仕事はある。

 隔てられた扉の向こうから、鼻歌混じりに料理をする音が聞こえる。胸に沁み入るような、穏やかな一息をつける音。私は……私は、これが毎日聞けるだけで。

 ――翌日。告白は成功したかと目を輝かせて訊いてくるミスティに正直に話したところ、思い切り「エリカのヘタレ!」と罵られた。




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