4話「始まりの恋心に、騎士の忠誠を。」
夕刻。私は帰路に着いていた。
あの後、不完全燃焼だったこと以外には特に大きな出来事もなく、一日はつつがなく終了した。
一時は本当にどうなることかと思ったけれど、波乱なんてそう長くは続かない。ピンチに次ぐピンチとか、悲劇に次ぐ悲劇とか。そんなの、架空の物語だけで十分よ。
そうして夕焼けの中を並んで歩き、騎士団宿舎から程近い自宅へと到着する。集合住宅とでも言うか、いわゆるアパートメント。実家を飛び出してきた私は、その時からずっとここに住んでいる。
習慣づいた動作で鍵を開け、取っ手を握る。
「ふぅ……」
大きなため息……を、すんでのところでごまかした吐息。目を閉じ、再度、深く呼吸する。
私の行動にほとんど干渉したがらないセレネもさすがに疑問を感じたか、控えめながらも口を開いた。
「あの……エリカ様?」
「……ええ。わかってる」
早く開けないのかと言いたいのよね。私が同じ立場でも同じように考えるわ。
もちろん、私が扉を開けることを躊躇っているのには理由がある。人にはそれぞれ抱えている事情というものがあり、それは王国騎士団長だって例外じゃない。むしろ、私みたいな立場の人間であれば、その事情というのが複雑であってもなんら不思議ではない。
つまり、どういうことなのか。私の今の想いを簡潔に言えば、「せめて、先に連絡してからにして欲しかった」ということ。家を勝手に出てきた私に、そんな文句を言う権利がないことは百も承知だけれどね。
夕闇が深くなりつつあった。いい加減、覚悟を決めなくてはならない。
「入るわよ」
「え? は、はい……」
一体何を気にしているのだろうとでもいうような視線から逃げるように、私は扉を開けた。
彼女が浮かべていた疑問符はすぐ、得心のそれへと変化する。
「なるほど……そういうことだったのですね」
「……」
玄関には、何種類もの靴が散乱していた。すぐ先の廊下に目を遣れば、靴下やら下着やらが、まるでそこが本来の居場所であるかのように落ちている。角にはホコリが寄り集まって、目を凝らさずとも認識出来るほど大きく育っていた。
言い訳のしようもない。ここは間違いなく私の住む部屋で、今朝、家を出る時とまるで同じ光景が広がっているのだから。泥棒に入られたわけじゃない。いわゆる汚部屋、というものだ。
私の場合、他人に見せないからいいや、という認識だった。だから、人並みに羞恥は感じている。
「ぅ……人を招けるような家じゃないのよ……お父様も、どうして前もって伝えてくれなかったのかしら……」
苦笑が返される。
「お掃除もわたしのお仕事ですから」
「と、とりあえず入ってちょうだい」
半分以上、自棄だ。
台所をスルーして、居間を横切り、寝室に通す。執務用の作業机(この上もごちゃついていて汚い)以外の家具はベッドくらいのもので、ほぼ寝るだけの空間であるこの部屋が一番綺麗だと判断してのことだった。
座る座らないでひと悶着済ませた後、彼女をベッドに座らせ、私は作業机の椅子にかける。
「さて。あなたを雇うに当たって、いくつかルールを決めておきたいの」
「ルール、ですか?」
「正確にはルールというより、私からあなたにこうして欲しいっていうお願いみたいなものね」
「ぁ……やはりご不快な思いを……」
いそいそと立ち上がり、頭を下げようとしたセレネの鼻先に、人差し指を突きつけた。彼女は驚いたようで、目を丸くする。
「まずそれよ。あなた、卑屈すぎるわ」
「も、申し訳ございませんっ!」
あぁ。やっぱり私は、上手く伝えられない。責めているわけではないのに。
「謝って欲しいんじゃないの。わかって欲しいのよ」
「はい……」
「あのね。あなたはちょっとしたことで怒られると思いすぎなのよ。今日あなたが自主的に謝罪したものの内、あなたが謝る必要があったものなんて一つもないわ」
「え……っ?」
色白な手をパタパタと振り回し、頬を赤くする。
「で、ですが、エリカ様とこうしてお話出来るだけでも、畏れ多いことです! お許しいただけたので、会話は普通にさせていただいておりますが……」
嘘でしょう? あれで気を許して話していた方だというの?
どうやら、私と彼女の認識には、大きな大きな開きがあるようだった。もしかしたらそれを埋めることは絶対に出来なくて、どこかでズレてしまうのかもしれない。これは慎重に言葉を選ばないと、認識のズレから大惨事になりかねない。
ちょっと考える時間をちょうだい。あと座りなさい――そう告げてから、しばし、適切な単語を探る。言葉をまとめる。
三十秒は考えただろうか。私の望む対応を、生真面目な彼女の感覚で表現するなら、こうだ。
「そうね。友人みたいに接してちょうだい」
「えぇっ!? そ、そんないくらなんでも!」
あら、主の言うことが聞けないの? そんなセリフが喉まで出かかった。こんなことだから、意地悪だなんて言われるのかもしれない。
「まだあなたのことをよく知らないわ。けれど、自分に自信がなさすぎるように思うのよ。否定的ですらある」
これは私の勝手な願望。ひどく醜くて、見苦しい。それは嫌というほどわかっているのだけれど、それでも、どうしても。
せめてもの抵抗として、苦笑いに乗せる。
「憧れだった人が自分を卑下しているのを見るのは、悲しいのよ」
整理しても納得しきれない想いはまだ、わだかまり、燻っていた。
私はこの人が好きだった。十二年間、この人のことだけを考えて日々を生きてきた。それは身勝手な理想を思い描くほど強く、現実を見ていない愚かな妄想でしかなかったけれど。ただ、それはそれで輝かしいものだった。あの思い出は間違いなく、私の大事な宝物だ。
だから、弱い方向に変わってしまっていたことに失望した。十二年抱いてきた宝物が、鏡が割れるみたいに壊れてしまった気がした。彼女を傷つけていい理由には決してならないけれど、理解して、納得して、ストンと胸の内に落とすには、私の心は子供すぎた。
「お願い。自分のことを物みたいに言ったり、蔑むのはやめて。私はあなたのことが好きだから」
主人である私に言われたから。理由はそれで構わない。とにかく私は、彼女が彼女の価値を低く見積もることが嫌だった。丁寧が過ぎる言葉遣いも、私の行動に口を挟まないことも。従順なメイドとしては間違いじゃない。生まれ持った身分も、もしかしたら気にしているのかもしれない。
でも。でも。
セレネは少し考え、うつむいて。何を思うのか読めない、手の届かない遠くを見るような目で床を見つめる。しばし、息苦しさを覚える沈黙が続き、やがて彼女は何事か呟いた。
「……わたしには、エリカ様に好かれる資格なんてないんです」
「えっ……? ごめんなさい、よく聞き取れなかったのだけれど」
セレネは顔を上げ、先までとは打って変わって明るい笑顔を見せた。
「そんなこと、今まで言われたことなかったので嬉しいです、と言ったんですっ」
「そ、そう。それはよかったわ」
そんな明るい内容ではないような気がしたし、どこかぎこちない作り笑顔も引っかかった。多分、嘘を吐いているし、ごまかすのもあまり上手じゃない。
けれど、本物だろうと偽物だろうと、彼女の笑顔は私の胸を強く打つ。セレネが私に笑いかけてくれている事実の前では、他の全てはどうでもいいことみたいに思えた。
「わたしもエリカ様のこと、好きですよ」
「――っ!」
その不意討ちに、私は声にならない悲鳴を上げていたらしかった。動揺が心をぐちゃぐちゃにかき乱して、整理がつかない。嬉しいのか悲しいのか、感情の判別さえつきはしない。さらには、さっき無意識に「好き」と口にしていたことに気がつき、思わず両手で顔を覆った。手のひらに、頬の熱が伝わってくる。
頭の片隅、辛うじて稼働している理性が口にする。
――人として、主として好ましいというだけよ。何を勘違いしているのよ、馬鹿馬鹿しい。大体、セレネにとっては初対面があれなのよ? 嫌いと思われることはあっても、好きになられることなんかないわ。
反論するのは、まるで理屈の通らない、子供じみた感情。
――でも、可能性はあるかもしれないじゃない。
――ないわね。そもそも、私はセレネをどう思っているのよ。憧れの人、っていうのは、そういう意味だったわけ?
――そ、そんなの……っ。確かに今まで意識してこなかったけど……でも、でもあの日、私はもう彼女に一目惚れしてしまってたんだわ。あの時はよくわからなかったけれど、大人になった今ならわかる。
と、自分同士の言い争いに横槍が入る。
「エリカ様? どうかされたのですか?」
セレネの声が耳に入り、私は手のひらのブラインドを取って顔を上げた。
「いえ、なんでもな――っ!?」
近――!
吐息のかかるような距離に、セレネの端正な顔があった。
不安そうに私を見る金色の瞳は、長いまつげに縁取られている。瞳と同じ月色の髪が一筋、さらりと肩を流れ落ちる。色白な肌は透き通るようで、頬には淡く朱が差している。彼女の匂いとでもいうか、私の知らない、決して不快ではない香りが漂って来て、脳を麻痺させる。薄桃色の唇が、すぐ、すぐ目の前に。
「あ、ぁ……っ」
情けなくも、王国騎士団長は吐息となんら変わらぬ喘ぎを漏らすことしか出来なかった。
「お顔が赤いようですが……熱があるのでは……?」
「ひぅっ!?」
身じろぎ一つ出来ない私の体温を測ろうと、こつんと額を合わせてきた。頬に当てられた手はひんやりしていて、蠱惑的な息遣いが耳朶を打つ。
「やっぱり、熱がありそうですね。お夕飯は消化にいいものをご用意します。あ、先に汗を流した方がいいですね。お背中をお流ししますから、シャワーを……」
「だ、大丈夫よっ! ぜんぜん、具合が悪いわけじゃないからっ!」
背中を流してもらう想像をしてしまい、思わず大声。私から言わずともこうして気にかけてくれる辺り、私の言いたかったことは伝わったらしいし、これからはこうして向こうから声をかけてくれるようになるのだろう。
でも、でも今はそれを喜ぶどころじゃないのよ!
セレネの顔を見れなくて、腿で手を挟み、もじもじと擦り合わせる。
「は、恥ずかしかったのよ……あなたが急に……す、好きなんて言うから」
「えっ……先に言ってくれたのは、エリカ様の方じゃないですか」
「それはそうだけどっ!」
目尻に涙が滲んできたのを自覚しつつ叫び、顔を上げると、セレネはくすくすと楽しそうに笑っていた。
それは紛れもなく、本物だったように思う。
「ふふっ。わたし、なんだか安心しました。エリカ様でも、お部屋が散らかっていたり、狼狽えたりするんですね」
「あ、当たり前じゃない……」
むしろ、騎士団関係以外のことはほとんど何も出来ない。ただひたすらに一つの背中を見つめていた結果、その他のことがまるで目に入らなくなっていた。そうしていつしか、戦うだけが能の女になってしまっていたから。
……小さな不安が、心を掠めた。普段なら口にしないような些細な棘のはずだけれど、私はそれを、言わずにはいられなかった。
「ねぇ。私はこんな女になってしまったけれど、本当に間違ってないのかしら」
私は、その不安を初めて口にした。だって、もし口にしてしまえば、心が立ち止まってしまうから。憧れのあの人に追いつく為に、立ち止まるわけにいかなかったから。
なのに、あぁ。初めて弱音を吐く相手がその憧れの人だなんて、おかしな話ね。
失望されることも、蔑まれることも覚悟した。それでも私は、弱い自分を隠すことが出来なかった。
私の中で張り詰めていた「何か」が、ぷっつりと切れてしまったみたいだった。
その人は、静かに言った。
「わたし、エリカ様みたいな騎士になりたかったんです」
「私……みたいな?」
「はい。強くて、カッコいい騎士に。今のエリカ様は、わたしの憧れた騎士像そのものなんです」
私は、あなたに憧れて騎士になった。なのにあなたは、私を憧れの騎士だと言うの?
それもなんだか、おかしな話だ。私と彼女はあの日から、立場も、目標も、全部全部、入れ替わってしまったみたいだった。
「ですから、そんな人のお手伝いが許されるのは、そんな人の愛らしい一面が見られるのは……とても、嬉しいです」
その慈愛に満ちた微笑みを目にしただけで、弱気とか、迷いとか、そういうものの一切は吹き飛んでいた。草原に強い風が吹いたみたいに。雨雲が去って、日射しが照らしてくれたみたいに。
――なんて、なんて単純。
でも、それでいいのだと思う。自分で決めたのだから。私が彼女を守ると。
私はこのまま、強いだけの女でいい。それがセレネの、理想の騎士なら。
彼女の前に跪き、その手を取る。かつて騎士が、一人の主に忠誠を誓っていた時代のように。
「私はあなたの為に、強く在り続ける。あなたの騎士として、そして主として、あなたを守り続けるわ」
だから。
「私と一緒にいてくれる?」
セレネはその美しい満月のような瞳に、私を映す。世界に、二人だけの時間が刻まれていく。
答えは、たった一言。
「はい」
私は、柔らかな手の甲にそっと口づけた。